第三十二話「月光の霊境にて――静かな夜に開く扉」
呪いの屋敷を後にしてから、まだそう時間は経っていない。
霊境の夜空には、糸のように細い三日月が浮かんでいた。
その月からこぼれた金色の光が、相談所の扉へそっと落ちる。
淡い一筋――
それだけで、夜の空気がわずかに揺れた。
揺れた光は扉の隙間を伝い、細く長く室内へ伸びていく。
床をなぞる金の線が、灯りと静かに混じって――
まるで、今この瞬間に“ひとつの物語が開かれようとしている”ようだった。
ラディスは、自分の糸を自分で断ち切って光になって還った。
リーシアは胸元に“二重糸”を抱き、自分の足で朝の道を歩いていった。
ヴァルターの魂は封印符に縫い留められ、相談所の棚で静かに裁きを待っている。
――夜の相談所。
霊境の灯りは、いつものように淡く揺れていた。
柔らかく、透明で、静かな夜そのものが呼吸しているみたいだった。
緋音はソファに腰を下ろし、両手で温かいカップを包む。
十六夜が淹れたお茶は、胸のざわつきをほどきながら奥へ落ちていく。
ふと視線の端に棚の封印符が映る。
あの屋敷の“残りかす”――ヴァルターの魂。
その紙片ひとつで、ラディスの笑みとリーシアの横顔が胸の奥でふっと疼く。
部屋の奥では瑞響が記録符を整理していた。
紙の触れ合う乾いた音が、一定のリズムで空間へ溶けていく。
十六夜は台所で湯をわかしながら、もう一つのカップを指先で温めていた。
揺れた袖の鈴が、“ちり”と静かに鳴る。
この空気が、緋音はたまらなく好きだった。
静かで、あたたかくて、
まるで「家族の夜」の延長みたいで。
ふと、あの日の感触が指先に蘇る。
ひとり霊境をさまよっていた自分へ、そっと差し伸べられた細い手。
冷たい闇の中で、そこだけあまりにあたたかかった掌。
その温もりと一緒に落ちてきた問いかけは、今も胸の奥で灯り続けている。
『キミは、どんな結末をお望みかな?』
あの日から、緋音はこの相談所で短い時間ながらも数多くの魂と向き合ってきた。
親友にマフラーを渡したかった少年の声。
娘に「愛してる」と伝えたくて呪いに縫われていた母親の声。
そして――「誰かの夜を照らしたい」と願った少女の声。
その全部に、十六夜は同じように静かに手を伸ばしていた。
(でも、わたし……十六夜くんのこと、ほとんど知らない)
どんな夜を越えて、その言葉にたどり着いたのか。
どうして、この場所を選んだのか。
問いはずっと心の奥で眠ったままだった。
気づけば――その丸まっていた問いが、するりと形を持って落ちた。
「ねぇ、十六夜くん。
相談所って……どうやって出来たの?」
ほんの一瞬。
十六夜の手が止まり、指先の鈴がわずかに震えた。
緋音ははっとして肩をすくめる。
「あ……ごめん。聞いちゃダメだった?」
十六夜はゆるく首を横に振る。
否定の仕草なのに、目の奥には“どこか迷い”があった。
返事を探すように視線を落とした、その時――
「緋音さん」
静かで、揺らぎのない声。
瑞響が記録符を閉じ、緋音へ向き直っていた。
「十六夜様は……もう語れるはずです。
あの日から、私はすべてを記録してきましたから」
“十六夜様”と呼ぶその声音には、瑞響にしか出せない緊張と敬意が宿っていた。
緋音は思わず息をのむ。
「え、瑞響さんまで関わってるの?
……なんか、余計気になる」
その一言で、ふっと空気がゆるむ。
十六夜が小さく息を吐いた。
「……全部を話すことはできないけどね」
カップを置き、緋音をまっすぐ見つめる。
その瞳は、いつもより深く揺れていた。
「でも、相談所が“生まれた日”のことなら……
緋音にも知ってほしいよ」
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
緋音は自然と、静かにうなずいた。
その瞬間。
霊境の灯りがふっと揺れる。
まるで空間そのものが、過去へ通じる合図を送るように。
どこか遠くで鈴の残響が震えた。
瑞響は再び記録符を開き、ひとつ呼吸を整える。
「……では。
十六夜様が初めて“一つの魂”と向き合った日の記録を」
十六夜はゆっくり目を閉じ、
小さく、遠い声のように呟いた。
「――あの日。
僕は初めて、“声にならない声”に触れたんだ」




