表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死神相談所  作者: 兎月心幸
二章「操り人形の糸の先」
33/47

第三十一話「終幕:傀儡の朝、自由の糸」

 リーシアの言葉が静かに空気へ溶けていき、

 母の魂が金色の光の尾を引いて天へ昇ったあと。


 空間には――息をするのも惜しいほど、やわらかい余韻が満ちていた。


 緋音はほっと息を吐き、目元の涙を指で拭う。

 十六夜も静かに瞼を閉じ、長い呼吸で心を整えていた。

 ラディスでさえ、重く沈んでいた肩をわずかに落とす。


 “終わった”。

 誰もがそう思った。

 十四年の悲劇が、ようやく一度幕を閉じたのだと。


 ――ただひとりを、除いて。


 瑞響だけは動かなかった。

 義眼の蒼が警鐘のように細く震え、視線は一点――

 空中に残る“操り糸核”に縫い付いたまま。


 金色の粒子がゆっくりと消散していく。

 ミリアの魂が昇華した証。

 本来なら、その瞬間に核も霧のように消えるはずだった。


 だというのに――


 “核”は、呼吸するように…薄く…震えていた。


 瑞響の喉がわずかに鳴る。


「……ありえない……本体が消えたのに、霊核が……」


 言葉が終わる前だった。


 操り糸核が、

 まるで心臓を取り戻したかのように――


 ドクン。


 空気が震えた。

 落ち着いていた余韻が、まるで“壊される前提の静けさ”だったかのように、ぴしりと罅を生む。


 緋音が息を呑む。

 十六夜が反射的に身構える。


 瑞響の義眼が蒼白に収縮し、光を散らした。


「皆さんっ!! 伏せてッ!!

  ――まだ終わってません!!」


 その叫びが空間を裂いた瞬間――


 世界が、逆落ちした。


 金色の粒子がひとつ、またひとつ、

 天へ昇るのではなく、影へと“落ちて”いく。


 まるで祝福が、呪いに塗り替えられるように。


 光は吸い込まれ、

 色はくすみ、

 温度は奪われ――


 屋敷はふたたび、十四年前の“暗室”へ戻っていく。


 十六夜が息を呑む。


「……これは……ミリアの霊波じゃない……違う……!」


 瑞響は額に手を当て、震える声で吐き出した。


「侵入しています……!

 母の魂は昇華しました……!

 けれど……《核》だけが空白になった瞬間――

 “別の魂”が入り込んだ……!!」


 緋音の肩がひきつったように震える。


「べ、別の……? 誰が……」


 ドクンッ。


 二度目の鼓動。

 今度ははっきりと“生き物の拍動”だった。


 紅い核が、肉をもつ球体のように脈打ち、

 その鼓動に合わせて空間がめきめきと軋む。


 壁に赤黒い“皺”が走りはじめ、

 その隙間から、冷たい霊波が滲み出す。


 十六夜の肌に粟立つ戦慄が走る。


「……冷たい……いや、違う……

 これは怒りじゃない……哀しみですらない……

 “空白の感情”……!」


 瑞響の義眼が見開かれる。


「……違います……これは……

 “人間だった者の霊波”です……!

