外伝「時計の傀儡の断てない糸・其の三」
その瞬間だった。
――ラディスの命核が、微かに震えた。
通信ではない。冥波でもない。誰かの“声”ですらない。
ただ、剥き出しの感触だけが、流れ込む。
息を吐く間もないほど短い。
言葉になる前の、意思になる前の、
――「生きろ」
そう“意味づけてしまった”のは、ラディス自身だった。
本当にそう言われたのかは、分からない。命令でも、願いでもない。
ただ、前へ進むことだけを許すような、重さだけが残った。
次の瞬間、命核の震えは完全に途切れた。
柱時計が、三度目の音を刻む。
カチ。
それ以上、何も届かない。
ラディスは、一歩も動かなかった。
追うことはできた。引きずり出そうと思えば、無理をすれば――できたかもしれない。
だが、それは隊を壊す行動だと分かっていた。
拳を、強く握る。
感情を殺す。判断だけを残す。
それが、今この場で、自分に託された役割だった。
「……全員、下がれ」
声は低く、はっきりしていた。
凛火が、信じられないという顔で睨む。
「ラディス、あんた――!」
「今は、感情を優先する場面じゃない」
冷たい言い方だった。だが、意図的だった。
「ここで隊形を崩せば、朧の判断が無駄になる」
一瞬だけ、視線が震える。それでも、逸らさない。
「……生きて帰るぞ」
その言葉だけが、彼に残された“答え”だった。
中央ホールに、誰も動かない時間が落ちていた。
壁に増えた一枚の肖像画――隊長・朧は、もう動かない。
凛火が、歯を噛みしめたまま声を絞り出す。
「……嘘でしょ」
否定の言葉ですらなかった。
事実を、まだ受け取れていないだけの音。
水音は俯いたまま、澪心鈴を強く握りしめている。
鈴は沈黙していた。慰めも、警告も、もう与えない。
ユーノは、声を出せなかった。
ルミナメモリーの盤面は白く焼け、何ひとつ記録していない。
それが逆に、「ここで何が起きたか」を雄弁に語っていた。
ラディスは、肖像画から目を離さなかった。
穏やかな表情。疑いも、恐怖もない顔。
――あの人は、最後まで“隊長”のままだった。
その事実だけが、胸の奥で静かに沈んでいく。
(……生きろ)
命核の深層に、まだ微かな冥波の残響がある。
声ではない。言葉でもない。
けれど確かに、託された方向だけが残っていた。
ラディスは、ゆっくりと息を吐く。
ここは調査場所じゃない。確かめれば確かめるほど、人を“位置”に変える空間だ。
朧は、それを見抜いたから前に出た。だから――最初に抜かれた。
同じことを繰り返すわけにはいかない。
「……調査は打ち切る」
凛火が、はっと顔を上げる。
「は?」
だが、噛みつく言葉は続かなかった。
ラディスの声に、いつもの刃がない。
「ここは“知る場所”じゃない。居続けるほど、削られる」
水音が、遅れて頷く。
「……同意します。澪心鈴が、もう“測る意味がない”って」
ユーノが、不安そうにラディスを見る。
「じゃ、じゃあ……どうするんですか」
ラディスは、答える前に一度だけ肖像画へ視線を戻した。
微笑みは、変わらない。
「出る」
短い言葉だった。
「全員で、ここから出る方法を探す。分断されたら合流優先」
視線が、凛火、水音、ユーノへ順に向く。
「絵には触れるな。見すぎるな。――記録も、最低限だ」
それは命令ではない。生き残るための線引きだった。
凛火は、数秒だけ黙り込んでから、舌打ちひとつで頷いた。
「……分かったわよ。隊長が命懸けで作った道、無駄にしない」
水音も、小さく息を整える。
「出口を探します。感情の流れじゃなく、空間の歪みを」
ユーノは、震える手でルミナメモリーを閉じた。
「……記録、止めます。必要な時だけ、使います」
ラディスは、何も言わない。
ただ一歩、前に出た。
先頭に立つつもりはなかった。
誰かを導く覚悟も、まだない。
けれど――この場で“止まらない役”は、もう自分しかいなかった。
床が、かすかに軋む。
肖像画の微笑みが、ほんの少しだけ深くなった気がした。
屋敷は、彼らが「出る」と決めたことを、確かに聞き取っていた。
玄関は、そこにあった。
扉も、把手も、装飾も、
来たときと何ひとつ変わらない。
「……出られるわよね」
凛火が、確かめるように言う。
返事はなかった。
誰も「出られる」と言えなかった。
凛火は、苛立ちを誤魔化すように一歩踏み出す。
石床に、確かな足音が落ちた。
進んでいる。
確かに、前へ。
それなのに――
「……?」
凛火の足が、止まる。
もう一歩。
さらに一歩。
距離が、縮まらない。
「……嘘でしょ」
凛火は、ゆっくりと振り返った。
「ねえ、ラディス。これ……」
言葉の途中で、口を閉ざす。
玄関は、変わらず“同じ距離”にある。
五歩進んでも、十歩進んでも。
まるで、背景の絵のように。
水音が、澪心鈴を鳴らした。
澄んだ音が、空間に広がる――はずだった。
だが、反響は足元で止まる。
前方から、返ってこない。
水音の眉が、わずかに寄る。
「……出口が遠いんじゃない」
静かに、断定する。
「“出口という方向”が、存在していません」
凛火が、喉を鳴らす。
「どういう……意味?」
水音は、首を振った。
「結界なら、遮断の感触がある。でも、これは違う」
「最初から……向かう先が、設定されていない」
ラディスは、黙ったまま冥波を走らせていた。
赤黒い糸の気配は、ある。
屋敷全体に、絡みつくように。
だが――
断つべき“境界”が、見つからない。
「……“外”が、ない」
思わず零れた言葉。
その瞬間だった。
コトン、と
どこかで、食器が置かれる音がした。
全員が、凍りつく。
続いて、椅子を引く音。
柔らかな足音。
生活音。
――この屋敷で、
一番、あってはいけない音。
ユーノが、唇を震わせる。
「……いまの……」
声に、ならなかった。
声は聞こえない。
だが、意味だけが、直接流れ込んでくる。
「帰るの?」
という、問い。
ラディスは、理解した。
出ようとしたから、反応した。
調査ではない。破壊でもない。
“外に出る意思”そのものを、
この屋敷は検知している。
玄関は、ある。
扉も、鍵も、壊れていない。
だが――
外へ続いている、という意味だけが、
最初から、どこにも存在していなかった。
凛火が、低く息を吐く。
「……詰んでる、ってこと?」
ラディスは、首を振らない。
肯定もしない。
ただ、言った。
「……まだ、探す」
それは希望じゃない。
義務だった。
止まれば、
朧の判断が無駄になる。
屋敷の奥で、
柱時計が、静かに鳴った。
カチ。
まるで、
「理解したわね」と言うように。
生活音は、もう聞こえない。
代わりに、
家そのものが“呼吸している”感覚だけが残った。
壁が、近い。
天井が、低い。
錯覚だと分かっていても、
空間は、確実に“内側”へ向かって閉じていく。
ラディスは、拳を握る。
ここは、閉じ込めるための屋敷だ。
そして――
出ようとした者から、
最初に削っていく。
「……行くぞ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
だが、立ち止まる選択肢は、
もうどこにもなかった。




