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死神相談所  作者: 兎月心幸
序章
6/8

第五話「黎明の声」

 ──霊境に、不穏な風が吹いた。

 夜空を模した天蓋に、黒い波紋がじわりと広がる。


 星々の瞬きが濁り、風のない空間に、ざらつく金属音のような微かな響きが走った。

 冷気が足元を這い、胸の奥をひやりと撫でていく。


「……来たね」


 十六夜が低く呟き、相談所の扉を開け放つ。

 腰には魂筆――魂の想いを詠い、術式を紡ぐ冥具。

 手には式符刀――未練の糸を断ち切る刃。


 その足元で、小鈴が空気の揺らぎに応じ、かすかに鳴った。


「十六夜様。霊波異常、確認しました」


 瑞響が白紙の記録用紙を片手に現れ、左目の義眼が淡く光を放つ。


「負の霊波濃度、臨界超え。霊境内部に――邪魂、侵入」

「結界は?」

「無効化されています。波形が流動的で、遮断不能」


 短く息を吐き、十六夜の周囲に淡い光の粒子が舞い始める。

 魂そのものが震え、空気がわずかに揺らぐ。


「瑞響、共鳴準備は?」

「いつでも」


 十六夜は刀を構える前に、静かに右手を掲げた。


「……共鳴糸、展開」


 その声と同時に、指先から細く輝く糸が解き放たれる。

 夜色の光を帯びたその糸は、空間を漂いながら瑞響の指先と――そして緋音の胸元へと伸び、そっと触れた。


「共鳴糸は、死神同士や魂を繋ぐための媒介だ。」

「……媒介?」


「邪魂の霊核に直接冥波を流すと、邪波に弾かれて命核が壊れる危険がある。だから、この糸を通して波長を合わせる。――安全に、深く繋がるために」


 緋音は短く息を吸い、こくりと頷いた。

「……命核ってなんですか? 霊核っていうのと何が違うんでしょうか?」

 緋音は思わず口にしていた。


「命核は、死神の心臓となる命の核だよ」

 十六夜は短く答え、胸元にそっと手を当てた。

「これを完全に壊されると、僕たち死神は消滅する。ひびが入るだけでも……人格が変わる危険がある」


 胸に触れた光の糸が、途端にずしりと重く感じられる。

 心臓の奥を掴まれるような圧迫感――それは、救えなかったあの日の記憶を呼び起こした。

 鼓動のたびに、指先まで冷たく痺れていく。


「……っ」

 思わず息が詰まり、視線を落とした。


「霊核は……人間や魂が持つ核のことだ。死神にとっての命核と似ているけど、構造も強度も違う。命核と同様に破壊されるとその魂は霧散する。つまり、邪魂は、この霊核を破壊すれば倒せるってこと」


