第三十三話「空虚な夜に揺れる残光の彼岸花」
灯りが静かに落ち、
空気がゆらぎ始める。
霊境は音もなく、過去へと姿を変えていった。
――十六夜が、まだ“十六夜”としての心を持たなかった頃。
滲むように景色が溶け、
静寂だけが世界を満たす。
その中心で、十六夜の横顔はただ冷たかった。
感情の揺らぎを完全にそぎ落とし、
歩幅は一定、呼吸は浅く、影さえ揺れない。
“生”がどこにもない。
淡々と任務へ向かうその姿は、
まるで役割だけが歩いているようだった。
――その静寂に、光の粒がノイズのように挟まる。
ふわり、と。
断片的な幻影が視界の端を掠めた。
夕焼け。
笑い声。
少年の明るい瞳。
――朔夜! 見てみろよ、これ!
世界そのものを肯定するような眩しい笑顔。
十六夜の瞳の奥が、ほんのかすかに震えた。
(……やめろ)
胸の奥で、冷たい拒絶が反射的に走る。
光はすぐ霧のように消えた。
十六夜は歩みを乱さない。
ただ胸の奥だけ、ひゅっと縮む。
またノイズ。
柔らかな風。
並んで歩く影ふたつ。
触れ合った手の温もり。
――離れ離れになってもさ。
きっと、来世でまた会おうよ。
未来を疑わないまっすぐな横顔。
十六夜の指先がかすかに強張る。
(……やめてくれ)
息が浅くなる。喉が熱を帯びる。
だが表には一切出さない。
光は、また消えた。
(もう……いないんだ)
優しい記憶。
暖かな日々。
それらは今の十六夜にとって“痛み”でしかない。
思い出すわけにはいかなかった。
十六夜は淡々と歩く。
無駄をそぎ落とした導魂の動き。
完璧な冥波操作。
まるで、心を削り落とした代わりに
“役割だけ”を残したように。
――思い出さないために。
――揺らがないために。
美しい記憶ほど痛い。
だから押し返す。拒む。
拾ってしまわないように。
(……思い出したくない)
その言葉だけが、空洞になった命核の奥で響いていた。
記憶の断片が完全に消えたとき、
霊境の空気は急激に静けさを取り戻す。
十六夜は一度だけ瞬きをして、
強引に心の凪を作った。
その瞬間――
かすかな“揺らぎ”が訪れた。
魂だ。
薄い光が震えながら形を成し、
小さな影となって立ちすくむ。
怯え、震え、助けを求めている。
だが、十六夜の足取りは変わらない。
迷いも焦りもなく、
均整のとれた歩幅で静かに近づく。
冥波は揺れない。
魂の水面には一つの波紋もない。
影が泣きそうに声を漏らす。
「こ……こわ、い……」
声が途切れる前に、
十六夜の視線がその魂を捉えた。
優しさではなく、同情でもない。
ただ“解析”するような鋭さ。
十六夜は右手を伸ばし、揺らぎなく触れた。
「大丈夫。行く場所は……もう決まっている」
温度も抑揚もない。
それでも不思議な“確信”だけが乗っていた。
導魂の術式が指先で展開される。
光が揺れ、柔らかな膜が魂を包む。
十六夜はほとんど瞬きをせず、
微細な冥波を寸分違わず整えていく。
熟練死神でも難しい制御を、
十六夜は呼吸するようにこなした。
魂は震えを止め、
静かに光へとほどけていった。
何も求めない。
何も言わない。
ただ導かれるままに。
「……終わった」
その声は感想ではなく、ただの“報告”。
胸の奥は沈黙したまま。
さっき刺した記憶のノイズも、完璧に押し沈められていた。
まるで最初から存在しなかったように。
十六夜は背を向ける。
次の任務へ向かうために。
静かに、冷たく、完璧に。
役割だけが歩き、
心はどこにもいなかった。
霊路は息をひそめるように静かだった。
任務が終わっても十六夜の表情は揺れない。
導魂庁が近づくにつれ、複数の冥波がざわりと反応した。
「また終わったのか。早いな、十六夜」
「冥波の安定、桁違いだ」
「導魂庁の宝だな……祓魂庁に来てくれたらもっとすごいぞ」
評価、賞賛、期待が重なる。
十六夜は軽く会釈を返す。
その所作も完璧だった。
だが、その顔には……何も宿らない。
嬉しくもない。
応えようとする意識もない。
ただ“最適な反応”を選んでいるだけ。
「十六夜、次の任務も任せていいか」
「冥波講習、後輩に教えてくれ」
「お前の解析は他の死神じゃ無理だ」
十六夜は静かに頷く。
瞳は淡い光を映すだけで、何も感じていない。
優秀さゆえに、
その“無”は誰にも気づかれなかった。
「十六夜なら大丈夫だろう」
「失敗とは無縁の死神だ」
「神童」「天才」「切り札」
