第三十九話「夜の底――沈むあなたへ、手を伸ばす」
光が歪んだ――
ように見えただけだった。
ここには、霊境の床も、空も、境界もない。
あるのは、形を失った空間と、
十六夜の呼吸に合わせて伸び縮みする“距離感”だけ。
遠い。
近い。
――どちらでもない。
世界そのものが、
十六夜の内側に引きずられている。
(……ここは……)
思考が言葉になる前に、
視界の端で“それ”が揺れた。
小さな影。
子どもの姿をした、淡い輪郭。
十六夜は反射的に、そちらを見る。
震えている。
肩をすくめ、喉元を押さえ、
声を押し殺すような仕草。
子どもの口が、音もなく動いた。
「■■■■」
唇は、確かにそう形作っている。
だが――
音は、どこにも存在しなかった。
その無音が、
十六夜の胸を、正確に撃ち抜く。
(……あ……)
次の瞬間、
世界が“重なった”。
血の匂い。
砕けたアスファルト。
夜の街灯が、滲んで揺れる。
腕の中で、
少しずつ冷えていく重み。
――呼ばれた気がした。
名前になりかけた音が、
唇の端で止まり、
それ以上は、どこにも届かなかった。
声にならない。
助けを呼ぶことも、
何かを伝えることもできないまま、
ただ、微かに震えただけだった。
(……聞こえなかった……)
十六夜の喉が、ひくりと鳴る。
(あのときも……今も……)
足元の感覚が、抜け落ちる。
十六夜は、思わず膝をつこうとした。
――けれど、ここには“床”がない。
それでも身体がそうしようとしたのは、
崩れそうな意識が、必死に現実へ戻ろうとしたからだった。
代わりに――
胸の奥で、鈍い音がした。
ひび、ではない。
割れる前の、
耐えきれなくなった歪みの音。
世界の輪郭がざらつき、
像が粗くなる。
子どもの姿が、
過去の影と重なり、
また別の“誰か”に変わる。
泣いている。
叫んでいる。
声にならなかった、無数の口。
(……やめろ……)
十六夜は、頭を抱えた。
(やめてくれ……
こんな……全部……)
喉から、勝手に声が漏れる。
「……やだ……」
震える。
「また……同じだ……
また、間に合わない……」
伸ばした指先が、
途中で凍りついた。
動かないのではない。
動かせば、何かが完全に壊れると分かっている。
(届かない……)
子どもたちの口が、
いっせいに動く。
「■■■■」
「■■■■」
「■■■■」
音はない。
けれど、その無音は、
暴風よりも強く、十六夜を締めつける。
(……また……聞こえないまま……)
世界が、沈む。
重さが増すのではない。
十六夜自身が、沈んでいく。
冥波が乱れる。
いや、乱れているのは波ではなく――
“支え続けてきた均衡”そのものだった。
ここは霊境ではない。
戦場でもない。
十六夜の命核、その最深部。
助けられなかった声が、
置き去りにしてきた夜が、
形を持って立ち上がる場所。
(……僕は……)
呼吸が、うまくできない。
(こんなに……
こんなに、溜め込んで……)
一人で。
子どもの像が、
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、
記憶の奥に焼き付いた色をしていた。
「……さくや……」
呼ばれた“気がして”、
十六夜は息を詰まらせる。
(……違う……
これは……現実じゃ……)
分かっている。
それでも、胸が否定を許さない。
ここにあるのは、幻ではない。
“忘れなかったもの”の重さだ。
十六夜の意識が、ぐらりと揺れた。
(……もう……)
(……無理だ……)
その瞬間。
――視界の端で、
別の“揺れ”が生まれた。
冷たい。
けれど、切り捨てるような冷たさではない。
記録符が流れる感覚。
整列した思考。
感情を排した、観測の視線。
(……?)