 でも……母のそれとは桁が違う……

 ――これは、“命令の波長”……!!」


 操り糸核の中心が、ぐにゃりと歪んだ。


 床を這う糸がゆっくりと立ち上がり、

 束になって“骨”を形作る。


 背筋だけはまっすぐ、

 癖のない髪型を模し、

 見覚えのある“輪郭”が――ゆっくりと起き上がる。


 緋音が顔を青ざめさせた。


「……あれ……いや……そんな……」


 影が顔を上げる。


 瞳のあるべき場所には光がなく、

 ただ“命令”という空虚だけが、穴となって開いていた。


 そして――


 空虚が、声を持った。


「……ミリア。

   よくも……“欠陥”を残したまま消えたな……」


 その声は、空気そのものを凶器へと変える。


 糸がざわりと揺れ、

 影はゆっくりと口角を吊り上げ――


 ヴァルター・ミルヴァストが、霊影として降り立った。


「おとう……さま……」


 リーシアの声は、壊れた糸のように細く震えた。


 リーシアの声は、風に消え入りそうに弱かった。


 だが――

 その一言に、操り糸核がビクリと跳ねた。


 赤黒い糸がざわつき、まるで“娘の声”へ反応したかのように震える。


 ヴァルターの影がぎしり、と不自然な角度でこちらを向く。

 関節に糸が引っ張られているかのような、壊れた人形の動き。


 空洞の瞳がリーシアを見た瞬間――

 背筋に、冷たい刃を当てられたような悪寒が走る。


 母の視線とは違う。

 “守るための愛”ではなく、

 ただ“命令するためだけに造られた視線”。


「……リーシア……」


 声だけは記憶のまま。

 なのに奥には、血の温度が一滴もなかった。


 十六夜が即座に前へ出ようとした、その瞬間――


 床に散った紅糸すべてが一斉に震えた。


 ――近づくな。


 まるで父の支配を歓迎するように、空間が閉じていく。


「……やっぱり……あなたでしたか……」


 瑞響の声が震えた。

 義眼を押さえる指が白くなるほど力が入り、肩もわずかに震えている。


「十四年間……屋敷に縫い付けられた怨念……

 母の愛じゃない……“父の命令”が核に残っていた……!


 ミリアさんが解放された今、空白を埋めたのは……

 ――あなたの魂……!!」


 いつも無表情の瑞響の声は、怒りでわずかに掠れていた。


 紅糸の震えが増していく中、緋音が顔を上げる。


「そうだ……! あの核を壊せば――」


「ダメだ!」


 十六夜の声が鋭く空気を裂いた。


「え……でも……!」


「壊したら、“中身だけ”が外へ撒き散らされる」


 十六夜は短く言い切る。


「母の想いも、十四年前の残響も、

 ……そして“父の命令”も。

 全部、呪いになって外へあふれる」


 瑞響も続ける。

 怒りで息が乱れ、義眼がうるんで見える。


「屋敷の外まで……全部、巻き込みます……!

 人が住んでる区域も……霊災になるでしょう……!」


 十六夜は悔しげに唇を噛んだ。


「核は壊せない。

 ……引き剥がすしか、方法はない」


 操り糸核の鼓動が加速する。


 天井から紅糸が垂れ下がり、

 壁を覆い、

 通路が“赤い織物”へと変わって塞がっていく。


 窓は赤黒い霧に飲まれ、

 足元の糸は輪を描いて退路をふさぎ――


 まるで“逃げ道を消しながら獲物を追い詰める”ように、家全体が閉じていく。


「逃げ場がない……!

 このままじゃ、誰も外へ出られない……!」


 十六夜の叫びが虚空へ吸い込まれていく。


(……また、だ)


 紅糸が暴風のように荒れ狂う空間の中心で、

 ラディスは胸の奥に、乾いた笑いをひとつ落とした。


(こうして“逃げられない状況”の中で――

 誰かの思惑とか、命令とか、呪いとか……

 そんなもんに囲まれながら、俺はずっと戦ってきた)


 耳の奥で、遠い声が揺れる。


 落ち着いた低音。

 ――「息を整えろ。お前はまだ生きている」


 鋭い声。

 ――「アンタは絶対、ここで死ぬんじゃない!」


 優しい声。

 ――「怖くても……前を見て。あなたなら大丈夫」


 泣き笑いの声。

 ――「帰りたいです……みんなで……」


(あの時の俺は……“縫われる側”のままだったんだ)


 天井から降る紅糸が蛇のようにうねり、

 喉元へ迫ってくる。

 まるで十四年前の“あの夜”の続きそのもの。


(……でも、違う)


 胸の奥が焼けるように熱くなる。


 十四年分の悔しさ。

 十四年分の怒り。

 十四年分の痛み。


 全部が、一つの形を――“意思”を作っていく。


(俺は……一度も“従って”なんかいねぇよ。

 あの夜も……今日も……俺は、自分で立ってた)


