第三十六話「月影を支える銀の誓い」
――その日、十六夜の冥波は、朝からわずかに軋んでいた。
任務が始まると同時に、霊境・浅層の白霧がざわりと揺れる。
十六夜は歩きながら、胸の奥を押さえた。
「……冥波が、落ち着かない」
理由は分かっている。
いや――分かりたくないだけだった。
霊境に漂う微細な震え。
ほんとうに小さな揺らぎなのに、“泣き声”に似た波動が混ざっている。
普段なら情報として処理して終わるはずのそれが、
今日は胸の奥を、直接叩くように響いた。
瑞響は一定の距離を保ち、影のように静かに後ろを歩いていた。
「十六夜様。冥波の乱れが増しています」
十六夜は歩みを止めず、乾いた声を返す。
「……放っておけ。任務に支障はない」
「記録課として、状態の把握は必要です」
「……そういう仕事だろ。好きに記録すればいい」
淡々とした言葉。
だが瑞響は、その奥に滲む揺らぎをすでに解析していた。
「魂の揺らぎが前方にあります。
中級霊障相当。負荷が大きい可能性が高いです」
十六夜は小さく息を吐く。
(……またか)
心臓が重い。
霧の奥で“助けて”と叫んだ誰かの残響が、耳の内側にまだ張りついているようだった。
――やめろ。
思い出すな。
記憶の端に、少年の輪郭が滲む。
名前を呼ぶ声。
“来世でまた会おう”と笑った夕焼けの影。
十六夜の呼吸が浅く揺れた。
「十六夜様?」
瑞響の声が、霧に吸い込まれるように淡く響く。
「……大丈夫だ。問題ない」
「ですが、冥波は明確に動揺しています」
「……ならキミの記録が正しいんだろう。自覚はないけど」
歩みは乱れない。
けれど、胸の奥の痛みだけは誤魔化せなかった。
(魂の気配……子供?
いや……違う。もっと深い……“待っている”波形……?)
十六夜は眉を寄せる。
「対象の位置、あと百歩ほど先です」
「分かった」
いつもなら何の感情も交えずに任務に入るはずだった。
だが今日は、胸の奥に冷たい針のような痛みが刺さって離れない。
(行かなきゃ。
誰かが……消えかけてる)
揺らぎが“届かなかった声”と重なりそうで怖い。
怖いのに――足は止まらなかった。
瑞響は十六夜の背を静かに見つめる。
揺れない霧の中で、ただひとり、十六夜だけが影のようにかすかに震えていた。
(……危うい)
観測者としての事実。
十六夜の冥波は間違いなく乱れている。
乱れは“痛み”の兆候。
揺らぎは“恐れ”の波形。
本来なら死神としては致命的な不安定さだ。
だが――
(……なぜ、あれほど壊れかけているのに)
瑞響が見る波形は、まるで矛盾そのものだった。
自分が傷ついているのに、なお他者に手を伸ばそうとする波形。
微かな光を覆うようにそっと揺れる、脆くて優しい波。
義眼冥具《響映の眼》がそれを記録するたび、
その波形は“優しさ”という未知の概念に近づいていく。
しかし瑞響は、その語を理解しない。
感情という回路が、生まれつき存在しない。
それなのに。
胸の奥で、ごく微細な刺激が走った。
波形にも換算できず、冥具にも記録できず、意味も名前も持たない――
ただの“痛みに似た揺らぎ”。
(……綺麗だ……)
その言葉が浮かんだ瞬間、瑞響は息を止めた。
“綺麗”という評価は、本来記録には不要だ。
論理はそこにない。あるのは――感情の“原型”に似た反応。
(……十六夜様。
あなたは、なぜそんな波形を保てるのですか)
まだ言葉にはならない。価値にも意味にも変換できない。
ただ瑞響は、静かに気づいてしまう。
(……私は、この背中を見失いたくない)
それが、生まれて初めて芽を持った
“想い”という名の、小さな、小さな光だった。
霊境の深層へ近づくほど、白霧は静かに色を失い、音のない薄闇が降りていった。
冷たい空気――なのに、その冷たさ自体が“孤独”を抱えているように感じられる。
十六夜は歩みを緩めた。
(……この揺れ方、子供の未練だ)
霊境の奥で、光の粒がひとところに滞り、震えるたびに細かく揺れている。
瑞響も足を止め、義眼冥具《響映の眼》を細めた。
「未練波。強度は低いですが、波形が偏っています。
恐れと……自己否定が混じっています」
十六夜は前へ進む。霧が切れ、視界が開ける。
そこには――小さな影がいた。
膝を抱え、顔を伏せ、霊境の静けさに溶け込むようにうずくまる幼い魂。
周囲で揺れる光は、まるで泣き声が粒になって零れているようだった。
十六夜は息を吸い、胸がわずかに疼いた。
(……似ている。“あの時”残った気配に)
けれどそれは記憶ではなく、ただ一瞬の痛みとして胸を掠めるだけ。
深追いする前に静かに沈んでいく。
子供の魂が、小さく呟いた。
『……ママ……まだ……こないの……?』
十六夜の肩がわずかに沈む。
その声には絶望はなかった。
ただ、誰かを信じ続けて擦り減った“疲れた期待”だけが滲んでいた。
「十六夜様。冥波が微細に乱れています。
無理に近づくと負荷が――」
「……大丈夫だ」
そう告げながら、十六夜の呼吸の底はかすかに揺れている。
子供は続けた。
『……ぼく……悪い子だったのかな……
だから迎えに来てくれないんだよね……』
