第四話「涙と決意の先に」
その灯りは、静かに揺れながら遠ざかっていく。
記憶の景色が、波紋に呑まれるようにほどけていく。
――気づけば、私は相談所の椅子に座っていた。
瑞響が義眼の光をそっと収め、記録帳を開く。
十六夜の穏やかな声が、現実に私を引き戻す。
けれど胸の奥では、さっきまで見ていた景色の温度がまだ消えきらずに残っていた。
手のひらに感じた温もりが、今も確かに脈打っている。
胸の奥に残っていた痛みが、堰を切ったように溢れ出した。
「……っ、うぅ……っ」
目を閉じても、あの光景が焼きついて離れない。
もっと話したかった。ずっと一緒にいたかった。
助けられなかった自分が、ただ悔しくて、情けなくて――涙が止まらなかった。
そのとき。
隣から、そっと手が伸びた。
「それでも、キミは――手を伸ばした」
静かで、優しい声だった。
顔を上げると、そこには十六夜がいた。
その金色の瞳は、まっすぐに私を見つめていた。
悲しみも、迷いも、すべてを受け止めるような眼差しで。
「過去を変えることはできない。けど、想いを繋ぐことはできる。……キミの声は、きっと誰かに届く。そう、信じていいんだ」
それは、彼自身が――誰かを救えなかった過去を抱えながらも、
ずっと信じてきた“願い”でもあった。
「僕は――本当に大切な人を失いそうなとき……手を伸ばすことすら出来なかったから……」
低く落ちた声は、空気ごと温度を奪う。
その瞬間、十六夜の瞳に月影のような陰りが差した。
金色の光がかすかに揺れ、そこに映るのは今ではない“どこかの夜”。
薄く開いた唇はわずかに震え、堪えるように息を整える。
普段は揺らがないはずの瞳が、今だけは微かに潤んで見えた。
「……死神さん……?」
「ごめん。今のはちょっとした独り言。気にしないで」
そう言って、十六夜は笑ってみせる。
けれど、その笑顔の奥に、一瞬だけ影が差した気がした。
その中で、瑞響だけが、静かに目を伏せていた。
緋音は袖で涙を拭って、深く息を吸い、吐く。
あのときの決意を無駄にしないために、今度こそ離さないように。
「死神さん。わたし……もう迷いません。今度こそ、この手を離さない。誰かの未来を、ちゃんと繋ぎます」
言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった氷がわずかにひび割れる音がした。
「……よく、向き合ったね」
十六夜が、ふわりと笑った。
慰めでも同情でもない、ただ事実を肯定するだけの言葉。だからこそ、まっすぐに届く。
瑞響が静かに記録帳を閉じ、顔を北に向ける。
「これは――」
義眼が淡く光を宿し、その瞳は何かを射抜くように細められていた。
――その時。
応接室に吊るされた無数の鈴が、一斉に鳴り響く。
澄んだ音色が、空気のざわめきを裂くように広がる。
ひやりとした冷気が、床下から這い上がる。
淡い金色の粒子が波紋のように広がり、視界の端がかすかに揺らめき、まるで、空間そのものが凍りつくような、鈍く冷たい気配が辺りを満たしていく。
瑞響が静かに首を上げた。
「……異常霊波。霊境外縁部にて、急速に接近中」
緋音は、無意識に肩を抱く。
さっきまで穏やかだった空気が、今は皮膚を刺すような寒気を孕んでいた。
「……なに? この、ざわざわする感じ……」
「霊境の“外”から、邪魂の霊波が流れ込んできてる。恐らく……凶魂クラス」
十六夜の声は低く、緊張を帯びていた。
扉の向こうで、空間がゆらりと歪む。
そこから“現実ではない何か”が、静かに染み出している――。
「外に出るよ、瑞響。……緋音は、ここで待ってて。危ないから」
十六夜が立ち上がり、腰の刀に手をかけた、その瞬間――
「待ってください――!」
緋音の声は、震えていなかった。
「……わたし、死神じゃないし、戦えるわけじゃない。でも、この“声”で少しでも届くなら……行きたいんです」
深く息を吸い込み、想いをぶつけるように言葉を重ねる。
「あの日、わたしは手を離してしまった。勝手だってことも、迷惑だってことも分かってます……。でも――今度こそ誰かを救いたい……もう一度、手を伸ばしたいんですっ……!」
数秒の沈黙。
瑞響が、静かに告げる。
「魂の共鳴波長、安定しています。危険域には至っていません。随行、許可可能です」
十六夜は、緋音を見つめた。
その瞳の奥に、迷いはない。
「……わかった。離れないでよ、緋音さん」
「何があっても、僕と瑞響が守るから。だから――信じて、ついてきて」
「はい!」
緋音の足取りはまだ頼りない。
それでも、その瞳は確かに前を見ていた。
“守られている”安心感が、背中をそっと押す。
邪魂が棲む、深い夜の向こうへ――。
魂を導く最初の一歩が踏み出される。
そしてその先から、低く唸るような声が迫ってきた。