第四十話「誓魂月詩」
落下の感覚は、いつの間にか消えていた。
上も下も、前も後ろも、意味を失う。
私と十六夜を隔てていた境界は、
すでに輪郭を保っていない。
観測は崩れ、
記録は意味を失い、
残ったのは――
“この人の内側に在るもの”だけだった。
ここから先は、
世界ではない。
十六夜という魂が、
自分自身を形作ってきた場所。
――そして。
闇の中に、“別の十六夜”が立っていた。
泣いている子供に背を向け、
手を伸ばしているのに、
なぜか届かない。
その背中は、震えていた。
瑞響は理解する。
(……これが十六夜様の“痛み”……)
十六夜の声が、闇の中で響く。
「……言われる前に……終わってた……
僕は……
声になる前の願いを……
聞けなかった……
あの人にも……
この子にも……
誰の声にも……」
闇が、ざざっと揺れる。
十六夜の冥波が暴走し、
瑞響の足元の世界ごと裂けそうになる。
瑞響は、強く十六夜を抱きしめた。
「……痛かったのですね」
十六夜の震えが止まらない。
瑞響はその背を、
静かに撫でるように冥波で包んだ。
(この方は……優しすぎるのです。
誰より、魂の声に寄り添ってしまう。
だから――
声にならなかった願いを、
すべて自分の罪にしてしまう)
「十六夜様」
瑞響の声が、
深淵の空気を照らすように響いた。
「あなたは届かなかったのではありません」
十六夜が、はっと顔を上げる。
瑞響はその両頬に手を添え、
まっすぐに、その瞳を見つめた。
「あなたは――
声になる前の願いを、
自分のせいだと思い込んだだけです」
十六夜の胸の奥で、
ひびが、かすかに揺れる。
瑞響は、さらに踏み込む。
「あなたは、誰の声も捨てていません。
聞こえなかったことから、
逃げなかった」
「――それは、
誰よりも強い証です」
十六夜は息を呑む。
瑞響の手が、
そっと十六夜の命核へ触れた。
優しく、
けれど深く。
「……どうか、私を信じてください。
十六夜様」
「あなたは、
聞けなかった声のために
ここまで来たのです」
十六夜の目が揺れ、
幼い迷子のように震えた。
「……瑞響……僕……あの子が……
何を言おうとしたのか……
まだ……知らない……」
瑞響は、迷わず抱きしめた。
「だからこそ、
あなたは魂に寄り添い続けている」
「――知るために。
聞くために」
「そして今度こそ、
声になる前の願いを
ひとりにしないために」
十六夜の呼吸が、かすかに揺れた。
「……瑞響……
僕……こわい……
また……誰かを……」
瑞響は、その震えを包むように腕を回す。
「大丈夫です。
あなたは、もうひとりではありません。
私は――必ずあなたの隣にいます」
その瞬間、
十六夜の命核の“裂け目”から光がこぼれた。
瑞響の冥波がそれを包み込み、
静かに揺らぎを整えていく。
深層世界が、
月光のように淡く照らされた。
そして――
瑞響の唇が、
十六夜の命核へと
祈りのように言葉を落とす。
これはまだ“詩”になりきらない原形。
だけど確かに、誓いのはじまり。
「十六夜様……
どうか、あなたの声が……
もう二度と、
誰にも届かないことがありませんように」
十六夜は瑞響の胸に顔を預け、
かすれた声でつぶやいた。
「……瑞響……
離れないで……」
瑞響は静かに微笑んだ。
「離れません。
何度あなたが揺らいでも――
私が支えます。
そう、誓いましたから」
深層の闇が、
光にゆっくりとほどけていった。
十六夜の意識が、
深い海の底から浮上していく。
重かった呼吸が少しずつ軽くなり、
世界の色が淡い月光のように戻り始める。
瑞響の冥波が離れていくのを感じた。
けれど不思議と、
胸の奥はもう凍えていなかった。
(……僕……まだ、壊れてない……瑞響が……
繋ぎ止めてくれたんだ……)
視界がはっきりと戻る。
目の前には――怯えて震える、声を失った小さな魂がいた。
十六夜が、ひび割れた“音の消えた鈴”に触れた瞬間――少女の世界が、静かに流れ込んできた。
静寂。
あまりにも、静か。
夕暮れの帰り道。
ランドセルの肩紐を握りしめて歩く、小さな背中。
少女は、口を開いた。
けれど――
声が、出なかった。
喉が震えている。
気持ちは、ちゃんとある。
でも、音だけがどこにも繋がらない。
(……いえない……)
周りの子が、笑って通り過ぎていく。
「また喋らないの?」
「無視してるだけじゃん」
責めるような視線が、
少女の世界すべてを暗くした。
声が出ないたびに、
心が、ひとつずつ閉じていく。
本当は――
「一緒に遊びたい」
「ありがとう」
「やめて」
そんな“ふつうの言葉”を、
言いたかっただけなのに。
けれど少女は、
誰かに否定されるたび、
声が喉の奥で固まってしまった。
喋らないのではない。
――喋れない。
それを、誰も知らなかった。
(……ことばって……
どうしてこんなに、こわいの……?)