 紅糸の暴風が吹き荒れる。


 壁は軋み、床は紅い縫い痕に覆われ、

 空気そのものが糸で縫われていくように重く、冷たい。


 その中で――

 ラディスはゆっくり、ただ一歩、前へ踏み出した。


 十六夜が振り戻る。


「ラディス、やめろ! それじゃあ――!」


 ラディスはかすかに笑った。


「やめないさ」


 その声は揺れも迷いもなく、

 ただ静かに、まっすぐだった。


「……傀儡でも、最後まで自分の意思で動かせてくれよ。

 俺はこの時のために選んできたんだ……って、やっと胸張って言える」


 紅糸が肩を貫き、霊子が散る。

 肌に走る痛みすら、今の彼には関係なかった。


「最後くらい……俺が“選んだ一歩”で終わらせる」


 胸元の《クロノ・シザー》が震えた。


 紅の刃光は揺れ、

 やがて――ゆっくりと金色へと染まっていく。


 その奥で、冥具核が鼓動を打つ。


 十六夜が息を呑む。


「……ラディス……まさか……!」


 すると――


 背後から、ねっとりとした声が響いた。


「くだらんな……その程度の意志で……

 “娘の失敗”が帳消しになると思うのか」


 ヴァルターだった。


 赤黒い糸の影の中から、

 骨を押し出すように顔がせり上がる。


 瞳だった空洞に、鈍い霊波が蠢く。


「リーシアは“道具”だ。

 お前のような下賤の兵が口を挟むなど――身の程を知れ」


 ラディスの肩が、わずかに震えた。

 怒りで、だ。


「……下賤、ねぇ。

 じゃあ聞くが――」


 紅糸がまるで獣のように唸る中、

 ラディスはゆっくりと顔を上げた。


「てめぇ、どの口で“父親”名乗ってんだよ」


 ヴァルターの影がぴたりと動きを止める。


「十四年も娘を呪って、

 母親を使い潰して、

 自分の執念だけを“核”に縫い付けてよ……」


 骨が軋むほど拳を握りしめ、

 ラディスは真正面から怒りを吐き捨てた。


「……ふざけんな。

 そんなもん、父親でもなんでもねぇよ」


 その一言が空気を震わせた。

 紅糸で閉ざされた空間が、微かに揺れる。


(……俺はあの夜も。

 今日までも。

 縫われ続けてきたけど――)


(今は違う)


 ラディスはゆっくり《クロノ・シザー》を握り直した。


「クロノ・シザーを“本来の形”に覚醒させるには、

 ――媒体が必要なんだよ」


 ヴァルターが嗤うように空気を震わせる。


「ほう……身を削って娘を庇うとでも? 滑稽だ」


 ラディスはそちらを見すらしなかった。


「媒体……って……まさか……!」


 緋音の声が震える。


「命核だよ」


 ラディスは静かに肯定した。


「糸も、呪いも、縫われた人生も……

 “概念ごと断つ”刃を生むには、

 俺の命核そのものを燃やさなきゃならねぇ」


 瑞響の義眼が震え、蒼光が滲む。


「……そんな……!

 使用者の魂を触媒にしたら……あなたは……!」


「そういうこった」


 紅糸を無視して一歩進む。


「でもな。

 縫われた糸で終わるより、

 自分の刃で終わるほうが、ずっとマシだ」


 その瞬間――


 《クロノ・シザー》の柄の金糸が、

 まるで胸の鼓動をなぞるように、とくん、と脈打った。


 きゅ、と糸が締まり、次の瞬間にはほどけるように震える。

 その震えに呼応して、刃先の紅がふっと色を失っていく。


 刃の縁から、金の光がにじんだ。


 細い光は一本の線ではなく、

 “糸”そのものの形を保ったまま、空中へとほぐれ出していく。


 紅の世界の中で、金色だけが異質だった。

 血に似た赤を、静かに塗り替えていく“自由の色”。


 ふわり――


 金の糸が宙に浮かび、

 ラディスの周囲に円を描くように散っていく。


 紅糸は肉を裂き、骨を縫い留めるための糸。

 金糸は、縫い付けられたものを“解く”ための糸。


 同じ「糸」なのに、その役割はまるで正反対だった。


 赤い糸のざわめきが、わずかに怯え混じりに揺らぐ。


 ラディスは、静かに目を閉じた。


「ユーノ……みんな……

 やっと、一緒に還れるな」


 呟きが零れた瞬間、

 金の光がわずかに強く瞬く。


 紅糸が腕を裂き、皮膚を裂き、霊子を削る。

 痛みは確かにそこにあるのに――

 ラディスの足取りは、ひとつも乱れなかった。


 十六夜が思わず前へ出ようとして、

 その背中を見て、足を止める。


 ラディスの肩越しに見える横顔は、

 不思議なくらい静かで、穏やかで――


(止めちゃいけない)


