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死神相談所  作者: 兎月心幸
第三章「死神相談所誕生秘話」
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第三十八話「観測者が踏み込んだ夜」

 霊境の朝は、いつもより静かだった。


 十六夜は机に置かれた冥令珠を見つめ、

 ほんの一瞬だけまぶたを伏せる。


「……指令、来たみたいだね」


 声は軽い。

 いつもと同じ調子。

 ――けれど、その軽さが、どこか“薄い”。


 瑞響はすぐに気づいた。


(……十六夜様の冥波……昨日より、さらに希薄)


 波形そのものは整っている。

 だが、奥。

 命核の深層で、微細な揺れが残っている。


 支えを失えば、

 音もなく崩れる――そんな不安定さ。


 十六夜はその視線に気づいたのか、

 いつもの苦笑を浮かべた。


「そんな顔しないでよ。

 昨日のは、ただの疲れだし。ほら、もう普通でしょ?」


 ――普通ではない。


 だがその笑顔は、

 瑞響にそれ以上言わせないためのものだと、

 瑞響には分かってしまう。


 だから瑞響は、声の温度をわずかに落とした。


「十六夜様。

 ……本当に、無理はしていませんか」


 責めでも、心配でもない。

 事実を確かめるための、観測者としての問い。


 だが十六夜は、その言葉に小さく眉を下げた。


「瑞響……優しくしないでよ」


 笑う。

 けれど、声の奥が僅かに潰れている。


「そんな言い方されたら……

 大丈夫だって、言い張るしかないじゃないか」


 冗談めいている。

 だが、冥波は怯えを隠しきれていなかった。


 瑞響は静かに息を吸う。


 本当は言うべきだった。


 ――行かないでください。

 ――あなたは、もう限界です。

 ――昨日の揺らぎは、偶然ではありません。


 だが、それを告げれば、

 十六夜はさらに無理をする。


 だから代わりに、

 昨日よりも、ずっと柔らかい声で言った。


「……十六夜様。

 昨夜、あの時に仰っていたことを、覚えていますか」


 十六夜は一瞬きょとんとし、

 耳の後ろを掻くように視線を逸らす。


「え、あー……その……

 瑞響が支えるとか言うから、なんか照れて……忘れた」


 忘れていない。


 瑞響は確信する。

 照れ隠しにしては、冥波があまりにも怯えている。


 怯えの波形が、はっきりと訴えていた。


 ――壊れたくない。

 ――でも、もう自分では止められない。

 ――それでも、行かなければならない。


 瑞響は、言葉を選ぶ。


 そして願いを置くように、静かに告げた。


「十六夜様。

 どうか……ほんの少しで構いません。

 ご自身の“痛み”に、気づいてください」


 十六夜は、一瞬だけ動きを止めた。


 沈黙の中に、

 長く擦り切れ続けた疲労が滲む。


 だが――

 すぐに、いつもの笑顔を貼り付ける。


「大丈夫だよ、瑞響。

 ……どうせ僕は、誰かの声が聞こえたら行くしかないし」


 そう言って、十六夜は笑った。

 いつも通りの、柔らかくて人のいい笑み。

 けれど――その目元だけが、ほんの一瞬だけ遅れて動いた。


 唇が、わずかに乾く。


「……そうしないと……」


 声が、ほんの少し低くなる。

 冗談めかした調子が抜け落ち、

 喉の奥で、言葉が引っかかった。


 十六夜は一度、息を吸い直そうとした。

 けれど呼吸は整わず、

 代わりに、押し殺していた本音が零れ落ちる。


「……僕は……」


 視線が泳ぎ、

 まるで“そこにない何か”を見ているみたいに、焦点が外れる。


「――壊れるしか、ないから」


 声は小さく、

 瑞響に向けたというより、

 自分自身に言い聞かせるような呟きだった。


 言い終えた直後、

 十六夜ははっとしたように口を閉じる。


 そして、少し遅れて、

 いつもの調子を取り戻そうとするみたいに、また笑った。


 “どんな声でも”。


 それは十六夜の本質。

 そして同時に――

 彼自身を、静かに削り続ける毒でもあった。


 瑞響の胸が、かすかに軋む。


(……もう、十分です)


