第三十五話「月光――影が並び始める夜」
十六夜の昔話がひと区切りついたころ、
霊境の空気がほわりと柔らかく揺れた。
緋音はカップを両手で包みながら、
十六夜と瑞響を交互に見比べる。
(……いや、待って待って?
この二人、昔こんな空気だったの……?
今の距離感どこに置いてきたの……?)
胸の奥で膨らむ違和感がついに口から漏れた。
「えっ!? 十六夜くんと瑞響さんって昔こんな感じだったの!?
すっごく意外なんだけど……今はこんなに仲良しなのに!」
十六夜はぱちりと瞬きし、
小動物みたいに首をかしげる。
「え? 仲良し……?」
瑞響もまったく同じ角度で傾いた。
「……仲良し、なのでしょうか?」
——シンクロ率100%。
緋音は思わずカップを置いて立ち上がる。
「ほらもう!! その息ぴったりが仲良しなの!!」
十六夜は困ったように目を伏せた。
「気づいたら一緒にいた、ってだけだよ」
瑞響も自然に続く。
「気づいたら一緒にいました」
——また完璧に同時。
緋音の眉が跳ね上がる。
「いやいやいや!!
そんな“野良バディ結成”ある!?!?」
十六夜は本気で首を傾げた。
「……普通じゃない?
隣にいて、気づけばそのまま……みたいな」
瑞響は淡々と、しかし当たり前のように言う。
「十六夜様は……観測していたら自然と隣に立っておられましたので」
「いや瑞響こそ。気づいたら隣で記録してたし」
「それはこちらの台詞です」
(なんでこう……本人たちだけ気づいてない夫婦歴二十年みたいな空気なの……?)
緋音はぽかん。カップを落とさないのが奇跡だった。
「待って……
この人たち、仲良しの根拠が“心”じゃなくて“魂”なんだけど……?」
カップを持つ手にそっと力が入る。
そして、つい口が滑った。
「でも十六夜くん、昔めちゃくちゃツンツンしてたんでしょ?」
「え……?」
十六夜の耳がぴくりと跳ねた。
瑞響は、その反応すらデータ扱いで即答する。
「ええ。出会った当初の十六夜様は、俗にいう“ツン”に分類されていました」
「はっ!? ツンって何だよ、ツンって!」
「事実です」
「いや、違っ……! 僕はただ必要最低限の距離を——」
瑞響は淡々と追撃する。
「『来るなら勝手にしろ』
『必要以上の会話はいらない』
など、典型的な“距離確保型の初期反応”を示されていました」
十六夜の耳がさらに真っ赤になる。
視線は迷子になり、緋音のツボが完全に刺激される。
(うわ……かわ……
十六夜くん、照れると本当に猫……)
「ち、ちが……っ!
あれは……その……!」
瑞響は小さく首を傾げ、無感情に刺す。
「では現在は、なぜ距離を詰めておられるのですか?」
「っ……」
十六夜は喉がつまって言葉が出ない。
(この反応……完全に“認めたくないけど図星”のやつ……)
瑞響は締め括るように淡々と言った。
「私は記録を述べただけです」
十六夜はぷいっとそっぽを向き、小声でこぼした。
「……ほんと、昔から容赦ないな……瑞響は……」
瑞響は淡々と返す。
「十六夜様の記録ですので。正確な記述は重要です」
十六夜の耳はまだ真っ赤のまま。
わざとらしい咳払いが落ちた。
「……こほん。
話が脱線したけど——続きを語ろうか」
空気がすっと整い、
十六夜はまた“語り部”の顔へ戻っていった。
* * *
——あれから、一ヶ月が過ぎた。
十六夜と瑞響は、
毎日のように任務を共にするようになっていた。
最初の頃は、ただ歩き、ただ記録するだけの関係だった。
言葉は最小限。
互いに干渉しない“隣り合う静寂”。
けれど、一週間、二週間と経つうちに——
瑞響は十六夜の冥波が“揺らぐより前”の微細な変化を読めるようになり、
十六夜はその察知の早さに、
いつのまにか安堵を覚えるようになっていた。
歩幅は自然と合い、
沈黙は沈黙のまま心地よく、
任務帰りの空気がほんの少しだけ柔らかくなる。
まだ友情でも、信頼でもない。
ただ——
「隣にいると、胸の重さが減る」
そんな無自覚な距離だけが静かに積み重なっていった。
霊境の帰り道。
細い石段に月光が降り、ふたりの影を長く伸ばしていた。
その夜、十六夜はふだんより歩みが遅かった。
頬を撫でる霊境の冷気が冥波の奥をざわつかせ、
胸の揺らぎは隠しきれずに漏れていた。
そして、十六夜本人より先に——
瑞響がその変化に気づく。
「……冥波が乱れています」
十六夜は立ち止まり、
月光を掬うように静かに息を吐いた。
「……最近、うまくいかないんだ。
制御が、前より難しくなってる」
横顔に落ちた月の線が、
ふだんは見せない“不安”を淡く照らし出す。
過共鳴の影。
自分の力が暴れる恐れ。
そして——“あの日”から残り続ける痛み。
十六夜は視線を落とし、
靴先に落ちる月をじっと見つめた。
「……任務中に暴走したら困るし。
迷惑、かけたくない」
その言葉はあまりに静かすぎて、
強がりよりも“怯え”に近かった。
瑞響はそっと一歩踏み出す。
「……十六夜様」
その声は観測者としてではなく——
ただ“ひとりの死神”としてのものだった。
「あなたが揺らぐ時は、私が支えます」
十六夜の瞳が、わずかに揺れる。
「……キミが、支える?」
「はい。
あなたの冥波がどれほど乱れても——
共鳴を安定させる方法はあります。
観測者として、ではなく……」
瑞響は一拍だけ沈黙し、
揺れる感情を押し出すように言葉を続けた。
「……あなたを落とさないために」
その不器用で真っ直ぐなひと言に、
十六夜の胸がかすかに震える。
素直に受け止められなくて——
「……なんだよ、それ。
キミらしくないな」
視線をそらす。
十六夜自身が気づかないほど、声は柔らかかった。
瑞響は静かに微笑むでもなく、
ただ同じ速度で隣に並んだ。
「らしくないでしょうか。
……けれど、今の私にはこれが正しいと思えます」
十六夜は返事をしない。
代わりに歩き出す。
瑞響は音もなく並んだ。
月光の中でふたつの影が伸び、
互いを追い越すことなく寄り添うように揺れる。
夜風が二人の間をすり抜けても、
その距離はほんの少しも乱れなかった。
——変わり始めるものは、いつだって音を立てない。