 十六夜の喉が、ぎゅっと詰まった。


 シザーが――カチリ、と音を立てて開く。


 その音は、紅糸の暴風よりもはっきりと響いた。


 瑞響の声が震える。


「……ラディスの波長が……完全に一致している……

 “縫われた人生を、自分で断つ者”の波形……!」


 紅糸が吠えた。

 怒りとも恐怖ともつかない声で、空間そのものを震わせる。


 ラディスは、その中心で構えた。


(怖いか?

 あぁ、怖いさ。でも……)


(これだけは、俺が選ぶ)


「十六夜……!」


 振り返らずに、名を呼ぶ。


「……“魂断ノ詞”を……俺に重ねてくれ」


 十六夜は息を呑んだ。


 胸の奥で、何かがきしむ。

 言葉にしたくない感情が、喉の奥で渦を巻いている。


 ――また、守れないのかもしれない。

 ――ここで頷くことは、友を送り出すことだ。


 分かっているのに、否定することは出来なかった。


 視界の端が、じんわりと滲む。

 それでも、表情だけは崩すまいと奥歯を噛み締める。


 けれど。


 頬を伝う“ひと粒”だけは、どうしても止められなかった。


「……あぁ。わかった」


 声はかすかに震えた。

 それでも、その震えごと――ラディスの覚悟を受け止める。


 十六夜の命核が微かに震え、

 胸の奥で、金の冥波が静かに立ち上がる。


 それは月光のような冷たさと、

 祈りのようなあたたかさを同時に孕んだ波だった。


 冥波が重なる。


 ラディスの紅い“断つ波”と、

 十六夜の金の“赦す波”が触れ合った瞬間――


 ふたりの足元から、淡い光の輪が広がった。


 輪は円を描き、

 やがて弧となって空中へせり上がる。


 紅い世界の中に、黄金の弧が一本、浮かび上がった。


 その弧は、糸でも鎖でもなかった。

 “縫い付ける”ためのものではなく、

 “縫われたものを切り離す”ためだけに存在する光。


 黄金の弧が、ラディスの背中と十六夜の胸を繋ぐ。


 ラディスの冥波が、十六夜へと流れ込み――

 十六夜の祈りが、ラディスへと返っていく。


「縫われた糸よ――

  いま、解かれよ」


 十六夜が紡いだ詩が、

 刃へと吸い込まれていく。


 白金の光が、クロノ・シザーの刃先に収束した。


 紅糸がその光を本能的に恐れたように、ざわりと揺れる。


 世界の色が、一瞬だけ反転した。


 ラディスは紅糸の中心へ跳び込んだ。


 紅と金と白金の光が、彼の輪郭を飲み込んでいく。


「待たせたな――」


 その声には、後悔も、未練もなかった。


 ただ、迎えに行く者の笑みだけがあった。


 そして。


「――ここで終わらせて、俺も、行く!」


 刃が振り下ろされた瞬間――


 紅糸の世界は、音もなく“ほどけた”。


 張り詰めていた無数の糸が、一斉に力を失い、

 赤い縫い痕が金の光へと変わっていく。


 呪いとして縫われていたすべての線が、

 ひとつ、またひとつ――静かに解かれていった。


 屋敷を覆っていた霊障が、一斉に音を失って崩れ落ちた。


 壁に縫い付けられていた影たちは、

 まるで自分の役目が終わったと理解したかのように

 ふっと光へとほどけ、空気に溶ける。


 床を走っていた赤い縫い痕は、

 金色の火花へと変わりながらゆっくり燃え上がり――

 その光が波紋のように広がり、空間全体を洗い流していく。


 まるで“悪夢だった部屋”が、

 縫い直されていくように静かに色を変えた。


 ラディスは、膝をついた。


 息が荒れているはずなのに、不思議と静かだった。


 その身体に触れる空気が、ひと粒、またひと粒――

 光になって剥がれ落ちていく。


 肩から。

 腕から。

 指先から。


