第七話「魂縁の契り」
黎明の光が静かに消えていく。
緋音の身体は、ふっと軽くなった。
足元から透けるように淡い粒子が立ち上り、風に溶けるように空へと昇っていく。
(……あ、これ……)
胸の奥で、温かい安堵と、少しの寂しさが広がる。
魂が、成仏の道へと還ろうとしていた。
目を閉じれば、穏やかな夜明けのような感覚が包み込む。
「おつかれさま。ゆっくりとおやすみ」
十六夜が穏やかな笑顔で魂の終わりを見届けようとしていた。
――待って、わたしはまだ……!
脳裏に蘇る声があった。
明葉の、最期の笑顔と共に。
『これからも、誰かの夜を照らしてあげて。――きっと、緋音ちゃんならできるから』
その言葉が、胸を強く揺らした。
昇りかけた淡い粒子が、まるで流れ星が軌道を変えるようにふわりと揺れた。
一つ、また一つと光のかけらが逆流し、緋音の胸元へ吸い込まれていく。
その度に、冷えかけていた鼓動が温かさを取り戻し、黎明色の光が薄く滲む。
足元から夜明け前の空が広がるように、色が満ちていった。
「……わたし、まだ……ここにいたい」
緋音がぽつりとつぶやいた。
「死神さん! お願いがあります!」
決意を示す言葉が霊境の空気を震わせる。
「……そう言うと思ってたよ」
十六夜は目を細め、ほんの僅かに口元を緩めた。
まるで、彼女がこの答えに辿り着くことを初めから知っていたかのように。
その瞳には、驚きではなく――静かな確信と、覚悟を測る鋭さが宿っていた。
「わたしを、ここ……死神相談所に居させてくれませんか?まだ終われない。……誰かの夜を、照らし続けたい。それが……わたしの、本当の願いだから!」
十六夜はしばし黙って彼女を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「魂を導くというのは、その痛みも哀しみも、一緒に抱えて進むことだ。」
金色の瞳が、覚悟を測るように鋭く細められる。
「それは……キミの想像を遥かに超える、修羅の道だよ。それでも――キミは誰かの夜を照らしたいと願うのかい?」
緋音は迷わず、たった一つの答えを口にした。
「はい」
声は小さいが、震えはない。
十六夜が一歩踏み込む。
「キミに――その覚悟はあるかい?」
胸の奥が一度だけとくりと脈打つ。
緋音はゆっくりと背筋を伸ばし、十六夜の瞳を正面から見据える。
握った拳に、爪が軽く食い込むほど力を込める。
震えはない。
その瞳には、迷いよりも確かな光が宿っていた。
「……わたし、さっき明葉ちゃんに言われたんです。『これからも、誰かの夜を照らしてあげて』って。あの言葉が胸から離れない。あのとき届いた想いを、今度はもっと広く、もっと確かに届けたいから」
「今、自分が選ぼうとしている道が、どんなに厳しくても、どんな運命が待ち受けていても構いません。この想いは絶対に曲げたくない。声が届くなら――寄り添い続けたい……!」
「それが、わたしの願いです。死神さん、お願いします……!」
緋音は十六夜の瞳をまっすぐに見据えた。
金色と黎明色――二つの光が、霊境の静けさの中で交わる。
互いの奥底まで射抜くような視線は、一瞬のうちに、言葉を超えた共鳴へと変わっていく。
十六夜の睫毛がわずかに震え、瞳の奥で何かが静かにほどけた。
険しかった眼差しが、認めるように和らぎ、口元に微かな笑みが浮かぶ。
そして、ゆるやかに掌を差し出した。
「……いいだろう。キミの魂――死神として僕が導くよ。」
「魂縁の契り――それは、冥界に生きる者と、新たな魂を結び、共に歩むことを誓う儀」
彼の足元に淡い金色の円環が広がり、複雑な紋様と鈴の音が重なる。
「キミの願いが本物なら、この場所で、その灯を受け継ぐ資格がある」
緋音がその手を取った瞬間、黎明色と月光色の光が走り、絡み合う。
