第六話「黎明に届いた声」
色を失った世界に、かすかな匂いが漂っていた。
湿った土の匂い。どこか遠くで、雨音が続いている。
足元に視線を落とすと、小さな影がひとつ。
幼い子供が、両腕で膝を抱え、じっと空を見上げていた。
その瞳は、光を知らなかった。
――寒い。
――誰も、来ない。
声にならない想いが、空間を染めていく。
緋音は気づく。
これは、自分の記憶ではない。
この場所は――あの邪魂が、生きていた頃の記憶。
色を失った世界に、冷たい雨の匂いが漂っていた。
空は鉛色で、雲は地面に落ちるほど低い。
足元――膝を抱えて座る、小さな人影があった。
痩せこけた腕。濡れた髪が額に貼りつき、肩は小刻みに震えている。
――寒い。
――痛い。
――……だれか。
その声は、唇からではなく、直接胸の奥に響いた。
緋音は思わず、手を伸ばしそうになる。けれど、その指先は彼には届かない。
場面が切り替わる。
埃っぽい廊下。暗い教室。
机の隅で膝を抱え、背中を丸める少年。
声をかける者はいない。通り過ぎる足音と、笑い声だけが残る。
――見ないで。
――放っておいて。
感情は、冷たい水のように重く沈み、やがて黒く濁っていく。
次に見えたのは、病室。
白い天井。消毒液の匂い。
カーテンの向こうで、医者が首を横に振った。
――いやだ。
――まだ、ここにいたい。
その願いは届かず、心臓の音が遠ざかっていく。
視界が暗く閉じていくその瞬間――胸の奥で何かが裂け、温かいものが冷たい闇に飲まれた。
黒紫の霧が滲み、世界を包み込む。
怒り、哀しみ、孤独、絶望――すべてが渦となって、魂を歪めていく。
――もう、だれもいらない。
――すべて、拒絶する。
次の瞬間、緋音は霊境の戦場に引き戻された。
邪魂の霊核が、真っ黒な波を膨れ上がらせている。
その中心には、あの幼い瞳と同じ、光を失った目があった。
思考が現実に引き戻された刹那、耳を裂くような咆哮が霊境を満たした。
邪魂の身体を覆う包帯が裂け、黒紫の霧が噴き出す。
霧は渦を巻き、空間そのものを削り取るかのように暴れ狂った。
天蓋に走る亀裂から、金属を引き裂くような音が響く。
「……っ、霊波が完全に崩壊した」
瑞響の声は硬く、緊張が滲んでいた。
「未練の核、反応消失。救済は――困難です。」
十六夜は一瞬だけ目を伏せ、深く息を吐く。
刃を握り直す手に、決意の重みが宿る。
「……そうか」
彼の足元に淡い冥波が渦を巻く。魂筆を抜き、符を一枚、式符刀の刃に重ねる。
符面の文字が銀光を帯び、月輪を描くように刃を包み込む。
冥波は静かに、しかし鋭く研ぎ澄まされ――鈴の音とともに夜空色の輝きが広がった。
「霊律――月輪断」
それは、魂の奥に刻まれた“過去の傷”を断ち切る一太刀。
月光のような光が刀身を走り、結界の空気を張り詰めさせる。
「ならば、これ以上――苦しまなくていい」
刃が振り上げられた、その瞬間――淡い鈴の音が響いた。
緋音の胸に、鋭い痛みが走る。
脳裏に焼きついたのは、あの幼い瞳。
助けを求める声。
――いやだ。
――まだ、ここにいたい。
「……待って!」
その想いが、理屈よりも先に溢れた。
胸の奥で何かがはじけ、黎明の色が指先から零れ出す。
夜明けの空を染める橙と蒼の揺らぎ――それは彼女の魂そのものが色を変えた証だった。
その光が十六夜の刀を包み、共鳴糸へと走った。
黎明色の光が溢れた瞬間、緋音を包んでいた“普通”が砕け散った。
さっきまでの黒髪は、茜と夜色のグラデーションを帯び、毛先から淡い金の粒子がこぼれ落ちる。