 “縫われていた人生”が、光の粒として解けていくようだった。


「ラディッシュさん!!」


 緋音の悲鳴が、どこか遠くに聞こえる。


 ラディスはふっと笑った。

 痛みも、恐れも、その笑みには欠片も感じられなかった。


「……最後までその名前か。まったく……」


 声の奥に、少しだけ照れたような響きが混じる。


 光の欠片が零れ落ちるたび、

 その中心には、確かに“優しさ”のような色が残っていた。


 やがて――


 リーシアの胸元に、小さな光がひとつ落ちる。


 それは紅と金の二重糸へと姿を変え、

 操霊傀儡アニメトスの中心に、そっと溶け込んだ。


 彼女の新しい“心臓”になるように。


(そうか……これで……俺の糸も……)


(ようやく、ほどけたんだな……)


「……みんな……これでやっと……眠れるな」


 ラディスの声は、

 十四年もの間、誰にも言えなかった願いそのものだった。


 天へ昇る光の粒が、

 彼の言葉に応えるように、きらきらと舞い上がる。


 金の粒子が渦を描き、

 闇も呪いも残らない、澄んだ光の柱になっていく。


 その中心で、ラディスは微笑んでいた。


 痛みでも、恐れでもない。

 ただ――長い長い戦いからようやく解放された人間の、穏やかな微笑み。


 そして。


 その笑みのまま、静かに、完全に光へと還った。


 * * *


 屋敷を覆っていた赤い霊障はすべて崩れ去り、

 ラディスが残した金糸の余韻だけが静かに漂っていた。


 誰もが、その光に見入っていた。


 やがて、金色の粒子は風に乗り――

 彼の笑顔を思わせる軌跡を描きながら、空へ溶けていった。


 夜の端が、ゆっくりと白む。


 “呪いのない朝”が、ようやく訪れようとしていた。


 リーシアは胸元の“二重糸”をそっと握った。

 その糸は、温かく脈打っていた。


「……これ……ラディスさん……?」


 十六夜が横で静かに頷く。


「あぁ。

 キミの糸はもう、誰にも操れない。

 ……それは“自由を選んだ者の糸”だ」


 緋音が夜明けの空を見上げ、目を潤ませて呟く。


「……さようなら、ラディッシュさん……

 ありがとう……」


 風が吹き、舞い残った金粒がひとすじ空へ昇る。


 夜明けの光へ溶けていくその形は、

 まるで――ずっと縫われ続けた人生を断ち切り、

 やっと笑えた男の“最後の微笑”のようだった。


 ラディスの光が完全に消えた後だった。


 屋敷の瓦礫の影で、ひとつだけ黒い揺らぎが蠢いた。


 ――ヴァルターの魂。


 濁った邪波が皮膜のように漂い、

 形を保てないまま娘の名を歪んだ叫びへ変えていた。


「……リー……シア……は……

 わたしの……傀儡……だ……ッ」


 緋音が息を呑む。


「……まだ、糸に執着してる……」


 十六夜が静かに一歩前へ出る。

 戦う気配ではない――“線を引く者”の歩みだった。


「ヴァルター・ミルヴァルト」


 影がぎょろりと向く。


「……近寄るな……

 お前らに……わたしが……

 裁ける……わけ……」


 十六夜は淡々と告げた。


「――裁かないよ」


 影が止まる。


「僕たち相談所は、“貴方を裁く立場じゃない”。

 ただ……魂の声を聞きに来ただけだ」


 瑞響が霊子を測り、小さく首を振る。


「……未練、共鳴性ゼロ。

 “他者を痛めつける欲望”と“執着の残骸”のみ。

 救済可能性……なし」


 十六夜は静かに目を伏せる。


「……そうか」


 そして告げる。


「じゃあ……これ以上、キミの声に耳を傾けることはできない」


 ヴァルターが狂ったように吠えた。


「リーシアは……わたしの……!

 母親も……娘も……!