魂同士が一瞬だけ重なり、深く澄んだ音が霊境に響いた。
その一音で、互いの痛みも、願いも、魂の奥まで伝わる。
――瑞響は、少し離れた場所からその光景を見ていた。
記録係として数多の契約や共鳴を目にしてきたが、これほどまでに波長が溶け合う瞬間は、記録にも存在しない。
黎明色と金色の光が絡み合い、まるで夜空に星と月が寄り添うようだった。
その波は、瑞響の命核にまで温かく触れ、微かに震わせる。
二人は同時に言葉を紡ぐ。
「“この魂、共に歩む縁と成す。夜を越え、灯を繋ぐ者として――”」
契約の言葉が終わった瞬間、光は弾け、霊境に星と月が重なり合う幻影が広がった。
緋音の手の甲に、小さな金のドクロ紋が浮かび上がる。
十六夜は、静かに口元を緩めた。
「ようこそ、死神相談所へ……暁星緋音さん」
その瞬間、緋音の胸の奥で、小さな鈴の音が確かに響いた。
その音は、胸の奥でいつまでも消えずに響き、彼女の鼓動と重なっていた。
まるで夜明け前の空に灯った一番星のように――。
契りの光が霧散し、霊境に静けさが戻った頃――。
瑞響は人知れず、袖の中から一枚の記録符を取り出した。
その符に、先ほど見た光景が鮮やかに刻まれていく。
黎明色と月光色が絡み合い、魂が縁を結んだ記憶。
瑞響の義眼《響映の眼》には、二人の命核が重なった映像が淡く残っていた。
指先が紙面をなぞるたび、波長の揺らぎが記録符に吸い込まれる。
これは公式記録には残せない――だが、忘れてはいけない光景だった。
瑞響はわずかに目を伏せ、符を丁寧に封じる。
その手つきは、まるで大切な宝物をしまうようだった。
十六夜は、緋音の手の甲に刻まれた小さな金のドクロ紋を見つめ、静かに頷いた。
「これで、キミは正式に死神相談所の一員だ。……僕の助手として、これからよろしく頼むよ」
緋音は胸に手を当て、小さく深呼吸をしてから、そっと口を開く。
「……ねぇ、十六夜くん」
その瞬間――金色の瞳が、微かに揺れる。
十六夜は小さく目を伏せ、わずかに口元を緩めた。
はにかむような、けれど確かな温もりを帯びた微笑み。
「……うん。なんだい、緋音」
その優しさに包まれた声音に、胸が熱くなる。
頬がほんのりと染まり、視線が揺れそうになるのを必死に堪える。
霊境の澄んだ空気の中、黎明の光が緋音の瞳に反射して、まるで夜明けを映す宝石のようにきらめいていた。
「え、えっと。そういえば、ずっと死神さん呼びで名前で呼んだことなかったなって」
「……名前で呼ばれるの、ちょっと……くすぐったいな」
十六夜は、少しだけ視線を逸らし、照れくさそうに笑った。
その笑みは、普段の静謐さを解きほぐしたように柔らかく――年相応の少年そのもの。
緋音にしか見せないその表情は、彼が心から心を許した証でもあった。
ふと、緋音が片手を差し出す。
「じゃあ……約束しよ。これからも、ずっと一緒に夜を越えるって」
十六夜は少し目を丸くした後、ゆっくりとその小指を絡めた。
「……指切り、げんまん。嘘ついたら――」
「千本冥具……だね」
思わず二人とも笑ってしまう。
黎明の光が夜を溶かし、星と月が寄り添う幻影が淡く消えていく。
二人の影は、確かにそこに並んでいた。
こうして――夜を超えて魂を導く死神と、黎明の光を宿す少女の、長い夜明けの物語が静かに幕を開けた。
改めまして、作者の兎月心幸です。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
これにて序章は完結となりますが、これは死神相談所という物語の始まりに過ぎません。これからも十六夜たちと共に夜を越えて頂ければ幸いです。
次回からは、緋音の初めての任務が始まります。
投稿は10月2日22時となります。
どうぞ、末永くよろしくお願いします。




