番外編「同じ聖夜に、灯りがある。」
霊境に雪が降り始めたのは、
死神相談所が、ほんの少しだけ明るくなった頃だった。
冷たさはない。
触れれば溶けてしまいそうな白い粒子が、淡い光を帯びながら、音もなく落ちてくる。
霊子でできた雪は、床に触れる前にほどけ、夜の空気そのものに溶けていった。
相談所の一角には、小さなクリスマスツリーが立っている。
木と呼ぶには頼りなく、けれど確かに“樹”の形をしたそれは、霊子を編み上げて作られたものだった。
枝先で、星屑の鈴がひとつ、静かに揺れている。
「……その飾り、少し左かな」
十六夜の声に、緋音が小さくうなずいた。
彼女は黎明の力で指先に霊子を集め、ツリーのてっぺんへとそっと流し込む。
星の飾りが、淡く脈打った。
次の瞬間、緋音の頭の中に浮かんだ光景が、そのまま形になる。
月の欠片のようなオーナメント。
灯りの雫が、枝から一粒、また一粒と生まれていく。
「……わ、きれい」
思わず漏れた声に、十六夜は何も言わなかった。
ただ、その光景を少しだけ長く見つめている。
死神は、食事を必要としない。
それでも、今夜は小さな卓に、いつもより少しだけ手の込んだ料理が並んでいた。
誰かを迎える予定があるわけでもないのに。
それでも――今日は、そういう夜だった。
ちりん、と。
星屑の鈴が、澄んだ音を立てた。
音は一度きりだった。
呼び止めるようでも、急かすようでもない。
ただ、ここに誰かが来たことを告げるだけの音。
瑞響の義眼が、わずかに扉の方を向く。
「……境界に、反応があります」
十六夜と緋音は、同時に手を止めた。
扉の向こうに立っていたのは、
ひどく静かな魂だった。
霊子の雪が、外套の肩や裾に淡く積もっている。
だが、彼はそれを払おうともしない。
まるで、ここへ来る途中で時間が止まってしまったかのように、
ただ灯りのある方を見ていた。
扉は、閉じていない。
けれど、開いているとも言えなかった。
魂は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……ここ」
ようやく、声が落ちる。
「入っても……大丈夫なんでしょうか」
問いは、誰に向けたものでもなかった。
十六夜は、すぐには答えなかった。
一歩も近づかず、距離を保ったまま、静かに言う。
「無理に入らなくていい」
その言葉に、魂がわずかに目を見開く。
「ここは、
立ち止まっても、引き返してもいい場所だ」
扉の内側を示すこともしない。
ただ、そこに在る事実だけを告げる。
沈黙。
やがて、魂は視線を落とし、
自分の足元を見た。
霊子の雪が、境界線のところで淡く光っている。
「……少しだけ」
言い訳のような声だった。
「少しだけ、ここに居てもいいなら」
十六夜は、ようやく一歩、横に退く。
道を空けるだけの、最小限の動き。
「いいよ」
それだけだった。
魂は、ゆっくりと足を踏み出す。
境界を越えた瞬間、
外套の裾にまとわりついていた雪が、音もなくほどけた。
彼は一度だけ、振り返った。
外の夜を確かめるように。
そして、扉の内側へと、完全に身を置く。
魂は、しばらく何も言わなかった。
椅子に腰を下ろしたまま、室内をゆっくりと見回している。
視線が止まるのは、窓の外の雪や、ツリーの淡い灯り。
けれど、それらを評価するような様子はなく、
ただ「そこに在る」ものとして受け取っているようだった。
肩の力が、ほんのわずかに抜ける。
「……静かですね」
ぽつりと零れた声は、感想というより確認に近い。
「はい」
緋音が小さくうなずく。
「ここ、あんまり音がしないんです。
雪も、鈴も」
魂はその言葉に、もう一度だけ窓の外を見る。
降り続く雪は、確かに音を立てていない。
「……落ち着かない場所かと思ってました」
「そう思う人もいる」
十六夜が答えた。
「でも、ここは急がせない場所だから」
魂は、十六夜の方を見る。