放課後。
寄り道をした帰り道。
古い集合住宅の脇にある、
薄暗い地下階段へ、足を踏み入れたとき。
――コンクリートの壁が、
突然、音を立てて崩れ落ちた。
少女は尻もちをつき、
小さな体が、震え始める。
「……っ……」
“声にならない悲鳴”が、
喉の奥で震えた。
(……こわい……っ……
だれか……
たすけて……)
手を伸ばした。
けれど――誰も来ない。
地上の生活音は、すぐそこにあるのに、
少女の声は、どこにも届かなかった。
崩れてきた瓦礫の影の中で、
少女の唇が、かすかに動く。
(ママ……)
(……ごめんね……
ほんとうは……だいすきって……
いえたらよかった……)
(ひとりは……いや……
たすけて……
だれか、みつけて……)
涙だけが落ちていく。
けれど、
声だけが――最後まで、生まれなかった。
少女の最期の願いは、
たったひとつ。
――声にならなかった、たったひとつ。
「ねぇ……
わたし、ここにいるよ……」
その言葉も、
誰の耳にも届かないまま――
少女は、静かに世界から消えた。
霊境に佇む少女の魂は、
胸を押さえて、震えていた。
声の代わりに、
ひび割れた鈴だけが、かすかに揺れる。
けれど――
音は、鳴らない。
(……ことば……
こわいよ……
でも、ほんとうは……
だれかに、きいてほしかった……)
その願いは、
薄く、弱く、
今にも消えてしまいそうな光だった。
十六夜の胸が、
痛みで、ひび割れる。
……こんな想いのまま、
誰にも気づかれずに――
指先が、震えた。
放っておけるわけないだろ……。
十六夜の喉が、熱を帯びる。
(今度こそ……
聞こえてるよ)
――少女の、声なき願いを、
十六夜が拾い上げる瞬間。
霊境の空気が、
まるで息を潜めるように沈み込んだ。
揺らぐ光。
震える魂。
ひび割れた“鈴”。
十六夜は、
胸の奥にまだ刺さる痛みを抱えながら、
少女の魂へ、そっと手を伸ばした。
その指先が触れたとき――
世界は、静かに裏返った。
暗闇。
冷気。
孤独。
助けを求める声が、
――喉で、潰れている。
少女の記憶が、
雪の粒のように降り積もる。
誰にも気づかれなかった日々。
言えなかった「助けて」。
届かなかった「怖い」。
震える喉。
沈む世界。
最後の最後まで――
ひとりだった。
十六夜の胸に、
強い痛みが走る。
(……そんなの……
耐えられないよ……)
自分の過去と重なる痛み。
間に合わなかった声。
届かなかった願い。
そのすべてが、
十六夜の心臓をつかんで、離さない。
けれど――
今度は、違う。
十六夜は息を吸い、
震える魂を抱くように、囁いた。
――今度こそ。
「……聞こえてるよ」
少女の魂が、びくりと震えた。
――初めて、“反応”が返る。
十六夜は、そっと目を閉じ――
詠唱を始めた。
「夜の底、沈みし願いよ――
形を失い、声を忘れ、闇に凍えた魂よ。
いま、満ちる月に抱かれて。
その痛みをほどき、願いを紡ぎ、
兆しの光へ……還れ。」
言葉が落ちるたびに、
霊境の空気が、金色に揺らぐ。
少女の魂に、光が灯り、
ひび割れた“鈴”の中から、
温かな波形が、ゆっくりと滲み出していく。
――まだ、術は完成しない。
詠唱はただ、
「魂が願いを思い出すための光」
でしかなかった。
本当に必要なのは、
“魂が、自分で願いを口にすること”。
十六夜は、
少女の魂の前で膝をつき、
やさしく語りかけた。
「大丈夫。
もう、誰もキミをひとりにしない」
少女の魂が震え、
長く閉ざされていた喉が、
小さく、動く。
『……こ……え……』
十六夜は、微笑んだ。
「うん。出していい。
僕が、ちゃんと聞くから」
震えた光粒が、
まるで涙のように、こぼれ落ちる。
喉が震える。
声にならなかったはずの願いが――
ふっと、息を帯びた。
『……きこえ……た……?』
十六夜の胸が、熱くなる。
「もちろん。
ずっと、聞こえてたよ」
『……わたし……
ひとり、いやだった……』
その言葉を皮切りに、
堰を切ったように、少女の想いが溢れ出した。