学校の制服は光に溶け、夜明けの空を映したような淡橙と蒼の衣へと変わった。
肩口には透きとおる布がひらめき、胸元には鈴のような紋章が淡く揺らめく。
瞳の奥で星型の光が瞬き、輪郭を縁取るように黎明色が広がっていく。
その姿は、ほんの数秒前まで“どこにでもいる少女”だった面影を残しつつ――
今や闇を押し返す黎明の化身となっていた。
「この波……! 邪波が、揺らいでる……? それにキミ、その姿……」
十六夜の金の瞳が大きく見開かれる。
瑞響もまた、小さく息を呑んだ。
その声は、霊境のざわめきにかき消されるほどの小ささで――
「……黎明の巫女」
誰にも届かない、独り言のような呟きだった。
光は糸を伝い、黒紫の霧へと溶け込んでいく。
触れた瞬間、濁った波がきしみ、軋む音が霊境を満たす。
霧は押し返され、ひび割れた空間から淡い色が滲み出す。
「緋音さん……これは、キミにしかできない」
十六夜が低く告げる。
「……僕と一緒に、あの魂を――」
緋音は震える手を伸ばし、糸を強く握った。
黎明色の輝きがさらに増し、闇を切り裂くように邪魂の中枢へ突き刺さる。
その時――霧の奥に、あの幼い瞳がもう一度だけ、こちらを見た気がした。
次の瞬間、邪魂が絶叫し、暴風のような邪波が四方八方に吹き荒れた。
「っ、まだ抵抗するか……!」
十六夜が刀を構え直す。
黎明色の糸と月光の刃が交差し、闇へと切り込み、押し返される闇の奥で、霊核が悲鳴を上げた。
――反撃の狼煙が、霊境を照らした。
霧は悲鳴を上げるようにざわめき、形を保とうと必死に渦を巻いた。
「緋音さん、揺らぎを保って!」
「はい……!」
緋音の声が震えながらも、糸を通して確かに届く。
黎明色の波は淡く揺れ、邪波の中で脈を打つたびに、霧がひび割れていった。
十六夜はその隙を逃さない。
刃が月光を撒き散らしながら、包帯の下に隠された霊核の近くへと迫る。
だが、邪魂が咆哮を上げ、無数の影の腕が十六夜を絡め取ろうと伸びてきた。
「くっ……!」
迫る影を一閃で断ち切るが、その間にも霧は再び濃くなる。
霊境の地面がひび割れ、奈落の闇が覗いた。
「瑞響!」
「了解。補助波、送ります――」
後方の瑞響が符を投げ、空中で灰色の光が爆ぜた。
それが共鳴糸に沿って十六夜の冥波を補強し、揺らぎが安定する。
「今だ!」
「……っ!」
緋音は瞼を閉じ、胸の奥から言葉にならない願いを糸へと込めた。
――届いて。
黎明色が一気に膨れ上がり、黒紫の波を押し返す。
次の瞬間、霧が裂けた。
露わになった霊核は、割れたガラスのように脆く震えている。
その奥に――幼い瞳が、またこちらを見ていた。
黎明色と月光が重なり、刃と糸が同時に霊核へと届いた。
黒紫の波は音もなく崩れ、霧は光へと変わっていく。
重く淀んでいた空気が、一瞬で澄み渡った。
静寂――ただ、黎明色の揺らぎだけが残る。
耳に残るのは鼓動の音と、自分の呼吸だけ。
その静けさが、先ほどまでの死闘が現実だったと告げていた。
「もう……大丈夫だよ」
緋音は黎明色の揺らぎを纏ったまま、ふらりと一歩、邪魂へ近づいた。
黒紫の霧が牙を剥きかける――しかし、その光に触れた瞬間、波がためらうように揺らぐ。
緋音は迷いなく、その歪んだ影をそっと抱きしめた。
氷のように冷たかった存在が、光に包まれてわずかに震える。
「やっと――届いた……」
耳元で囁く声は、祈るように優しい。
「どうかあなたに、優しい夜明けが訪れますように」
その瞬間、邪魂の奥底に沈んでいた闇が、かすかにほどけていった。
霧の中で、一瞬だけ“人”の瞳が現れ、安堵の色を宿す。