そんな言葉だけが響く。
十六夜は聞き流し、歩き続けた。
どれも胸に触れず、
魂にも響かない。
まるでガラス越しの音。
──そのとき。
遠くから笑い声がした。
くだらない冗談に死神たちが笑っているだけ。
それだけなのに、
十六夜の足がほんの一瞬だけ止まった。
夕焼け。
影。
並んで歩く二人。
“離れ離れになっても、また会おうよ”。
胸の奥が、わずかに揺れる。
すぐに押し殺す。
(……関係ない)
十六夜は歩く。
淡々と。
揺らがないように。
褒められても、期待されても、
その世界に“自分”はいない。
ただ役割を果たすためだけに歩いた。
誰も気づかない。
十六夜の優秀さの裏に――
“ひとりきりの空白”が広がっていることを。
そして。
この静寂を破る存在が近づいていることにも。
十六夜が次の任務へ歩き出した、その瞬間――
霊路の空気がふっと“薄く”なった。
風もないのに霧が揺れる。
十六夜の胸奥で、
“冥界の階位”とは別種の圧が静かに震えた。
冥衛官でも、祓魂庁の頂でもない。
もっと深いところ――冥界そのものの理に触れるような気配。
黎明官。
閻魔庁のさらに奥、“思想”と“世界の形”に干渉する唯一の役職。
冥界の均衡を監視し、
時に閻魔すら意見を仰ぐ存在。
死神の誰もが触れられない領域に立つ者。
その名を知らぬ死神はいない。
だが目にした者はほとんどいない。
十六夜の冥波が、
わずかに“自動で”静まり返った。
これは服従でも恐怖でもない。
本能が理解してしまう格の差。
世界と繋がっている者の波だ。
霧が薄れ、
光の輪郭が姿を帯びていく――
そして白夢が現れる。
十六夜は立ち止まる。
反応は速いが、感情はない。
ただ冥波の変化を正確に捉えた。
霧の奥に影が浮かぶ。
近づくほどに輪郭が明瞭になる。
銀白の長髪。
紫銀の瞳。
揺れる霧の羽織。
黎明官――白夢。
足音ひとつ立てず、
霧に影を残すこともない。
存在していて、存在していないような矛盾。
白夢は十六夜の前に立ち止まり、
揺れない瞳で射抜いた。
その視線だけで、十六夜の核心がひやりと震える。
白夢が静かに口を開く。
「……君が、十六夜か」
声は深くも軽くもない。
ただ真実だけを語るような静けさ。
十六夜は形式的に会釈する。
「導魂庁の任務中です。
黎明官殿がここに何の――」
白夢は返答を挟まない。
十六夜の冥波にそっと触れた。
冥波が吸い込まれる。
十六夜の波が白夢の融型に引かれ、
心の奥を覗かれたような感覚が走る。
十六夜の眉がわずかに寄る。
反射的な拒絶。
白夢の瞳が細められた。
祈るようで、哀しいような光。
「……あるんだね」
「君の中には、まだ“揺らぎ”が」
十六夜は胸を押さえた。
夕焼け。
笑顔。
“来世でまた会おう”という約束。
封じた記憶の影が浮かぶ。
白夢はそれ以上追わず、静かに目を伏せた。
「君は……とても静かだ。
静かすぎるほどに、ね」
十六夜の指先がほんのわずか震える。
他人が見れば分からない微細な揺れ。
白夢は続ける。
「否定する資格は、私にはない。
だが――」
顔を上げる。
黎明の光を宿した瞳で告げた。
「心を閉ざしても、救いには届かないよ。
……君が誰かの声を“本当”に拾いたいのなら」
十六夜の瞳が揺れた。
ほんのわずかに。
白夢は背を向け、霧へ歩き出す。
消える寸前に、静かに言葉を落とした。
「この先で、君は選ぶことになる。
“終わり”に寄り添うか――
それとも“始まり”を創るか」
霧が閉じ、白夢の姿が消える。
静寂が戻る。
だが十六夜の胸には、
どうしようもないざわつきが残っていた。
白夢が触れた冥波の余韻が、
命核の奥で淡く波打つ。
忘れたかった記憶が――
戻ってくる前兆のように。
霧の向こう側で、白夢は一度だけ振り返った。
瞳の彼岸花紋が静かに揺らめく。
風もない霊境で、羽織の端だけが震えた。
白夢は低くつぶやく。
「……覚えていないか。
いや、忘れたくなるほど……痛かったのだろうね」
責めでも哀れみでもない。
ただ深い祈りだけを滲ませながら。
「君の魂は、一度は砕けかけていた。
それでも――まだ光を選ぼうとしている」
白夢はそっと目を伏せる。
「……どうか。
今度こそ、君自身が選んだ“朝”へ辿り着けるように」
霧が彼の姿を包み、
残光だけを残して消えた。
静かに漂う薄い光の粒だけが、
十六夜の未来をほんの少し照らしていた。