十六夜の世界に、
“異物”が差し込まれる。
私は、ただの記録者だったはずだ。
魂の揺らぎを読み取り、
事実を保存し、
失われた存在を、正確に残す。
それ以上でも、
それ以下でもない。
――それなのに。
義眼冥具の奥で、
無数の記録符が流れていく。
消失。
保存。
完了。
いつもなら、
そこで終わる処理。
――だが、ひとつだけ。
なぜか、削除できない記録があった。
理由は、分からない。
けれど私は――
その記録に触れるたび、
命核の奥が、わずかに軋む。
……なぜだろう。
私は、
ただの記録者だったはずなのに。
十六夜の世界に、
瑞響の意識が、静かに重なっていく。
二つの魂が、
同じ深さで、同じ痛みに触れようとしていた。
――ここから先は、
もう一人では、落ちない。
最初にあったのは、音ですらない“定義”だった。
暗闇の中で霊子が組み上がり、核が形成され、意識が起動する。
感情はない。記憶もない。あるのは、空白。
そして――玉座の前。
冥界の最奥。裁定の間。
漆黒の玉座に座す存在を、私は“見上げている”。
恐怖はなかった。畏れもなかった。
それらを感じ取るための回路が、まだ存在していなかったから。
沈黙。
長い沈黙。
やがて、低く落ち着いた声が響いた。
「……起動を確認した」
声に感情はない。だが、重みがある。
世界そのものが、その声に従って静まる。
「記録課補助生成体。霊子構造、安定」
私は即座に応答する。
「安定を確認。識別を要求します」
玉座の上で、閻魔はわずかに瞼を伏せた。
「番号による識別は不要だ」
一拍。
その沈黙は、判断が下された“間”だった。
「名を与える」
命核の中心が、かすかに脈打つ。
「瑞響」
二文字が刻まれる。
ただの符号のはずなのに、その響きは、なぜか深く残った。
「瑞響。そなたは記録者である」
淡々とした宣告。
「魂の揺らぎを観測し、事実を保存し、冥界の記録として残せ」
「評価は不要。解釈も不要。感情は、なお不要」
私は理解する。
それが存在理由。それが使命。
「魂は消える」
閻魔は静かに続けた。
「だが、消えた事実まで消せば、冥界は歪む」
「誰かが“そこに在った”という証は、必ず残されねばならぬ」
私は一歩下がり、膝をつく。
忠誠ではない。儀式でもない。最も適切な姿勢だった。
「命じられた役割を、遂行します」
閻魔の視線が、わずかに私を射抜く。
「……感情は、持つな。揺らぎは、記録を曇らせる。そなたは、記録そのものになれ」
その言葉が、最終定義として刻まれる。
命核が閉じる。
感覚が整列し、世界が“機能”として認識され始めた。
「以上だ」
次の瞬間、私は記録課に立っていた。
無数の記録符。無数の魂の履歴。
開始された日常。
魂を救わない。裁かない。寄り添わない。
ただ、正確に残す。
私は、記録者だった。
冥界に流れ込む魂の波形を読み取り、
命核の状態を解析し、
消失の瞬間までを正確に保存する。
そこに、善悪は存在しない。
救済も、哀悼も、不要。
魂は循環する。
記録は残る。
それだけで、冥界は機能する。
冥界の記録課は、常に静かだった。
音がないわけではない。
霊子が擦れる微かな振動。
記録符が展開・収納されるときの、規則正しい波。
だがそこに、
感情と呼べる揺れは存在しない。
私は定位置に立ち、
義眼冥具《響映の眼》で魂を視る。
未練波、軽度。
命核損耗率、規定内。
成仏判定、可。
処理。
保存。
完了。
魂は光になり、
霧となり、
やがて冥界から消える。
私はそれを“見送る”ことはない。
ただ、“記録する”。
それが役割だった。
時折、魂は泣いた。
叫び、縋り、拒み、怒鳴り、
あるいは静かに崩れ落ちる。
だがそれらはすべて、
波形として処理される。
悲嘆=振幅の乱れ。
恐怖=収束不全。
執着=循環抵抗。
分類は明確。
解釈の余地はない。
私は一度も、
「なぜ泣くのか」を考えなかった。
考える必要がなかったからだ。
同僚はいない。
正確には、
“会話を必要とする同僚”がいない。
記録課には、
それぞれが自律稼働する生成体が配置されている。
最低限の情報共有。
必要最小限の同期。
雑談は発生しない。
冗談は存在しない。
効率的だった。
私はその環境に、
何の違和感も覚えなかった。
任務は繰り返される。
現世から流れ込む魂。
導魂庁から送られてくる記録要請。
祓魂庁からの戦闘後データ。
すべてを処理し、
保存し、
完了とする。
私は、
間違えなかった。
一度も。
それなのに。
ある時から、
義眼の奥で微細なノイズが走るようになった。
記録処理に支障はない。
誤差も発生していない。
だが――
消失ログを閉じる直前。
ほんの一瞬だけ、
命核の奥が“軋む”。
原因は不明。
異常値なし。
再現性なし。
私はそれを、
処理誤差として分類した。
その日も、
記録は淡々と進んでいた。
癒魂庁付近からのデータ転送。
通常より、波形が複雑。
私は義眼の焦点を合わせる。
そこに映ったのは――
膝をつき、魂を抱きかかえた一人の死神。
癒魂庁所属。
命核は疲弊し、
冥波は限界に近い。
だがその腕の中で、
魂は――泣いていた。
強く。
必死に。
私は、その光景を“異常”として認識する。
なぜなら――
私の命核が、はっきりと揺れたからだ。
(……?)