そしてその光景は、黎明の光とともに静かに溶けて消えていった――。
光の中から、小さな影が解き放たれる。
それは、泣き笑いのような顔をして――やがて星屑のように霧散した。
十六夜は静かに刀を下ろし、深く息を吐く。
金の瞳が緋音を捉える。その視線には、安堵と、わずかな驚きと、誇らしさが混じっていた。
彼は一歩近づき、声を低く落とす。
「……よく頑張ったね」
その声音は、戦場では滅多に聞けないほど柔らかかった。
冷静な死神の顔ではなく、一人の人間として、緋音を認める響き。
瑞響は少し離れた位置でそのやり取りを見ていた。
無表情に見える顔の奥で、義眼の奥がわずかに震える。
記録係の死神として、感情に流されることはない――はずだった。
だが今、胸の奥に静かな熱が灯るのを、確かに感じていた。
彼は小さく息を呑み、低く呟く。
「……黎明の巫女。記録に残す価値が、ある」
緋音は小さく息を整え、視線を落とす。
黎明色の光はまだ消えず、指先から淡く揺らめき続けていた。
その中に――ふわりと、小さな粒子が舞い上がる。
ほのかな金と茜の光を宿した、“記憶のかけら”のような存在。
それは、まるで彼女を導くように漂い、手元で柔らかく瞬いた。
「これは……?」
緋音がそっと手を伸ばすと、粒子は応えるように舞い上がる。
空間が淡く揺れ――“誰か”の声が、確かに響いた。
『……緋音ちゃん』
耳に届いたその声に、緋音は息を呑む。
優しくて、懐かしくて、胸の奥を震わせる声――
光の粒が集まり、輪郭を形作る。
髪が揺れ、瞳が輝き、微笑むその姿。
「……明葉、ちゃん……?」
瞳から、堰を切ったように涙がこぼれる。
「ごめん……ごめんね……わたし、あのとき……何もできなくて……!」
膝をつき泣き崩れる緋音の前で、明葉はそっと膝をつき、その手を包み込む。
「わたしね、ずっと分かってたよ。緋音ちゃんの声、届いてた」
緋音は顔を上げる。
「でも、助けられなかった……!」
「……助けてほしいなんて、言えなかったの。緋音ちゃんが自分を後回しにしちゃうって、分かってたから」
震える声のまま、緋音は言葉を搾り出す。
「わたし……あのとき、明葉ちゃんの手……離したくなかったよ……!」
明葉は微笑み、涙を拭う。
「わたしね、すっごく嬉しかったんだよ。緋音ちゃんが声を信じてくれたこと。誰かのために泣いてくれたこと」
輪郭が淡くほどけ、星屑のような光に変わっていく。
「……ちゃんと届いてたんだ。あのときも、今も。――ありがとう、緋音ちゃん。もう、だいじょうぶ」
緋音の目に、星のような光が宿る。
「わたしの声も……明葉ちゃんに、届いてた……?」
「うん。――ずっと、そばにいてくれた」
二人は、もう言葉もなく抱き合った。
やっと交わせた想いと、やっと届いた祈り。
光だけが優しく二人を包み込んでいく。
明葉が小さく息を吸い、微笑む。
「緋音ちゃん……あのとき伝えたかった言葉、覚えてる?」
記憶がフラッシュバックする――
『――これ……も――……の夜を……してあげ……』
微笑みながら、明葉は最期の言葉を告げた。
「これからも、誰かの夜を照らしてあげて。――きっと、緋音ちゃんならできるから」
緋音は涙をこらえ、強く頷いた。
胸の奥で、何かが確かに灯る。
その灯りは、闇の中で決して消えない小さな星のように、温かく脈打っていた。
頬を伝う涙は止まらないけれど、その笑みだけは揺るがなかった。
明葉の光が指先から零れ落ちるたび、
それは静かに夜を照らし――やがて、緋音の魂の奥に溶け込んでいく。




