第五話「黎明の声」
──霊境に、不穏な風が吹いた。
夜空を模した天蓋に、黒い波紋がじわりと広がる。
星々の瞬きが濁り、風のない空間に、ざらつく金属音のような微かな響きが走った。
冷気が足元を這い、胸の奥をひやりと撫でていく。
「……来たね」
十六夜が低く呟き、相談所の扉を開け放つ。
腰には魂筆――魂の想いを詠い、術式を紡ぐ冥具。
手には式符刀――未練の糸を断ち切る刃。
その足元で、小鈴が空気の揺らぎに応じ、かすかに鳴った。
「十六夜様。霊波異常、確認しました」
瑞響が白紙の記録用紙を片手に現れ、左目の義眼が淡く光を放つ。
「負の霊波濃度、臨界超え。霊境内部に――邪魂、侵入」
「結界は?」
「無効化されています。波形が流動的で、遮断不能」
短く息を吐き、十六夜の周囲に淡い光の粒子が舞い始める。
魂そのものが震え、空気がわずかに揺らぐ。
「瑞響、共鳴準備は?」
「いつでも」
十六夜は刀を構える前に、静かに右手を掲げた。
「……共鳴糸、展開」
その声と同時に、指先から細く輝く糸が解き放たれる。
夜色の光を帯びたその糸は、空間を漂いながら瑞響の指先と――そして緋音の胸元へと伸び、そっと触れた。
「共鳴糸は、死神同士や魂を繋ぐための媒介だ。」
「……媒介?」
「邪魂の霊核に直接冥波を流すと、邪波に弾かれて命核が壊れる危険がある。だから、この糸を通して波長を合わせる。――安全に、深く繋がるために」
緋音は短く息を吸い、こくりと頷いた。
「……命核ってなんですか? 霊核っていうのと何が違うんでしょうか?」
緋音は思わず口にしていた。
「命核は、死神の心臓となる命の核だよ」
十六夜は短く答え、胸元にそっと手を当てた。
「これを完全に壊されると、僕たち死神は消滅する。ひびが入るだけでも……人格が変わる危険がある」
胸に触れた光の糸が、途端にずしりと重く感じられる。
心臓の奥を掴まれるような圧迫感――それは、救えなかったあの日の記憶を呼び起こした。
鼓動のたびに、指先まで冷たく痺れていく。
「……っ」
思わず息が詰まり、視線を落とした。
「霊核は……人間や魂が持つ核のことだ。死神にとっての命核と似ているけど、構造も強度も違う。命核と同様に破壊されるとその魂は霧散する。つまり、邪魂は、この霊核を破壊すれば倒せるってこと」
「それじゃあ、わたしは結局何をすれば……?」
問いかけながらも、胸の奥で小さな不安がざわつく。
何もできずに足を引っ張ってしまうんじゃないか――そんな予感が喉を締めつけた。
十六夜はそんな緋音の揺らぎを見透かしたように、ほんのわずか口元を緩める。
金色の瞳に浮かんだ光は、まるで「大丈夫だ」と告げる月明かりのようだった。
「冥波は、命核から放たれる魂の波長だ。響かせれば感情や記憶に触れられる」
十六夜はそう言いながら、胸元に触れていた手をそっと糸へ滑らせる。
指先が光を揺らし、緋音の方へと導く。
「――キミは、この共鳴糸を通して、ただ声を重ねればいい」
穏やかに告げられたその声は、ざわついていた胸の奥を静めていく。
「魂のキミでは直接干渉はできない。でも……想いを探すことはできるはずだ」
その瞬間――空が裂けた。
闇を纏う亀裂から、黒紫の霧がにじみ出す。
それは重く、冷たい、感情の塊。
怒り、哀しみ、孤独、絶望――あらゆる負が混ざり合い、波となって押し寄せる。
やがて“影”が降り立った。
包帯でぐるぐると巻かれた身体は、ほとんど人の形を留めていない。
ところどころから、乾ききった皮膚や黒くひび割れた爪が覗く。
割れた顔の半分は霧に覆われ、その奥で光る瞳は、ただ徹底的な拒絶だけを宿していた。
「……あれが、邪魂……」
背後で、緋音が息を呑む。
胸の奥に、言いようのない痛みが走った。
かつては人間だった魂――だが存在を否定され、誰にも気づかれず、孤独のまま命を落とした者。
その想いは救済の光からも見放され、今は拒絶の闇だけを抱えている。
闇を纏う亀裂から、黒紫の霧がにじみ出す。
それは――邪波。
邪魂が放つ負の霊波で、触れるだけで命核や霊核を侵蝕し、魂を削り取る“拒絶の波”だ。
冷気とも熱ともつかない痛みが肌を刺し、耳の奥で金属がきしむような音が鳴り続ける。
息を吸うたび胸の奥が重くなり、心臓の鼓動が乱れる。
ただ近くにいるだけで、魂そのものを削られていく感覚――。
「瑞響」
「了解。断章結界・灰式囲、起動」