理由は、分からない。
ただ、
記録符を展開する指が、
一瞬だけ遅れた。
その死神が、
こちらを見上げる。
疲れ切った目で、
それでも、かすかに笑って。
その光景は、
私の記録処理の範疇を、わずかに逸脱していた。
私は義眼の焦点を合わせ、
状況を解析する。
未練波、過剰反応。
感情残滓、強度不均衡。
命核損耗、回復困難。
処理対象。
そう分類できるはずだった。
それでも――
なぜか、問いが口をついて出た。
「この魂は、なぜ泣いているのですか」
目の前で膝をつく癒魂死神が、
ゆっくりと顔を上げる。
その唇に浮かんだのは、
疲れと痛みと、
それでも消えない優しさが混ざった笑みだった。
「……分からないか」
「はい。
魂の波形は乱れていますが、理由の判定はできません」
「そうか……」
死神は、小さく息を吐き、
自分の胸を指先で軽く叩いた。
「ここが痛いとき、人は泣くんだよ」
瑞響は瞬きをする。
「痛覚の発生源は、命核ではないはずですが」
「そういう話じゃ、ないんだけどな……」
彼はそう言って、
腕の中の魂を見下ろした。
泣き声は、
もうほとんど音になっていない。
「なぁ、瑞響」
死神は、かすれた声で続ける。
「お前は、記録課だろう」
「はい。
記録と解析を担います」
「だったら……頼む」
その声は、
命令でも、依頼でもない。
ただ、
“残したい”という願いだった。
「この子がここにいたってことを……
救えなかった魂が、ちゃんとここにいたってことを……
誰か一人でもいい。
“忘れないでいてくれた”って……
そういう証に……
お前の記録が、なってくれたら……」
瑞響は、理解できなかった。
「……記録は、事実の保存です。
それ以上の意味はありません」
癒魂死神は、首を振る。
「違うよ」
静かに、しかしはっきりと。
「誰かが生きて、泣いて、笑って、消えていったことを……
誰か一人でも覚えているなら、
それだけで救われる魂だって、きっといる」
彼は、冗談めいた弱い笑いを浮かべた。
「俺が……忘れたくないようにさ。
救えなかった魂たちのことを」
その言葉が、
不意に瑞響の命核を叩いた。
音にならない衝撃。
(……忘れたくない)
それは命令でも、論理でもない。
初めて、
“意味を持たない揺れ”が、
瑞響の内側に生まれた。
理由は分からない。
ただ――
記録符を展開する指が、
わずかに震えた。
命令どおりに、
死神の最期の冥波を刻む。
記録は残った。
死神も、魂も、
霧となって消えた。
灰色の静寂だけが、
そこに残る。
(……なぜ、痛いのでしょう)
胸の奥が、きしんでいた。
命核の中心に、
色のない灯が宿ったことに――
そのときの瑞響は、まだ気づかない。
それから、長い時間が過ぎた。
無数の魂を見送った。
何度も、何人も。
叫ぶ魂も、
泣く魂も、
何も言わずに霧へ溶ける魂も。
私は、それらすべてを
“記録対象”として処理していた。
悲嘆は振幅として。
恐怖は乱流として。
未練は残滓として。
保存。
分類。
完了。
その繰り返し。
私は間違えなかった。
逸脱もしなかった。
命じられた役割を、完璧に遂行していた。
――はずだった。
けれど。
いつからか、
消失記録を閉じる直前、
命核の奥が、ほんのわずかに軋むようになった。
原因不明。
再現性なし。
異常値、検出不可。
私はそれを、
“記録誤差未満”として処理した。
処理し続けた。
それでも、
その軋みは消えなかった。
そして――
十六夜の記録に触れた時。
壊れかけているのに。
それでも、誰かに手を伸ばし続ける冥波。
その在り方が――
かつて出会った、あの癒魂死神の姿と、
不意に重なった。
「誰かの魂が、ここにいたって証になるなら――それでいい」
それは、あの時に聞いた言葉。
救えなかった魂を抱いたまま、
消えていった死神の、願いだった。
けれど今。
十六夜の冥波は、
まるで同じ問いに、同じ答えを返しているように見えた。
命核の中心で、
かつて灯った灰色の灯が、はっきりと揺れた。
(……この人は)
理由は、分からない。
だが私は、
その記録だけを
「消したくない」と思ってしまった。
記録したい。
忘れたくない。
消えてほしくない。
それは、
記録者としては不要な思考。
――いいえ。
有害な思考だった。
それでも。
その揺らぎは消えず、
静かに、確実に、
