外伝「時計の傀儡の断てない糸・其の二」
扉の内側は、想像していたよりも整っていた。
広い玄関ホール。
磨かれた石床はひび割れも少なく、
天井のシャンデリアも、欠けることなく吊られている。
埃はある。
だが、荒れた形跡はない。
「……生活の痕跡が、そのまま残ってる」
水音が低く言う。
澪心鈴が、微かに鳴った。
音は、きれいに響いた。
歪みも、反響の乱れもない。
「精神汚染……今のところ、反応なし」
それは、逆に不自然だった。
「第一層、安定しすぎてるな」
朧が、ホール中央に進みながら言う。
正面には、二階へ続く大階段。
左右に廊下が伸び、
壁にはいくつもの肖像画が掛けられていた。
どれも、穏やかな微笑みを浮かべている。
家族。
来客。
使用人らしき人物。
時代も、服装も違うのに――
笑顔の“角度”だけが、妙に揃っていた。
「……やっぱり、絵は多いわね」
凛火がぼそりと呟く。
「燃やす?」
「やめとけ」
即座にラディスが制した。
「“残ってるもの”には、理由がある」
彼は肖像画に触れない距離を保ったまま、
視線だけで全体をなぞる。
切るべき糸は、まだ見えない。
「記録、取っておきます」
ユーノが一歩下がり、
ルミナメモリーを起動させる。
懐中時計の蓋が開き、
内部の霊盤に淡い光が走った。
「……あれ?」
彼女の声が、少しだけ上ずった。
「どうした」
朧が振り向く。
「いえ、その……
霊波、弱いんです」
「弱い?」
「はい。
“無い”んじゃなくて……
薄く、均一で……」
言葉を探すように、ユーノは続けた。
「まるで、
最初から“この形”になるように
整えられてるみたいで……」
沈黙が落ちる。
水音が、そっと息を吐いた。
「……屋敷全体が、
ひとつの“箱”みたい」
「箱?」
「感情を入れて、
閉じて、
保存するための……」
その言葉に、
凛火が無意識に腕を組む。
「気持ち悪いわね」
嫌悪の声音。
だが、恐怖ではない。
まだ――
誰も、危機を感じていなかった。
「第一層の役割は、観測だな」
朧が結論づける。
「左右の廊下を分けて調査する。
二人一組だ」
視線が、自然に組み合わされていく。
「ラディス、ユーノ。左」
「了解」
ラディスは即答し、
ユーノの一歩前に立つ。
「凛火、水音。右」
「はい」
「俺は中央と階段を確認する」
配置に異論はない。
完璧な分担だった。
「十五分で合流。
何かあれば、即通信」
最後に、朧は一度だけ全員を見渡す。
「――無事に終わらせるぞ」
その言葉が、
この場にいる全員にとって“当たり前”だった。
誰も疑わない。
疑う理由が、まだ無い。
ホールに残された肖像画が、
彼らの背を見送るように並んでいた。
その微笑みは、
最初から最後まで――
少しも、変わらなかった。
* * *
左廊下は、静かだった。
足音が、二人分あるはずなのに、
反響はひとつ分しか返ってこない。
「……ラディスさん?」
ユーノが、不安そうに振り返る。
「今、なにか……聞こえませんでした?」
「いや」
ラディスは即座に否定した。
壁沿いに並ぶ肖像画。
その一枚一枚が、
視界の端で“僅かに遅れて”動いた気がした。
気のせいだ。
そう判断し、足を止めない。
――止まる理由が、なかった。
だが。
胸の奥、
命核の深いところで、
微かな抵抗のない感触が走る。
刺すでもなく、
絡め取るでもなく。
ただ、「触れられた」という感覚。
懐かしい、
不快ですらない感触。
「……?」
無意識に、ラディスは胸元を押さえた。
そこには、冥具も、傷もない。
だが確かに、
“糸が通る余地”を測られた感覚があった。
「ラディスさん、大丈夫ですか?」
「……問題ない」
声は、いつも通りだった。
断ち切る冥波が、自然に巡る。
異物は、まだ侵入していない。
だが。
肖像画のひとつが、
ほんの一瞬だけ、
“母親の目”をした気がした。
慈しむようで、
逃がさない目。
ラディスは、視線を逸らす。
「気にするな。
ここは――まだ第一層だ」
言い聞かせるように、そう言った。
ユーノはそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、
ルミナメモリーの針が、
一拍だけ、遅れて動いたことに気づいていない。
肖像画のひとつが、
わずかに、視線を伏せたように見えた。
慈しむような――
それでいて、逃がさない仕草。
ラディスは、無意識に視線を逸らす。
その直後、
ユーノの足音が、
一拍だけ、遅れて聞こえた。
それだけのことなのに、
なぜか、振り返れなかった。
追いつかれるのが怖かったのか。
――それとも、
自分が、どこかで立ち止まっている気がしたのか。
この感触を、
“敵意”と呼ぶには、
あまりにも、優しすぎた。
中央ホールで、隊は合流した。
天井は高く、丸天井の中心に古いシャンデリアが吊られている。
灯りは入っていないはずなのに、空間は妙に明るかった。
壁一面の肖像画が、その光を反射している。
左右の廊下から、足音が戻ってくる。
右側からは、凛火と水音。
左側からは、ラディスとユーノ。
朧は四人を見渡し、静かに口を開いた。
「右はどうだ」
「問題なし」
凛火が即答する。
軽く肩を回しながら、霊波の残滓を振り払った。
「糸っぽい反応も出てない。拍子抜けするくらいよ」
水音が一歩前に出て、補足する。
「精神系の干渉も、今のところはありません。
澪心鈴も安定しています」
朧は一度だけ頷き、視線を左へ移した。
「左は?」
ラディスは一瞬だけ言葉を選び、
それから短く答えた。
「大きな異常はない」
ユーノが、その横で慌てて頷く。
「は、はい!