霊境の空気が静かに沈んだ。
光粒が揺れるたびに、十六夜の胸の奥に細い痛みが走る。
(……言わせたくなかった。
こんな言葉を、誰にも)
十六夜は膝をつき、子供と視線を合わせる高さへ。
霊境の光が横顔を淡く照らした。
表情は淡々としているのに、奥底に沈んだ痛みだけがわずかに覗く。
「迎えに来なくていい子なんて、誰もいないよ」
その声は静かで柔らかかった。
霊境の冷たさをそっと覆うような温度を持っていた。
子供の魂が、はじめて顔を上げる。
涙の形をした光が揺れ、震える声が零れた。
『……じゃあ……ぼく……
待ってても……よかった……?』
問いが落ちた瞬間――霊境の光が、ふっと揺れた。
その揺らぎが十六夜の胸に触れた刹那、波紋のような光が空気にほどけて広がる。
霊境の粒子が引き寄せられるように集まり、淡い糸のような“浅い共鳴の縒り”が十六夜と子供を結んだ。
術ではない。意図でもない。
二つの揺らぎが近すぎたために起こった、無意識の冥波共鳴だった。
――視界に断片が落ちる。
白い部屋。
離れていく母の指。
泣きながら「ごめんね」と触れた、あまりに優しい笑顔。
扉の向こうで震えながら、“戻ってくるからね”と何度も呟いた声。
(……これは……)
子供は知らない。
母は捨てたのではなかった。
泣きながら、振り返りながら、本当は手を離したくなかった。
十六夜は息を呑む。
胸の奥の痛みに輪郭が生まれた。
(……違う。
今、胸を揺らしたのはこの子の言葉だけじゃない。
もっと前に……僕が誰かに言わせてしまった言葉の残響だ)
あの夕焼けの影が胸を掠める。
だが、今回は飲み込まれない。
十六夜はゆっくりと目を上げ、迷いなく告げた。
「――うん。よかったよ」
それは慰めですらなかった。
同情では決して届かない。
十六夜だけが“確かな事実”として知ってしまった答え。
小さな胸の奥へ、そっと灯りを置くような声音だった。
子供の魂が、十六夜の言葉を胸の奥で転がすように顔を上げる。
『……じゃあ……ママも……ぼくを……
まってて……いいって……思ってた……かな……?』
幼いのに、その問いは深く静かで、十六夜の命核をまっすぐ叩いた。
霊境の空気がひとつ沈む。
胸の奥で触れないようにしていた場所が軋んだ。
(……やめろ……揺れるな……)
しかし冥波は揺れ続ける。
この子の「信じたいのに信じられなかった時間」が、十六夜の痛みと同じ形をしていたから。
胸が冷たく締まり、呼吸が浅くなる。
霊境が遠く歪んだ。
十六夜の冥波が、崩れかけていた。
瑞響はすぐに気づく。
「十六夜様、冥波が……崩れています」
十六夜は首を振る。
「……平気だ。僕は――」
言い切れず、波形がさらに沈む。
霊境の地面にひびのような揺らぎが走る。
「っ……!」
胸を押さえ、歯を食いしばる。
(……もう届かない声を……掘り起こすな……)
その瞬間――瑞響の気配が、変わった。
静かで、穏やかで、しかしこれまで見せたことのない“近さ”を孕んで。
「十六夜様」
その一声だけで、十六夜の揺らぎが一瞬止まった。
瑞響は迷いなく歩み寄る。
(……崩れさせない。今だけは)
感情の名はまだない。
ただ、その方向だけが瑞響の中に確かにあった。
「単独で未練に触れれば、あなたの冥波は崩壊します」
十六夜は顔をしかめる。
「……僕は大丈夫だ。任務だ。やらないと――」
「大丈夫ではありません」
初めて瑞響は十六夜の言葉を遮った。
淡々としているのに、どこか柔らかい声だった。
瑞響は十六夜の胸元へ手をかざす。
指先から流れた冥波が銀の光となり、十六夜に触れた。
「あなたは、自分が壊れてでも他者を救おうとする波形をしています」
十六夜の呼吸が止まる。
瑞響はさらに一歩近づく。
「その在り方は……危険で、そして――」
ほんの一拍、言葉を探し。
「……美しいです」
十六夜は声を失った。
瑞響の冥波は、十六夜の痛みに寄り添うように調律されていく。
“あなた一人で揺れなくていい”と告げるように。
「共鳴します」
宣言ではなく、ただ十六夜を支えるための言葉だった。
二人の冥波が淡い輪となり、静かに重なる。
「あなたが揺らぐのなら……」
銀の波が乱れを包み込む。
「私が支えます」
重なった瞬間、十六夜の胸の奥に絡みついていた“冷たい痛み”が、少しずつ解けていく。
世界の輪郭が戻る。
呼吸が深くなる。
(……こんなの……初めてだ)
誰かが自分の揺らぎに寄り添い、壊れそうな部分を支えてくれるなんて。
胸が、じんと熱くなる。
「……ありがと、瑞響」
囁きのような声。
言うつもりなどなかった言葉が零れたみたいに。
瑞響は驚いたように睫毛を揺らし、しかし表情を変えず冥波を維持する。
「どうか……一人で抱え込まないでください」
十六夜は答えない。
ただ、胸の奥で確かに何かが溶けていく。
瑞響は十六夜の揺らぎが完全に収まったのを確認し、静かに告げた。
「……これで、未練に触れられます」
十六夜は深く息を整え、小さな魂へ手を伸ばす。
その指は、もう震えていなかった。
――隣で、同じ呼吸をしてくれる者がいたからだ。