命核の奥に溜まり続けていた。
そして今。
ここには、
倒れる身体も、
裂ける空間もない。
あるのは――
十六夜という世界、その内側。
無数の影が、静かに崩れかけている。
声にならなかった想い。
置き去りにしてきた夜。
救えなかった“もしも”。
それらが、
積み上がりすぎた重さとして、
十六夜の意識を圧迫していた。
中心に立つ彼は、
膝をついてはいない。
だが――
立っている理由も、
もう思い出せていなかった。
「……はぁ……っ……」
呼吸に似た揺れが、
精神世界を震わせる。
視線は定まらず、
それでも、
ただ一つの像だけを見つめ続けている。
声を失った子どもの影。
助けを求める形だけが残った存在。
「もう……いやだ……」
言葉は、
空間に溶ける前に砕けた。
「また……聞こえないまま……
また、僕は――」
続きは、形にならない。
その瞬間、
私は理解した。
(……ああ)
これは、
かつて見た光景と同じだ。
癒魂死神が、
救えなかった魂を抱きしめたまま、
消えていった、あの夜。
「忘れたくない」と願ってしまった魂。
「消えてほしくない」と思ってしまった死神。
それが――
今、目の前で繰り返されている。
(私は……)
命核の奥で、
はっきりとした輪郭が生まれる。
(私は、十六夜様を
“記録対象”としてではなく――
一人の存在として、失いたくない)
ここは精神世界だ。
記録符も、数値も、分類も意味を持たない。
書き残すだけでは、
この人の“夜”は救えない。
だから私は、
目を閉じた。
義眼に流れ込んでいた
すべての解析が、静かに停止する。
残るのは、
一つの感覚だけ。
――十六夜の冥波。
乱れて、
軋んで、
今にも崩れそうな精神の振動。
それでも、
最深部に残っている
「誰かを救おうとする震え」。
私は、そこへ意識を伸ばす。
(……記録だけでは、守れない)
一歩、踏み込む。
空間が、
内側から折りたたまれる。
「十六夜様」
声は、
距離を越える必要がなかった。
ここでは、
“向けた想い”そのものが届く。
「聞こえていますか」
返事はない。
ただ、
十六夜の意識が、
わずかにこちらへ傾いた。
私は、
その背後――
崩れかけた世界の中心に言葉を置く。
「私は記録者です」
言葉は、
宣言ではなく、事実として流れ込む。
「本来なら、あなたが壊れていく過程さえ
すべて、書き残す役目でした」
その瞬間、
十六夜の精神世界が、
ほんの一拍、静止する。
私は続ける。
「ですが――
それを“嫌だ”と思ってしまったのです」
影が、揺れた。
「あなたの崩壊を記録することが……
どうしようもなく、耐え難いと」
これは告白ではない。
正当化でもない。
ただの、
私の内側で起きた事実だ。
「それが、私の“願い”なのだと――
ようやく、理解しました」
義眼の感覚が、消える。
代わりに、
命核の中心が、はっきりと脈打つ。
私は、静かに宣言する。
「だから今だけは――
観測を、やめます」
十六夜の意識が、
ゆっくりとこちらを向いた。
その表情は、
はっきりしない。
けれど――
“独りではない”と、理解した揺れだけがあった。
私は、彼の前に意識を下ろす。
触れるのは、
形あるものではない。
――冥波。
精神の最深部に流れる、核。
命核と命核が、
限界ぎりぎりの距離で重なり合う。
「十六夜様」
想いが、
直接、届く。
「あなたが壊れるというのなら――」
迷いはない。
「たとえ私の命核が砕けても、
共に揺らぎます」
これは契約ではない。
救済でもない。
「どうか、私を拒まないでください」
その瞬間。
二つの意識が、
ゆっくりと、しかし確実に重なり始めた。
――深層共鳴。
それは、
魂と魂が寄り添う行為ではない。
支え合うために、同じ深さへ落ちる選択。
世界が反転する。
黒でも白でもない、
意味のない空洞。
ここには、善も悪もない。
あるのは、重さだけ。
私は理解する。
壊れかけている命核を、
元に戻そうとしてはいけない。
それは癒しではなく、否定だ。
砕けようとしているのは、
傷そのものではない。
――一点に集まりすぎた、“重さ”。
だから。
私は、
十六夜の痛みを引き受ける。
奪わない。
消さない。
ただ、
一人で壊れなくていい形へと、分ける。
それが、
深層共鳴の本質。
私は、
この人と共に落ちていく。
十六夜の深層へ。
痛みの核心へ。