問い返すことはせず、ただ、その言葉を受け止める。
「ここでは、行き先を決める前に立ち止まっていい。
無理に話さなくてもいいし、
答えを出さなくてもいい」
少しの間を置いてから、続ける。
「話したくなったことだけでいい」
魂は、すぐには返事をしなかった。
視線を落とし、指先を軽く組む。
「……そうですか」
短い言葉だったが、拒絶の色はなかった。
また沈黙が落ちる。
ツリーの灯りが、わずかに揺れる。
雪を見ていた魂が、ゆっくりと息を吸った。
「……大した話じゃないんですけど」
言い訳のような前置きだった。
「聞いてもらうほどのことでもなくて……
ただ、少しだけ」
十六夜も緋音も、何も言わない。
魂は、言葉を探すように、しばらく黙ったまま続ける。
「生きてた頃……
こういう日は、いつも一人でした」
事実を述べるだけの声音だった。
「特別なことがあったわけじゃないです。
誰かと過ごしてたわけでもないし、
嫌な思い出があるわけでもない」
一度、言葉を切る。
「……ただ、
気づいたら終わってる日、って感じで」
視線が、また雪へ向かう。
「街は明るくて、
みんな楽しそうで。
それを見て、きれいだなって思って……
それで終わりでした」
誰も、評価しない。
慰めもしない。
魂は、自分が話していることに、少し遅れて気づいたように、
小さく息を吐く。
「……相談、なんですけど」
今度は、はっきりと十六夜を見る。
「誰かと過ごす夜が、
どんなものなのか……」
言葉が、少しだけ詰まる。
「分からないまま、終わってしまったなって」
それだけだった。
魂が言葉を置いたあと、
相談所には、すぐには何も起こらなかった。
誰も返事をしない。
問い返すことも、慰めることもない。
ただ、時間だけがそこに残る。
窓の外では、霊子の雪が降り続いている。
冷たさを持たない白い粒子が、灯りを受けて、ゆっくりとほどけていく。
ツリーの光が、枝先で淡く揺れた。
飾りの星屑が、わずかに瞬く。
魂は、その光景を見つめていた。
促されることもなく、置き去りにされることもなく、
ただ、同じ空間にいる。
「……」
言葉にしかけて、やめる。
それでも、居心地の悪さはなかった。
答えを返されない沈黙は、
拒絶ではないと、ここでは分かる。
――ここは、言葉を置いていい場所なのだと。
やがて、緋音が立ち上がる。
大げさな動きではない。
ただ、自然に。
「……雪、きれいですね」
そう言って、窓のそばに立つ。
魂は一瞬だけ迷い、
それから、ゆっくりと椅子を離れた。
並んで立つ。
肩が触れるほど近くはない。
けれど、離れてもいない。
同じ方向を向いて、雪を見る。
卓の上の灯りが、背中を照らしている。
ツリーの光が、視界の端で静かに揺れる。
誰も何かを“してあげて”はいない。
何も用意されていない。
ただ、同じ夜を過ごしているだけだった。
そのとき、魂は気づく。
――今、自分は、
誰かと同じ時間の中にいる。
それは、初めての感覚だった。
十六夜は、少し離れた場所で、その様子を見ていた。
何も説明しない。
意味を与えもしない。
ただ、必要な言葉だけを選ぶ。
「この夜は、キミのものだ」
短く、静かな声だった。
評価でも、断定でもない。
奪わないし、与えもしない。
それでも、その一言は、
今この瞬間を、確かに肯定していた。
その言葉を聞いた瞬間、
魂の視界から、相談所の灯りがゆっくりと遠のいた。
雪の光が、滲む。
代わりに思い出されるのは、
ずっと前の、よく似た夜だった。
仕事帰りの道。
街は明るく、浮かれていて、
自分だけが少し遅れているような感覚。
ショーウィンドウに映るツリー。
ガラス越しの灯り。
足を止めるほどでもなく、
でも、視線は自然と向いてしまう。
コンビニに入ったのは、
特別な理由があったからじゃない。
温かい飲み物を買うため。
それだけのつもりだった。
レジに並ぶ直前、
視界の端に、小さなケーキが映る。