 あの呟きが、まだ耳の奥に残っている。

「壊れるしかない」と――

 自分に言い聞かせるように落とされた、あまりにも静かな諦め。


 けれど、それを止める言葉を、

 瑞響は持たなかった。


 十六夜は軽く肩を回し、

 何事もなかったかのように歩き出す。


「さ、行こうか。

 ……次の魂、きっと怖がってるだろうし」


 振り返らない背中。

 声も、歩幅も、いつもの十六夜。


 ――ただひとつ。

 その背中だけが、ひどく重く見えた。


 瑞響は、無意識のうちに歩幅を速める。


(……見届けます)


 それは記録者としての言葉ではなかった。


(あなたが壊れる、その瞬間だけは――

 必ず、止めます)


 霊境の空気が、ひそやかに震える。


 まるで、

 運命の扉が一枚、静かに開いた音のように。


 * * *


 霊境の奥深く――空気が、いつもより冷たい。


 十六夜は歩幅を変えずに進んでいた。

 足取りは一定。

 呼吸も整っている。


 けれど、瑞響には分かる。


(……十六夜様の冥波が……薄い)


 形を保ってはいる。

 だが輪郭が曖昧だ。

 芯が、霧の中に溶けかけている。


 昨日より、明らかに危うい。


 揺らぎは表に出ていない。

 むしろ静かすぎるほど静かだ。


 本当に壊れかけている死神は、

 怒りも恐怖も見せない。

 ――“何も感じないことで、自分を保つ”。


 今の十六夜は、まさにそれだった。


 瑞響は声をかけようとした。

 だが、その前に――


 十六夜が小さく息を吐き、前を指さす。


「……いるよ。あっち」


 霊境の裂け目のような暗がり。

 光の届かない、水底のような青灰色。


 そこに、小さな人影がぽつんと佇んでいた。


 子供だ。


 ただ、前回の子とは決定的に違う。


 空気が重い。

 近づくだけで、胸の奥が沈む。


 十六夜が歩み寄ろうとした瞬間――

 瑞響の冥具が、鋭く震えた。


(……これは……危険……!

 十六夜様の命核が、この未練に“直接”反応している……!)


 止めなければならない。

 そう判断するより早く、


 十六夜は、もう前しか見ていなかった。


 近づくほどに、“違和感”が形を持つ。


 子供の魂は、うつむいたまま、

 喉元を押さえている。


 その指の隙間から、

 淡い“光の粒”が零れ落ちていた。


 声にならなかった言葉。

 押し殺され、喉で砕け、

 形になれなかった感情の残滓。


 瑞響は息をのむ。


(……声の……残響……?

 この子は、生前……声を上げられなかった……)


 理解した、その瞬間。


 十六夜が、小さく呟いた。


「……あ……」


 瑞響が振り返る前に、

 十六夜の冥波が――崩れた。


 一瞬だった。


 静かに保たれていた波形が、

 ひび割れたガラスのように走り、

 鋭い音を立てて軋み始める。


(まずい……!

 これは前回とは比べ物にならない……!)


 十六夜の視界には、

 “今の霊境”と“あの日の光景”が重なっていた。


 喉に触れる、子供の仕草。

 声が出ない恐怖。

 助けを求めたいのに、

 声が震えて、音にならなかった絶望。


 それは、

 十六夜の命核の最深部を――正確に抉った。


 十六夜は、ゆっくりと膝に手をつく。


「……っ……」


 呼吸が乱れる。

 胸が、うまく上下しない。


 それでも、

 十六夜は笑おうとした。


「だ、大丈夫……。

 今回は……ちゃんと、できる……」


 その笑みが、

 瑞響には痛々しくて仕方がなかった。


(……十六夜様……もう、限界です……!)


