第三十四話「心なき二人が歩き始めた夜」
霧が静かに閉じ、白夢の姿が完全に消えた。
十六夜はしばらくその場に立ち尽くした。
胸の奥が、ひどくざわついている。
理由はわからない。
白夢の言葉が刺さったわけでもない。
問いかけが痛んだわけでもない。
ただ――
何かが、胸の底で微かに光った気がした。
(……どうして、こんな感覚に)
十六夜は胸元を押さえた。
触れたところに熱はない。
けれど、心核の奥に“揺らぎ”が広がる。
その瞬間だった。
――ノイズ。
視界の端が、わずかに白く滲む。
光の粒が逆流し、霧のような世界が重なり合う。
十六夜は息を呑んだ。
(……またか)
押し返そうとしたが、遅かった。
記憶の断片が、勝手に流れ込んでくる。
――夜が落ちていた。
光もなく、音もなく、
ただ“終わり”だけが横たわる無音の空間。
その中心に、ひとつの影が横たわっていた。
胸の奥に深い裂け目を抱え、
魂の輪郭はところどころ欠け、
今にも霧散しそうな――危うい少年の魂。
それが、死に際の十六夜だった。
静かに歩く足音がひとつ。
霧が柔らかく揺れ、その向こうから銀白の影が現れた。
風もないのに揺れる羽織。
淡い紫銀に光る瞳。
その奥には、黎明官の証である彼岸花の紋様。
白夢は十六夜のそばに膝をつき、
崩れかけた魂にそっと手を伸ばした。
「……ずいぶん無茶をしたんだね」
十六夜の魂は答えない。
声を出す余力もほとんど残っていなかった。
けれど、微かな気配だけが揺れていた。
――だれ、か……
たす、け……て……
か細い、断片のような願い。
白夢はその震えを真っ直ぐに受け止める。
痛ましげでも、悲しげでもなく――
ただ、揺らぎの奥にあるものだけを見つめて。
「……消えたいわけじゃないんだね。
本当は、まだ……救いたかったんだろう?」
淡い光が十六夜の胸から滲み出す。
壊れた魂の底に沈んでいた“願い”の名残。
白夢はその光を掬い上げるように、手のひらで受ける。
「この波形……複雑だ。
だけど、まだ消えていない。
なら――繋ぐ価値はある」
霧がゆっくりと広がる。
白夢は両手で十六夜の霊核を包み込むように触れ、
崩れた欠片をそっと寄せ集める。
光がかすかに震え、
まるで反射的に心臓が打つように波紋が広がった。
しかしその光は弱く、
形を保つことすら難しそうだった。
白夢が目を伏せる。
「ごめんね。本当なら、もっと穏やかな別れだったはずなのに」
かすかな祈りのような響き。
やがて白夢の融型冥波が静かに満ち、
十六夜の魂に流れ込む。
割れた欠片をつなぎ、
願いを核に宿らせ、
新たな命核の雛形へと組み上げていく。
柔らかな光が胸の奥で灯る。
夜色と金の揺らぎを帯びた、満月のような光。
白夢はそれを見つめながら、静かに告げた。
「君の願いは……きっと、誰かを照らす。
痛みの中で生まれた光ほど、強いものはない」
十六夜は応えない。
ただ、深い眠りにつくように静かだった。
白夢はそっと立ち上がり、
霧の向こうに視線を向ける。
「……行こう。
君の“夜”は、ここから始まる」
霧が優しく流れ、
十六夜の魂を包み込む。
淡い光は閻魔のもとへ導かれ、
静かにその姿を消していった。
こうして“死神・十六夜”は誕生した。
痛みを抱えたまま、
光になりきれないまま、
それでも――誰かの声に寄り添うために。
――記憶が途切れる。
十六夜は肩で息をしていた。
手が震えていることに気づき、慌てて握りしめる。
(……なんだ、今の……)
胸の奥が熱い。
触れられた記憶の余韻が、まだ消えない。
だが十六夜は首を振る。
否定するように、切り捨てるように。
(どうでもいい……あんなの、覚えていなくていい)
けれど、
押し返したはずの光は、まだ命核の奥で微かに揺れていた。
十六夜は何も言わない。
ただ静かに歩き出す。
霊境の灯りが十六夜の背を淡く照らし、
その影がわずかに揺れた。
* * *
冥界・記録課。
無機質な光が淡く揺れ、
部屋そのものが“静かな呼吸”をしているようだった。
空中には無数の霊子が薄膜のように漂い、
触れ合うたびに微かな“記録音”が鳴る。
紙でも墨でもなく、魂の残響だけで構築された空間。
中央には円環状に並ぶ“記録符”が浮遊していた。
霊子で編まれた符は触れずとも内容が読み取れ、
まるで情報そのものが意志を持っているかのように淡く脈打つ。
記録課は、冥界に存在するすべての死神とすべての魂――
生前・死後・任務・冥波・記録・罪と祈り
そのすべてを保管し続ける“冥界の中枢”。
ここで扱われるのは、
感情ではなく“事実”。
想いではなく“履歴”。
揺らぎではなく“波形”。
だからこそ、室内には雑音がほとんどない。
記録官たちは会話すら最低限。
冥波の波形を読み取り、符に刻む動作だけが淡々と続く。
感情の温度のない世界。
ここでは、
“想い”より“記録”が優先される。
そしてその中心で――瑞響は静かに立っていた。
義眼冥具《響映の眼》が霊子の光を吸い込み、
彼の周囲だけ淡い波紋が広がる。