一人分。
簡素な箱。
派手さのない、白いクリーム。
一瞬だけ、足が止まった。
――今日は、そういう日だったな。
そう思っただけだ。
手を伸ばしかけて、やめる。
理由は、ちゃんとあった。
どうせ、一人だから。
レジを通り、袋を受け取る。
店を出ると、夜の空気が少しだけ冷たい。
街は相変わらず明るくて、
楽しそうな声が、遠くで弾んでいる。
それを見て、きれいだな、と思った。
それで終わりだった。
特別な出来事はない。
後悔した覚えもない。
ただ、いつもの夜が、
いつも通りに過ぎていっただけ。
――そういう人生だった。
気づけば、
そんな夜ばかりが、静かに積み重なっていた。
そして今。
同じように、雪が降っている。
でも、違う。
背中に、灯りがある。
すぐ隣に、誰かの気配がある。
魂は、ゆっくりと息を吐いた。
知らなかったわけじゃない。
ただ、気づいていなかっただけだった。
雪の光が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
魂は、再び相談所の中に立っていた。
窓の外では、相変わらず霊子の雪が降っている。
ツリーの灯りも、さっきと同じ場所で、同じ明るさで揺れていた。
何も変わっていない。
――はずだった。
けれど、胸の奥に残っていたものが、
いつの間にか、静かに形を失っている。
「……」
言葉にしようとして、やめる。
もう、言う必要がなかった。
魂は、自分の手を見る。
透けていたはずの輪郭が、先ほどよりも淡く、やわらいでいる。
失われた、という感覚はない。
奪われたわけでも、消されたわけでもない。
ただ、
置いてきたものを、そっと下ろした。
それだけだった。
「……ああ」
小さな声が、自然に漏れる。
「こういう夜……
嫌いじゃなかったんだな」
誰に聞かせるでもなく、
自分自身に確かめるような声音だった。
雪を見る視線が、穏やかになる。
灯りを受けた粒子が、ゆっくりとほどけていく。
外套の裾が、風もないのに揺れた。
霊子でできた影が、光に溶けるように薄くなる。
鈴は、鳴らない。
それでも、魂は理解していた。
ここで得たものは、
この夜だけのものじゃない。
「……ありがとうございました」
振り返って、そう言った。
深く頭を下げることもなく、
ただ、静かに。
十六夜は、うなずくだけだった。
緋音も、微笑みはしない。
それで十分だった。
魂の輪郭が、さらに淡くなる。
灯りに溶けるように、
雪の中へとほどけていく。
最後まで、音は立たなかった。
椅子は、空のままそこにある。
ツリーの光も、変わらず揺れている。
十六夜は、その光を一度だけ見つめ、
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「……メリークリスマス」
夜は、まだ続いていた。
――来訪、一件。
未練:同席未経験。
結果:解消。
特記事項なし。
書き終えたあと、ほんの一瞬だけ、手が止まる。
そして、そのまま符を重ねた。
相談所には、まだ灯りがある。
雪も、降り続いている。
クリスマスの夜は、静かに、次の時間へと流れていった。
こんばんは、兎月心幸です。
今回は、少し静かなクリスマスのお話でした。
事件も、大きな奇跡も起きません。
誰かの人生が劇的に変わるわけでもありません。
ただ、
同じ夜に、同じ灯りの下で、
ほんの少しだけ時間を共有する――
それだけの物語です。
でも、
死神相談所という場所は、
本来こういう夜のために在るのだと思っています。
声にならなかった想い。
未練と呼ぶには小さくて、
それでも確かに胸に残っていた感情。
そういうものを、
「それでもいい」と受け止める場所。
今年のクリスマスが、
誰かと過ごせた人にも、
そうでなかった人にも、
この物語の灯りがそっと届いていたら嬉しいです。
それでは、相談者の皆様。
メリークリスマス。