 十六夜の冥波が、突如として荒れ狂った。


 胸元から溢れ出した波動が、

 鋭い刃のように空気を切り裂き、

 霊境の光を縦に裂く。


 同時に、

 それを必死に包み込もうとする

 柔らかな揺らぎが広がった。


 抑えようとする力。

 突き破ろうとする力。


 相反する二つの波が、

 十六夜の内側で正面からぶつかる。


 ――次の瞬間。


 胸の奥で、

 何かが“割れる音”がした。


 それは骨でも、霊具でもない。

 魂の中心――

 命核そのものに走った、確かな亀裂の音だった。


 十六夜は息を詰まらせ、

 思わず胸を押さえる。


 霊境の景色が一瞬、歪む。

 光が軋み、

 空気が悲鳴を上げるように震えた。


 瑞響は反射的に手を伸ばす。


「十六夜様――!」


 肩に触れかけた、その瞬間。


 十六夜の体が、震えた。


「触るな……っ。

 今、触られたら……

 ……崩れる、から……」


 それは拒絶ではなかった。


 “壊れるところを、見られたくない”。


 幼い願いの残響が混じった声。


 瑞響の胸が、強く締めつけられる。


(どうして……

 どうしてあなたは……

 そんな状態で、それでも……前へ進もうとするのですか……)


 子供の魂が、ひときわ強く震えた。


 その微かな震動が、

 十六夜の命核に、もう一度刃を落とす。


 霊境の足元が歪む。


「やば……っ……!」


 片膝をつき、

 前のめりに倒れかける十六夜。


 その瞬間――

 瑞響は、迷わなかった。


「……失礼します、十六夜様」


 抱き留めた、その行為は――

 死神として決して許されない“禁忌”だった。


 十六夜の暴走冥波が、

 直接、瑞響へ流れ込む。


 命核に、鋭い痛み。


 それでも、瑞響は離れない。


「十六夜様……

 あなたは、もう一人ではありません」


 十六夜は震えたまま、

 瑞響の胸元に額を押しつける。


「……ごめ……っ……

 ちょっと……だけ……

 もう……無理……かも……」


 その一言だけで、

 瑞響の命核が、熱を帯びた。


(……あぁ。

 あなたは……こんなにも弱っていたのですね)


 このままでは、

 十六夜の命核は砕ける。


 だから――


 瑞響は、決めた。


「……深層共鳴を行います」


 その言葉に、十六夜の瞳が大きく揺れた。


「だめ……瑞響……それは……!」


 だが瑞響は、もう視線を逸らさない。


 深層共鳴。

 それは、冥波を重ねる行為ではない。


 表層の揺らぎを整える通常の共鳴とは違い、

 命核の奥――

 記憶と感情と痛みが折り重なった、

 魂の最深部へ直接踏み込む禁忌。


 触れれば、相手の傷も恐怖も後悔も、

 すべてが流れ込んでくる。

 制御を誤れば、共鳴した側の命核すら砕ける。


 癒魂庁ですら、

 最後の手段としてしか許可しない領域。


 それでも瑞響は、言葉を引かなかった。


「構いません」


 声は静かだった。

 だがそこには、判断でも命令でもない、

 “選んだ覚悟”だけがあった。


「あなたを失うくらいなら……

 命核が砕けるほうが、ずっとましです」


 十六夜の呼吸が、止まる。


 そして――


 次の瞬間、

 二人の冥波が、深く、深く重なり合った。


 “深層共鳴”。


 触れた刹那、

 瑞響の足元から“世界”が抜け落ちた。


 重力が、消える。

 上も下も、前も後ろも、意味を失う。

 霊境の光も、音も、温度も――

 一斉に引き剥がされていく。


 ただ、落ちる。


 身体の感覚が遅れて追いつき、

 心臓が置き去りにされたような空白が胸に広がる。

 耳鳴りにも似た沈黙が、

 意識の内側で膨張していく。


 ――深い。


 思考が、重さを失うほどの深さ。

 “今”という時間すら、

 細い糸のように引き延ばされていく。


(……これが……)


 抵抗しようとした瞬間、

 別の感覚が、否応なく流れ込んできた。


 息が詰まる。

 胸の奥が、締めつけられる。

 声にならない恐怖が、

 記憶よりも先に、感情として突き刺さる。


 十六夜の“痛み”だ。


 理由も名前も持たないまま、

 ただ「耐えてきた時間」だけが、

 濁流のように押し寄せてくる。


 それでも、瑞響は迷わない。


(十六夜様……

 どうか、私を……

 あなたの痛みに、触れさせてください)


 霊境の空気が、

 ひび割れたように軋み――


 二人の魂は、さらに降下していく。


 十六夜の深層へ。

 痛みの核心へ。


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