霊波の流れも……まだ、素直です」
彼女の手の中で、
ルミナメモリーの針が静かに止まっている。
朧は全員の報告を受け取り、
円を描くように視線を巡らせた。
報告は揃っていた。
異常は――ない。
少なくとも、
そう“整理できる範囲”では。
朧は、中央ホールを一度だけ見渡した。
天井、床、壁。
配置に乱れはない。
隊の呼吸も揃っている。
いつも通りだ。
――だからこそ、ここで決める。
彼は小さく息を吸い、
口を開きかけた。
「では、一度――」
そこで、言葉が止まる。
「……待ってくれ」
低く、ラディスの声が割り込んだ。
朧はすぐに視線を向ける。
だが、ラディスは彼を見ていない。
壁だ。
中央ホールを囲む肖像画。
整いすぎた微笑み。
どれも同じ角度で、同じ光を宿している。
「何か……おかしい」
ラディスはそう言ったきり、
それ以上を続けられなかった。
どこが、とは言えない。
だが、視線を逸らせない。
その沈黙を、朧が引き取る。
一歩、前に出る。
声は低く、いつも通り落ち着いていた。
「違和感の内容は?」
責める調子ではない。
判断のための、確認。
――その瞬間。
カチ。
乾いた音が、天井の奥から落ちてきた。
全員が同時に、理解する。
音を“聞いた”のではない。
空間そのものが、一拍ずれた。
「……今の……」
ユーノの声が、わずかに震える。
彼女の手の中で、
ルミナメモリーが淡く光った。
止まっていたはずの針が、
微細に震え、
――一度だけ、逆向きに跳ねる。
「え……?」
数値は出ない。
波形も、定まらない。
ただ、
“時間が揺れた”という感触だけが残る。
ラディスは無意識に一歩前へ出ていた。
ユーノと肖像画の間に、割り込むように。
そして――
カチ。
もう一度、
柱時計が時を刻んだ。
中央ホールには、確かに音があった。
だがそれは、残っているというより、
削ぎ落とされた結果のようだった。
足音は消え、
衣擦れも消え、
呼吸音さえ、どこか遠い。
その中で、
ひとつだけが、
異物のように残る。
――布が、擦れる音。
誰も動いていない。
衣擦れのはずがない。
朧は、その時点で理解した。
ここはもう、調査段階じゃない。
彼は一歩、前に出る。
自然な動きだった。
隊長として、何百回も繰り返してきた安全確認。
だが――
その足が床に触れた瞬間。
空間が、わずかに遅れた。
踏みしめた感触が、
一拍遅れて足裏に伝わる。
「……?」
違和感は、言葉になる前に全身を走った。
朧は壁際へ近づく。
肖像画。
同じ笑顔。
同じ角度。
同じ幸福。
だが、近づくほどに――
“視線”が増えていく。
描かれているはずの目が、
すべて、同時にこちらを向いている錯覚。
朧は、刀の柄に手を添えた。
「……動くな」
低い声。
命令というより、反射に近い。
「俺が――」
そこまでだった。
――コ、ン。
柱時計が鳴る。
音は一度だけ。
だが、その余韻が、空間に張り付いたまま消えない。
次の瞬間。
ユーノの手の中で、
ルミナメモリーが――悲鳴のような音を立てた。
ガチ、ガチ、と針が暴れる。
盤面が白く焼け、映像が乱れる。
「っ……!?
記録、拒否……!?