 すべては……わたしの……!」


 十六夜は揺るがない。


「……だからキミは救われない。

 “誰かを縛るための未練”には……僕たちは手を伸ばせない」


 瑞響が冥封符を広げる。


「拘束処理を行います。

 ――審問課へ送致」


 符が黒い魂を縛る。


 ヴァルターは必死に足掻くが――

 その魂には、誰かへの優しさの欠片もなかった。


 十六夜は小さく呟く。


「……せめて、邪魂にならずに終わる道を選ぶよ」


 封印符が閉じようとした、その瞬間――

 十六夜の袖を、小さな震える指がそっと引いた。


 リーシアだった。


「……リーシア?」


 彼女は静かに首を振る。


「……大丈夫。

 これは……わたしが、終わらせたい」


 その歩みは遅く、そして真っ直ぐ。


 封印符の中のヴァルターが滲む。


「……あぁ……リーシア……

 わたしの……娘……

 おまえは……わたしのそばに……」


 十四年前と同じ“命令の声”。


 リーシアは胸の“二重糸”に触れ、

 覚悟を込めて向き合った。


「……ごめんなさい、お父さま」


 声は震えなかった。


「わたしはもう……

 あなたの命令には従えません」


 影が濁りを揺らす。


「……命令……?

 リーシア……おまえは……わたしの……」


「――さようなら」


 その一言は叫びでも怒りでもない。

 “自分で呪いにハサミを入れる”音だった。


 封印符が強く光り、魂の未練が崩れていく。


 瑞響が息を呑む。


「……未練の糸が……リーシアさんの言葉で弱っています……」


 十六夜はただ静かに見つめた。


「……これが……キミの自由か」


 封印符の奥で、沈黙していた黒い影が――

 最後の、醜く掠れた声を押し出した。


「……リーシア……

 戻れ……

 おまえは……わたしの……もの……

 言うとおりに……していれば……

 幸せに……できた……のに……」


 その声には、愛情ではなく、

 “支配欲の残骸”しかなかった。


 リーシアは――振り向かなかった。


 胸元の二重糸にそっと触れ、

 ただ前を向いたまま、静かに瞳を閉じる。


 その背中こそが、答えだった。


 封印符が完全に閉じ、

 ヴァルターの影は沈黙の底へと沈んで消えた。


 その瞬間――

 リーシアの胸の二重糸が、淡く、優しく光を宿す。


「……ありがとう。

 わたしを縫い続けた糸も……

 今日で、終わり」


 その声音は悲しみではなく――

 呪いから解き放たれた魂だけが持つ、静かな解放の息だった。


 封印符が静かに閉じたあと。

 空気はまだわずかに震えていたが、先ほどまでの霊障の気配はどこにもなかった。


 十六夜は瑞響にそっと目を向ける。


「封印状態は……安定してる?」


「はい。霊波の乱れも最低限に抑えています」


 瑞響は淡い蒼光を宿した義眼で符を見つめ、確かめるように頷いた。

 手元の冥封符は、もうヴァルターの叫び声すら漏らしていない。

 ただ、空洞のような冷たい気配だけが、符の奥で沈黙していた。


 緋音が不安そうに唇を震わせる。


「……これ、どうするの?

