第三十七話「危うき月影に寄り添う銀の調律」
霊境の光が静かに薄れていく中、
十六夜は胸の奥で乱れていた呼吸を、ゆっくりと整えていった。
さっきまで心を締めつけていた揺らぎは、ほとんど残っていない。
瑞響が寄せた冥波の温度が、まだ深いところにかすかに灯っていた。
(……大丈夫だ。
今なら、迷わず向き合える)
十六夜は静かに前を見据えた。
その目には先ほどの“ひび割れた脆さ”ではなく、
静かに研ぎ澄まされた意志が宿っていた。
瑞響は横目で十六夜の波形を観測する。
揺らぎはない。
むしろ、中心に一本の芯がまっすぐ通っていた。
(……立ち直られたのではない。
――覚悟を決められたのですね、十六夜様)
十六夜は歩みを進める。
胸の奥に沈む過去の痛みはまだ消えてはいない。
それでも足は止まらなかった。
そこにあるのは――
「今度こそ、誰もひとりにしない」という揺るぎない根底。
光の向こうに、小さな魂の影がぽつんと揺れている。
十六夜は息を吸い、瑞響へと短く告げた。
「……行くよ。
今なら……ちゃんと向き合える」
瑞響は静かにうなずく。
「はい。
私はここにおります。どうか……あなたのままで」
十六夜はわずかに目を細め、
まっすぐ小さな魂のもとへと膝をついた。
その動きには、もう揺らぎはない。
まっすぐで、静かで、優しい強さだけがあった。
子供の魂は怯えたように十六夜を見上げる。
涙の光が、小さな体の輪郭を震わせていた。
『……ママ……ぼくを……
まってて いいって……おもってくれた……かな……?』
十六夜はゆっくり微笑んだ。
その笑みはどこか悲しみを含んでいるのに、
どこまでも優しかった。
「うん。
きっと、お母さんは――何度だって君を迎えに行きたかったよ」
子供の瞳が揺れる。
その揺れが十六夜の胸を深くえぐる。
……あの日、届かなかった声。
呼ばれた名前の先に、続けられなかった言葉。
十六夜の奥底に沈む“傷口”が微かに疼く。
それでも――逃げなかった。
「君が知らないところでね。
お母さんはあの日、何度も振り返ってた。
君の名前を呼びたくて……戻りたくて……
でも、どうしても手を離さなきゃいけなかっただけなんだ」
子供の唇が震える。
『……ママ……ほんとは……ぼくのこと……』
十六夜はそっと言葉を重ねた。
「大好きだったよ」
断言だった。迷いはなかった。
十六夜は小さな手へそっと手を伸ばす。
今度は躊躇わない。
自分の痛みで立ち止まらない。
「だから……もう、ひとりで泣かなくていい。
迎えを待ちながら凍えていた手は――僕がちゃんと握る」
子供はぎゅっと目を閉じ、震える手で十六夜の手を探す。
触れた瞬間、安心したように震えが収まった。
『……いざよい……さん……
ここ、こわかった……
でも……て、にぎったら……あったかい……』
十六夜は優しく目を細める。
「うん。
怖かったね。
……もう、大丈夫だよ」
霊境の奥から淡い光が細い道のように伸びる。
成仏の境界だ。
十六夜は立ち上がり、子供の手を引いて進む。
足元の光が二人の影を揺らす。
『……ぼく……いっても……ママ……おこらない……?』
「怒らないよ。
君が待っていてくれたことを、きっと誇りに思う」
『……ほんと……?』
「ほんとだよ」
光の門の前で、子供は最後にもう一度だけ手を握った。
『……ありがと……いざよいさん……
て……あたたかかった……』
十六夜は微笑む。
「行っておいで。
……君はもう、ひとりじゃない」
子供の魂は光の粒となり、
まるで母の胸へ帰っていくように昇っていった。
十六夜はその光が完全に溶けるまで、静かに見つめていた。
瑞響が静かに歩み寄る。
「……十六夜様」
十六夜はわずかに息を整え、答えた。
「大丈夫。
今はもう……揺れてないよ」
瑞響は十六夜の波形を観測し、深くうなずく。
(……支えられたからこそ、この背中は折れなかった)
その瞬間、瑞響の命核はわずかに光を宿した。
霊境の夜気は澄み、
石段に落ちる月明かりがふたりの影を細く伸ばしていた。
十六夜は歩いているだけなのに、
どこか浮いて見えた。
瑞響はその背を見つめながら観測する。
(……危険域に近い)
冥波は整っている――ように見える。
だが命核の奥に微細な濁りが沈んでいる。
(本来なら……癒魂庁に連れていくべき状態だ)
癒魂庁。
死神の命核を治療する唯一の医療庁。
ひび割れや霊障なら、彼らの術式で修復できる。
(けれど、十六夜様の場合……これは術式で触れられない“深層の痛み”)
(無理に治療を受ければ、むしろ命核は砕ける)
だから――
いまは私だけが、あなたを揺らぎの外へ引き戻せる。
十六夜は空を見上げ、苦笑した。
「でも……最近ちょっとおかしいんだよね。
波形が、自分の意思と違うんだ。
制御しようとしても……別の方向に引っ張られる」
(やはり……命核の亀裂が拡大している)
十六夜は気づいていない。
小さくため息をつき、十六夜は軽く冗談をこぼした。
「まぁ、僕が壊れたら――瑞響が記録すればいいでしょ」
その言葉に、瑞響の胸が初めて“ざわり”と揺れた。
(……冗談ではありません)
十六夜の背が――
本当に「消えてしまいそう」に見えたから。
瑞響は静かに言葉を紡ぐ。
「十六夜様。
……あなたが壊れたら、私は困ります」
十六夜の足が止まった。
瑞響は迷わず続ける。
「私には、あなたの冥波が必要です。
“存在そのもの”が継続していなければ……
私はあなたの隣に立てません」
十六夜の胸がかすかに震える。
「……なんだよ瑞響、それ。
なんか最近……らしくないよ」
瑞響は静かに首を振る。
「いいえ。これは観測ではありません。
……“判断”です」
十六夜は息を呑んだ。
瑞響の視線だけが、揺らがず十六夜を捉えている。
「このままだと、あなたの命核は……
“次の未練”で、確実に砕けます」
月明かりが静かに揺れた。
十六夜は言葉を失う。
瑞響は最後に――
十六夜だけに向けた声で告げた。
「だから。
……どうか、私を頼ってください」
月光の下、
ふたりの影は寄り添うように細く重なっていた。