な、なに、これ……!」
ユーノの声が裏返る。
凛火が即座に前に出ようとして――
止まった。
足が、動かない。
動けないのではない。
“動く意味が分からなくなった”。
水音の澪心鈴が、
誰にも鳴らされていないのに、
勝手に震え始める。
鈴は音を出さない。
ただ、怯えている。
「……おかしい」
水音の声が低く落ちる。
「普通なら、ここには感情がある。
怒りとか、悲しみとか……そういう“揺れ”が」
彼女は首を振った。
「でも、これは違う。
感情が先にあって生まれた霊波じゃない」
その言葉の意味を、
誰も理解できなかった。
理解できないまま――
肖像画の一枚が、瞬きをした。
錯覚ではない。
まぶたが閉じ、
開く。
それを合図に、
すべての肖像画が、同時に“息を吸った”。
空間が、歪む。
光が、絵の中へ引き込まれ、
代わりに――
“視線”が溢れ出す。
唇が、動いた。
それは「声」よりも先に、
空気の温度を変えた。
中央ホールを満たしていた均一な冷えが、
ゆっくりと、
人の肌に近い温度へと書き換えられていく。
喉の奥が、きゅ、と縮む。
理由は分からない。
ただ――
長く留まってはいけない場所の匂いがした。
『……あら』
柔らかな音だった。
母が子を呼ぶような、抑揚のない声。
それなのに、
その一音が落ちた途端、
全員の背筋から、同時に熱が引いた。
凛火の指が、冥具から離れる。
水音の鈴が、完全に沈黙する。
ユーノは、息を吸うことを忘れていた。
思考ではない。
感情でもない。
もっと手前の部分が、拒絶している。
『ちゃんと、前に出てくれるのね』
言葉が、
朧“だけ”に向けられたことを、
全員が理解した。
なぜ分かったのかは、説明できない。
視線でも、音でも、霊波でもない。
ただ――
世界の中心が、彼の位置に固定された。
床が、わずかに沈む。
空間が、彼を軸に歪む。
肖像画の微笑みが、
ひとつ、またひとつと、
同じ角度に揃っていく。
それは整列ではない。
模倣でもない。
「配置」だった。
朧は、ほんの一瞬だけ奥歯を噛みしめる。
言葉を出さなければならない。
判断を、形にしなければならない。
隊長として。
ここに立つ者として。
「――全員」
声を出した、その時にはもう、
彼の言葉が、
空間に届く前に、溶け始めていた。
音が、削られる。
声帯の震えはあった。
息も、確かに吐いた。
それでも――
言葉だけが、途中で“抜け落ちる”。
まるで、
最初から発音されなかったかのように。
「……?」
朧自身が、わずかに目を細めた。
異常だ。
だが、致命的ではない。
まだ、戻れる。
彼はそう判断し、
半歩、後ろへ下がろうとして――
床が、下がった。
正確には、
彼の“足元だけ”が、
静かに沈み込んだ。
「っ――!」
反射的に踏みとどまる。
だが、踏ん張るという動作そのものが、
すでに“遅れている”。
床が、
絵の具を溶かした水面のように歪み、
靴底を、ゆっくりと呑み込んでいく。
「朧!」
凛火の声が飛ぶ。
だが、距離は詰まらない。
空間が、近づくことを拒んでいる。
朧は、振り返らない。
振り返る余裕がないのではない。
――振り返る必要がないと、分かっていた。
「慌てるな」
今度は、声が出た。
だがそれは、
中央ホール全体に広がらなかった。
彼の“位置”を中心に、
狭い範囲だけで、成立する音。
「水音」
「凛火」
「……ラディス」
名前を呼ぶたび、
空間が一拍ずつ遅れる。
「これは――罠だ。
最初から、俺を前に出させる構造だった」
肖像画が、
わずかに首を傾げる。
微笑みは、崩れない。
『ええ』
やさしい肯定。
『だって、あなたが一番“邪魔”だったもの』
その瞬間、
全員が理解した。
この場で、
最初から“生き残る選択肢に入っていなかった”のは、
朧だけだった。
床が、
腰の位置まで沈む。
絵の中から、
無数の“糸”が伸びているのが見えた。
赤黒い糸。
だが、絡め取るためのものではない。
――位置を、固定するための糸。
「……なるほどな」
朧は、静かに息を吐く。
「俺がいる限り、
この隊は崩れない」
それは自惚れではない。
事実確認だった。
「だから、最初に俺を抜く」
凛火が、歯を食いしばる。
「待ちなさい、今引きずり出す――!」
「来るな!」
朧の声が、鋭く跳ねた。
凛火の足が、止まる。
命令だった。
隊長の、最後の命令。
「……見るな」
それは、
凛火ではなく、
ユーノへ向けられた言葉だった。
「覚えるな。
記録するな。
これは――」
言葉が、途中で千切れる。
糸が、
朧の背中から、
肖像画へと“縫い留めた”。
引きずり込まれる、のではない。
引き戻される、でもない。
ただ、
“そこが本来の位置だった”かのように。
床が、完全に閉じる。
彼の身体は、
音もなく、
一枚の肖像画の中へ収まった。
次の瞬間。
中央ホールの壁に、
新しい絵が、増えていた。
赤黒い長髪。
淡い紅の瞳。
穏やかで、
何ひとつ疑っていない表情。
――隊長・朧。
その口元は、
ほんのわずかに開いている。
言いかけた言葉が、
まだ、そこに残っているかのように。
シャンデリアが、
かすかに揺れた。
そして――
柱時計が、
三度目の音を刻む。
カチ。
中央ホールに、
完全な静寂が、戻った。