 ここで審問課に送るの?」


 十六夜は静かに首を横へ振った。


「ここからは……相談所の仕事だ」


 その声には、戦いの余韻を思わせない落ち着きがあった。


「魂の転送は、霊波が安定していないと危険なんだ。

 乱れたまま送ると空間事故が起こる。……最悪、邪魂化する」


 瑞響も続ける。


「封印魂は必ず、一度相談所に持ち帰ります。

 記録課に提出し、正式な手続きで審問課へ送致されます」


 緋音は目を瞬かせた。


「つまり……裁くんじゃなくて、

 一度“帰って”から、手放すんだ……」


 十六夜は頷く。


「うん。

 相談所は“裁きの場所”じゃない。

 まず声を聞いて、歩かせる場所だ。

 最後まで導くのも……僕たちの役目だから」


 その言葉は怒りでも憐れみでもなく、

 ただ、静かな線引きだった。


 瑞響が封印符を大切に袖へしまいながら呟く。


「審問課が裁きを決めます。霧散か、封印か……

 ここから先は、私たちの領分ではありません」


 リーシアは黙ってそのやり取りを聞いていたが、

 胸元の“二重糸”へそっと指を触れ、十六夜を見上げた。


「……じゃあ……お父さまは……もう戻れないの?」


 十六夜は少しだけ息をため、逃げずに答えた。


「……うん。

 でも、それはリーシアのせいじゃない。

 “誰かを縛るためだけの未練”は……誰にも救えない。

 僕たちでも、ね」


 リーシアの瞳がわずかに揺れたが、

 浮かんだ影は悲しみではなく、静かな覚悟だった。


「……ありがとう。

 これは……わたしが決めたことだから」


 十六夜はその強さを確かめるように微笑む。


 四人の影がゆっくりと動き出す。

 朝の光が瓦礫と封印符を淡く照らした。


 封じられたヴァルターの魂は、

 瑞響の袖の奥で静かに揺れながら――


 これから向かう“裁きの場所”を、ただ無言で待っていた。


 少し離れたところで見ていた緋音が、不安そうに歩み寄る。


「リーシアちゃん……これから、どうするの?」


 リーシアは胸の糸を指先でなぞりながら、静かに答えた。


「……わたし、自分の心で生きてみたい。

 もう……命令じゃなくて。

 わたし自身が選ぶ道を、歩きたい」


 その言葉は、弱々しいのに――揺らぎがなかった。


 十六夜が、そっと言葉を添える。


「迷ったら、また来ればいい。

 相談所は……“戻ってくる場所”にもなるから」


 リーシアは驚いたように瞬きをし、やがてふわりと笑った。


 その笑顔は、命令で動く人形のそれではなく――

 “自分で笑える子”の笑みだった。


 瑞響が記録簿を抱えながら近づく。


「リーシアさん。

 今回の記録は……あなたの“選択”として正式に保存します」


 リーシアは少し瞳を伏せて呟いた。


「……ありがとう。

 わたし、ちゃんと覚えておきたい。

 お母さまのことも……ラディスさんのことも……」


 緋音がそっと微笑む。

 瑞響の無表情も、ほんのわずかに柔らかく揺れた。


 十六夜が締めるように言葉を落とした。


「キミの歩む先が暗くても、重くても。

 ――その心が迷ったときに、相談所を思い出せばいい」


 リーシアは胸の奥が温かくなるような感覚に目を細めた。


「……うん。わたし、きっと……また来る」


 そのとき、リーシアの胸元の“二重糸”が

 ほのかな光を宿し――かすかに揺れた。


 風が通り抜け、朝の光を金色に散らす。


 緋音がその小さな光に、そっと微笑む。


「……ラディッシュさん……リーシアちゃんのこと、見てくれてるね」


 リーシアも胸元を握る。


「……わたしも……守りたい。

 誰かの糸じゃなくて……わたしの意思で」


 十六夜が朝の道を見つめながら言った。


「そろそろ……行こう。

 キミはキミの道を。

 僕たちは相談所へ戻る」


 リーシアは朝風に髪を揺らしながら微笑む。


「……うん。

 わたし、進むよ。

 今度は“ひとりで”」


 すれ違いざま、緋音がそっと囁く。


「……また会おうね」


「うん。またね」


 少女同士の静かな絆が、柔らかく空に溶けた。


 リーシアは朝の光の中へ歩き出す。

 背中は小さいのに――その歩幅は確かに力強かった。


 十六夜、緋音、瑞響は霊境へ向けて歩きはじめる。


 緋音は胸に手を当て、そっと心の中で呟いた。


(……わたしも、この道を進みたい。

 十六夜くんと……みんなと一緒に)


 十六夜が振り返り、微笑む。


「帰るよ。……キミたち」


 遠くで相談所の鈴が、ちりんと鳴った。

読者の皆様、どうもこんばんは。兎月心幸です。

操り人形編はこれにて完結となります。


予定よりも長い物語となってしまいましたが、

最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございます。


今編のテーマは 「支配」「自由」「解放」。

暗い題材ではありますが、

死神相談所らしく、最後には必ず“救い”へ辿りつける物語を目指しました。


実はリーシアは、十六夜よりも前に構想があったキャラクターです。

わたし自身、強い思い入れのある子で――

だからこそ、丁寧に、心を込めて描かせていただきました。


彼女が自分の意思で立ち、歩き出した姿を、

読んでくださった皆さまが少しでも好きになってくれたら嬉しいです。


そして、まだまだ十六夜たちの“救いの物語”は続きます。

これからも 『死神相談所』 をどうぞよろしくお願いいたします。

次回の更新は1週間後の12月3日となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