並ぶ符の揺らぎが、瑞響の呼吸に合わせて同期する。
指先は止まらず、一秒ごとに情報が分類され積み上がっていく。
揺らぎも、ため息も、会話もない。
瑞響は“観測者”としてここにいるだけだった。
記録課の中でも、瑞響の席周辺だけ光がわずかに濃い。
彼が拾う情報量は他の記録官の数倍。
義眼が読み取る“魂の揺らぎ”は、黎明官に次ぐ精度。
だから瑞響は常に求められていた。
“記録すること”。
“観測し続けること”。
それが彼の存在理由であり、役割だった。
その時、上位記録官が静かに近づく。
「……瑞響。お前に特例任務だ」
瑞響は符の動きを止め、顔を上げる。
《響映の眼》の蒼が淡く光を吸い込む。
「対象は……十六夜。
冥波変動が規定値を超えている」
淡々とした説明――だがその裏に微かな緊張が走った。
「彼は響型の特異個体だ。
制御が甘いまま任務を重ねれば、過共鳴の危険が高い」
瑞響は瞬きひとつせず答える。
「……観測、ということですか」
「観測だけではない。
“随伴”だ。
しばらく十六夜と行動を共にし、冥波の推移を記録しろ」
瑞響は静かに頷く。
その顔に変化はない。
「随伴任務。了解しました」
記録官は十六夜の記録符を束ねて瑞響に渡す。
「気をつけろ。
あいつは壊れかけている。
心ではなく――魂の方だ」
瑞響は符を受け取り、淡々と礼を返す。
「観測対象の状態を記録します」
その声に温度はない。
使命感も、心配も、同情もない。
ただ“記録課の死神”としての返答だけ。
霊子が音もなく流れ、部屋全体が再び淡い脈動を始めた。
瑞響は符を抱え、ゆっくりと歩き出す。
その瞳に揺らぎはなかった。
記録課の静けさの中で――
瑞響はまだ知らない。
この随伴が、自分自身の命核に“はじめての揺らぎ”を生むことを。
* * *
霊境の浅層。
白霧が静かに流れ、光がゆらゆらと揺れていた。
十六夜はいつものように無言で歩いていた。
不要な思考を切り落とし、心の揺らぎを沈め、
ただ“任務をこなす機械”のように足を運ぶ。
――そのとき。
背後で、気配が“正しく揺れた”。
振り返ると、銀灰色の髪の死神が静かに佇んでいた。
霧の中に溶けるような、無音の存在感。
息遣いすら感じさせない、完璧な静寂。
瑞響だった。
義眼冥具《響映の眼》が霧を透かして十六夜を捉える。
あの瞳に映ると、誰であれ“記号”に還元されてしまいそうな――
そんな冷ややかな光。
瑞響は無駄のない動作で一礼した。
「……初めまして。記録課・瑞響です。
本日より、あなたに随伴します」
その声には抑揚がない。
礼儀として形だけ整えた声色。
“心”がまったく宿っていない。
十六夜は、ほんのわずかにまつげを揺らした。
「……僕の任務に、記録課が?」
「はい。十六夜様の冥波変動が規定値を超えており、
継続的な観測が必要と判断されました」
淡々と告げる瑞響。
十六夜は、瑞響の冥波に“揺らぎが一切ない”ことに気づく。
まるで深い海底のように、波ひとつ起こさない静謐。
十六夜とは別方向の“空虚”。
違和感があった。
「……理由を詳しく」
十六夜の声も静かだった。
感情を研ぎ落とした声。
瑞響はわずかに首を傾け――必要事項だけを告げる。
「あなたは響型の特異個体です。
冥波の揺らぎが大きく、制御が不安定。
このまま単独任務を続ければ、過共鳴の危険性が高いと判断されています」
「……つまり、“危険だから見張る”と?」
「正確には、冥波の推移を“観測する”任務です」
瑞響は呼吸すら乱さない。
まっすぐ十六夜を見るが、そこに“他者を見る眼差し”はない。
ただ“対象”として焦点を合わせているだけ。
「随伴理由はそれだけです」
十六夜は小さく息を吐いた。
苛立ちでも、落胆でもなく――
ただ、理解したという意味だけの息。
「……拒否権は?」
「ありません。
私は記録課の指令に則り、あなたを観測しに来ました」
どこまでも機械的な返答。
だが――
十六夜はその無感情の奥に、ほんの微弱な揺らぎを見た。
(……この死神、心が“無”に近い)
十六夜自身も似たような状態だったからこそ、
その“空白”に気づいた。
「……来るなら、好きにすればいい」
諦めにも似た声だった。
「了解しました。では改めて――」
瑞響の義眼が光を拾う。
淡い紫銀の波形が十六夜の冥波をかすかに照らした。
「あなたは私の“観測対象”。
それ以上でも、それ以下でもございません」
霧が静かに流れる。
二人の距離は、触れられないほど遠い。
十六夜は背を向けたまま言った。
「……別にいい。
実際、僕らは観測対象と記録者……それだけの関係だ」
「承知しました」
瑞響は一定の位置を保ちながら歩き出す。
十六夜の歩幅を正確に追い、
呼吸のリズムまで合わせてくる。
(……無駄がない)
十六夜は内心で感想ともつかない言葉を漏らす。
霊境の白霧が、ふたりの間をゆっくりと通り抜けた。
まだ遠い。
まだ触れもしない。
けれど――その瞬間から、
“記録者と観測対象”という最も冷たい関係が、静かに動き始めた。