『……こわかった……だれも……
みてくれなかった……』
言葉は、整っていない。
つながってもいない。
順番も、意味も、ばらばらだ。
――それで、よかった。
十六夜は、何も言わずに頷いた。
「……うん」
ただ、それだけ。
『……ほんとは……
あそびたかった……』
『……いっしょに……
わらいたかった……』
小さな光が震えながら、
ひとつ、またひとつ、言葉になる。
『……いやって……
いえばよかった……』
『……たすけてって……
いいたかった……』
喉の奥で凍りついていた願いが、
ようやく、息を帯びて流れ出す。
十六夜は、少女の前に膝をついた。
目線を合わせ、逃げずに、ただ聞く。
「……うん」
「……そうだね」
答えは、要らない。
慰めも、正解も、救いも。
必要なのは――
聞いてもらえることだけだった。
『……ねぇ……』
『……わたし……
ここに、いても……いい……?』
その一言に、
十六夜の胸が、きゅっと締めつけられる。
彼は、一度も迷わず、
それでも慎重に、両腕を伸ばした。
拒まない。
急がない。
壊さないように――
けれど、確かに。
少女の魂を、そっと抱きしめる。
「……いいよ」
声は低く、やわらかく。
「ここにいていい。
キミは、ちゃんと……ここにいた」
少女の魂が、
初めて安堵したように揺れた。
光が、ほどけていく。
張りつめていた震えが、
ゆっくりと静まる。
少女の魂は、この時ようやく
“願いを、言葉にできた”。
そして、
十六夜の中で――
“誓い”が結ばれた。
もう誰も、
声を失ったまま、消えさせたりしない。
これは、救済じゃない。
贖罪でもない。
ただ、
願いを“聞き届ける”ための誓い。
十六夜は、そっと立ち上がり、
月光色の冥波を、掌に灯す。
ゆっくりと、
少女の魂を包み込みながら――
「――誓魂月詩。」
その言葉が落ちた瞬間、
霊境が、黎明色に染まった。
光がほどけ、
きつく結ばれていた未練の結び目が、
やさしい光へと変わっていく。
少女の“声なき願い”は、
今ようやく、世界に届いた。
『……ありがとう……』
光の粒が舞い上がり、
空へ、
温かな方へ――還っていく。
十六夜は、その小さな光を、
最後まで、離さずに抱いていた。
光が消える、
その最後の瞬間まで。
* * *
霊境に満ちていた光が静まり、
世界が呼吸を取り戻したころ。
瑞響の胸の奥では、まだ微かな“ざらつき”が残っていた。
命核が、違う波を思い出すようにわずかに脈打つ。
(……深層共鳴は、終わっている。
けれど……十六夜様の冥波が、
まだ“届く形”のままで残っている)
瑞響は胸の中心に触れた。
そこには、銀色の歪み。
痛みではない。
けれど確かに、触れられた痕があった。
命核は修復されたのではない。
支えを持つ構造へ、書き換えられた――それだけ。
(……観測ではない。
私はもう、“感じてしまう”)
十六夜が揺らぐと、
胸の奥に小さな波紋が走る。
義眼が微かに誤作動を起こし、
記録とは関係のない感情が滲んでくる。
(私はもう、完全な記録者には戻れない)
(けれど、それでいい。
あの人を、ただ記録するだけの存在には……もう、なれないから)
一方、十六夜の胸の奥にも、
別の違和感が残っていた。
傷ついた命核は癒え、鈴の音も戻った。
けれど――どこかで、何かが変わっている。
(……あれ?
本当なら、この痛みで壊れていたはずなのに)
深層の境界で踏みとどまったあの日から、
壊れることができなくなった。
自己犠牲を選ぼうとするたび、
瑞響の声が脳裏をかすめ、
踏みとどまってしまう。
(……もう、“一人では壊れられない”)
それは、救いであり――呪いでもあった。
深層共鳴は終わった。
恒常接続ではない。
けれど、二人の命核は“支え合える形”へと変わっていた。
揺らいだときだけ、互いの冥波が共鳴し、
傷を抱えたまま、立ち直るための回路が走る。
失ったのではなく、変わってしまった。
それが――深層共鳴の代償。