「それじゃあ、わたしは結局何をすれば……?」

 問いかけながらも、胸の奥で小さな不安がざわつく。

 何もできずに足を引っ張ってしまうんじゃないか――そんな予感が喉を締めつけた。


 十六夜はそんな緋音の揺らぎを見透かしたように、ほんのわずか口元を緩める。

 金色の瞳に浮かんだ光は、まるで「大丈夫だ」と告げる月明かりのようだった。


「冥波は、命核から放たれる魂の波長だ。響かせれば感情や記憶に触れられる」


 十六夜はそう言いながら、胸元に触れていた手をそっと糸へ滑らせる。

 指先が光を揺らし、緋音の方へと導く。


「――キミは、この共鳴糸を通して、ただ声を重ねればいい」


 穏やかに告げられたその声は、ざわついていた胸の奥を静めていく。


「魂のキミでは直接干渉はできない。でも……想いを探すことはできるはずだ」


 その瞬間――空が裂けた。

 闇を纏う亀裂から、黒紫の霧がにじみ出す。

 それは重く、冷たい、感情の塊。

 怒り、哀しみ、孤独、絶望――あらゆる負が混ざり合い、波となって押し寄せる。


 やがて“影”が降り立った。

 包帯でぐるぐると巻かれた身体は、ほとんど人の形を留めていない。

 ところどころから、乾ききった皮膚や黒くひび割れた爪が覗く。

 割れた顔の半分は霧に覆われ、その奥で光る瞳は、ただ徹底的な拒絶だけを宿していた。


「……あれが、邪魂……」


 背後で、緋音が息を呑む。

 胸の奥に、言いようのない痛みが走った。

 かつては人間だった魂――だが存在を否定され、誰にも気づかれず、孤独のまま命を落とした者。

 その想いは救済の光からも見放され、今は拒絶の闇だけを抱えている。


 闇を纏う亀裂から、黒紫の霧がにじみ出す。

 それは――邪波。

 邪魂が放つ負の霊波で、触れるだけで命核や霊核を侵蝕し、魂を削り取る“拒絶の波”だ。


 冷気とも熱ともつかない痛みが肌を刺し、耳の奥で金属がきしむような音が鳴り続ける。

 息を吸うたび胸の奥が重くなり、心臓の鼓動が乱れる。


 ただ近くにいるだけで、魂そのものを削られていく感覚――。


「瑞響」

「了解。断章結界・灰式囲はいしきい、起動」


 符を掲げる瑞響の手から光が広がり、六芒星の陣が結界を形成する。


 音がすっと消え、外界との霊波は完全に遮断された。


 残されたのは三人と、ひとつの歪んだ魂。

「これは、“記録者”と“導き手”による……魂との対話……」


 緋音の声は、わずかに震えていた。

 十六夜が刀を抜く。

 月光を纏った刃が、音もなく煌めく。


「僕の名は十六夜。“死神”として、君の終わりに立ち会う」


 邪魂の波長が一気に膨れ、空間が歪む。

 だが十六夜の声は、深い静けさを湛えていた。


「――始めようか」

 その言葉が霊境に響いた瞬間、

 沈黙を切り裂く運命の一太刀が、邪魂の黒い霧を裂いた。


 波長が衝突し、空間がびりびりと震える。

「……っ!」


 緋音は胸を押さえ、共鳴糸の奥で脈打つ何かを感じた。


 息を吸うよりも先に、口が勝手に動く。

「――もう……やめて」

 ただ、届いてほしいという気持ちだけを込めた声。


 それは冥波でも術でもない、けれど確かに糸を伝って走った。

 覆っていた黒霧が、音もなく揺らぐ。

 その瞬間、時間が粘つくように遅くなった。

 揺らぎの奥――かすかに、涙を湛えた人の瞳が覗く。


 それは消える寸前の灯火のように、弱く、儚かった。


「……今の、何だ?」


 十六夜の金の瞳が、わずかに見開かれる。

 緋音は答えられず、ただ糸を握りしめるしかなかった。


 六芒星の結界が完全に閉じると同時に、邪魂が咆哮した。

 割れた口から噴き出す黒紫の霧が、床を這い、壁を蝕む。


「下がって!」


 十六夜の声と同時に、緋音の前を銀光が走った。

 式符刀が霧を裂き、散った邪波が火花のように弾ける。


「……邪波を直に浴びたら、キミは一瞬で魂が砕ける。気を付けて!」


 低く落ちた声が、鼓膜だけでなく胸の奥を震わせる。

 邪魂は長く歪んだ腕を伸ばし、爪のような影を叩きつけてくる。


 十六夜はそれを紙一重でかわし、逆手に握った刀で切り返した。

 刃先から放たれる冥波の衝撃が、霧の一部を押し返す。


「十六夜様、左側から回り込みます!」


 後方の瑞響が符を投げると、光の陣が邪魂の足元で炸裂した。

 冥波の拘束が数秒だけ動きを止める。


「助かる」


 十六夜はすぐさま踏み込み、刀と魂筆を交互に操って攻め込む。

 魂筆で書き出された符が空中に浮かび、瞬く間に刃の軌跡と重なり、連続の冥波斬を形成する。


 だが、邪魂はただの力任せの存在ではなかった。

 包帯の隙間から覗く片目が、鈍い光を放つ。

 次の瞬間、霧が一気に渦を巻き、十六夜の背後へ回り込もうとする――。


「危ない!」

 緋音の声と同時に、十六夜は身をひねって緋音の前に立った。

 刀が霧の爪を弾き、その衝撃が結界の床をひび割れさせる。


「……平気?」

「は、はい……」

 緋音は必死に頷いたが、手は震えていた。

 その震えを感じ取った十六夜は、小さく息を吐く。


「瑞響、援護を強めて」

「了解――記録符、三重展開」


 瑞響の義眼が光を放ち、空中に浮かんだ符に、次々に術式が描き出される。

 拘束、衝撃波、波形解析――三種の術式が同時に重なり、邪魂の動きが鈍った。


 十六夜は刀を振るいながら、左手の共鳴糸を邪魂へと伸ばす。

 しかし、霊核に触れる寸前で――糸が弾かれた。


 その瞬間、黒紫の波が逆流し、骨の奥まで冷たさが突き刺さる。

 肌を裂くようなざらつきが、命核の中心にまで染み込み、鼓動を軋ませた。


 耳の奥で金属を削るような音が響き、視界がわずかに滲む。

「くっ……邪波の反発が強すぎる」


 額に汗が滲み、糸の光が不安定に揺らいだ。

 その時だった。

 緋音の胸の奥が、強く締めつけられる。

 視界の端で、包帯に覆われた影が震えて見えた。


 ――助けたい。

 その想いが、理屈よりも先に溢れた。

 ふと、緋音の指先から淡い黎明色の光がにじみ出す。

 夜明けの空を思わせる、柔らかな橙と青の揺らぎ。


 それが、十六夜の共鳴糸に触れた瞬間――波が重なった。

「……これは、冥波じゃない」

 十六夜がわずかに目を見開く。

 しかし、その表情はすぐに確信へと変わった。

「でも……波長が合う……!」

「……緋音さん、僕の糸に手を重ねて」


 十六夜が緋音に手を差し出す

「え……でもわたし――」

「いいから。キミのそれなら、邪波を揺らせる」


 促されるまま、緋音は震える指先で糸を握る。

 次の瞬間、二人の波が溶け合い、邪魂の核へと届いた。


 景色が、色を失っていく――。

 気づけば緋音は、知らない誰かの記憶の中に立っていた。

 その記憶が――邪魂の叫びの正体だった。

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