符を掲げる瑞響の手から光が広がり、六芒星の陣が結界を形成する。
音がすっと消え、外界との霊波は完全に遮断された。
残されたのは三人と、ひとつの歪んだ魂。
「これは、“記録者”と“導き手”による……魂との対話……」
緋音の声は、わずかに震えていた。
十六夜が刀を抜く。
月光を纏った刃が、音もなく煌めく。
「僕の名は十六夜。“死神”として、君の終わりに立ち会う」
邪魂の波長が一気に膨れ、空間が歪む。
だが十六夜の声は、深い静けさを湛えていた。
「――始めようか」
その言葉が霊境に響いた瞬間、
沈黙を切り裂く運命の一太刀が、邪魂の黒い霧を裂いた。
波長が衝突し、空間がびりびりと震える。
「……っ!」
緋音は胸を押さえ、共鳴糸の奥で脈打つ何かを感じた。
息を吸うよりも先に、口が勝手に動く。
「――もう……やめて」
ただ、届いてほしいという気持ちだけを込めた声。
それは冥波でも術でもない、けれど確かに糸を伝って走った。
覆っていた黒霧が、音もなく揺らぐ。
その瞬間、時間が粘つくように遅くなった。
揺らぎの奥――かすかに、涙を湛えた人の瞳が覗く。
それは消える寸前の灯火のように、弱く、儚かった。
「……今の、何だ?」
十六夜の金の瞳が、わずかに見開かれる。
緋音は答えられず、ただ糸を握りしめるしかなかった。
六芒星の結界が完全に閉じると同時に、邪魂が咆哮した。
割れた口から噴き出す黒紫の霧が、床を這い、壁を蝕む。
「下がって!」
十六夜の声と同時に、緋音の前を銀光が走った。
式符刀が霧を裂き、散った邪波が火花のように弾ける。
「……邪波を直に浴びたら、キミは一瞬で魂が砕ける。気を付けて!」
低く落ちた声が、鼓膜だけでなく胸の奥を震わせる。
邪魂は長く歪んだ腕を伸ばし、爪のような影を叩きつけてくる。
十六夜はそれを紙一重でかわし、逆手に握った刀で切り返した。
刃先から放たれる冥波の衝撃が、霧の一部を押し返す。
「十六夜様、左側から回り込みます!」
後方の瑞響が符を投げると、光の陣が邪魂の足元で炸裂した。
冥波の拘束が数秒だけ動きを止める。
「助かる」
十六夜はすぐさま踏み込み、刀と魂筆を交互に操って攻め込む。
魂筆で書き出された符が空中に浮かび、瞬く間に刃の軌跡と重なり、連続の冥波斬を形成する。
だが、邪魂はただの力任せの存在ではなかった。
包帯の隙間から覗く片目が、鈍い光を放つ。
次の瞬間、霧が一気に渦を巻き、十六夜の背後へ回り込もうとする――。
「危ない!」
緋音の声と同時に、十六夜は身をひねって緋音の前に立った。
刀が霧の爪を弾き、その衝撃が結界の床をひび割れさせる。
「……平気?」
「は、はい……」
緋音は必死に頷いたが、手は震えていた。
その震えを感じ取った十六夜は、小さく息を吐く。
「瑞響、援護を強めて」
「了解――記録符、三重展開」
瑞響の義眼が光を放ち、空中に浮かんだ符に、次々に術式が描き出される。
拘束、衝撃波、波形解析――三種の術式が同時に重なり、邪魂の動きが鈍った。
十六夜は刀を振るいながら、左手の共鳴糸を邪魂へと伸ばす。
しかし、霊核に触れる寸前で――糸が弾かれた。
その瞬間、黒紫の波が逆流し、骨の奥まで冷たさが突き刺さる。
肌を裂くようなざらつきが、命核の中心にまで染み込み、鼓動を軋ませた。
耳の奥で金属を削るような音が響き、視界がわずかに滲む。
「くっ……邪波の反発が強すぎる」
額に汗が滲み、糸の光が不安定に揺らいだ。
その時だった。
緋音の胸の奥が、強く締めつけられる。
視界の端で、包帯に覆われた影が震えて見えた。
――助けたい。
その想いが、理屈よりも先に溢れた。
ふと、緋音の指先から淡い黎明色の光がにじみ出す。
夜明けの空を思わせる、柔らかな橙と青の揺らぎ。
それが、十六夜の共鳴糸に触れた瞬間――波が重なった。
「……これは、冥波じゃない」
十六夜がわずかに目を見開く。
しかし、その表情はすぐに確信へと変わった。
「でも……波長が合う……!」
「……緋音さん、僕の糸に手を重ねて」
十六夜が緋音に手を差し出す
「え……でもわたし――」
「いいから。キミのそれなら、邪波を揺らせる」
促されるまま、緋音は震える指先で糸を握る。
次の瞬間、二人の波が溶け合い、邪魂の核へと届いた。
景色が、色を失っていく――。
気づけば緋音は、知らない誰かの記憶の中に立っていた。
その記憶が――邪魂の叫びの正体だった。