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死神相談所  作者: 兎月心幸
二章「操り人形の糸の先」
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第三十話「操り人形の糸の先――」

暴走する紅糸は、ついに限界へ達しようとしていた。


 空間全体を覆っていた“母胎の脈動”が崩れはじめ、

 糸は狂ったように暴れながらも、ところどころで“ほつれ”が生まれていく。

 そのほつれは――ミリアという存在の“心”が耐えきれなくなっている証だった。


 十六夜は鋭い眼差しで赤黒い渦を見据えた。


「……来る。

  ミリアの……最後の波だ……!」


 瑞響の義眼がけたたましい光を跳ね返し、

 同時に沈静符を複数展開。漂う紅糸へ触れさせて霊波を弱めていく。


「沈静符、効果薄……!

 命核反応、不安定化がさらに増大……

 このままでは、ミリアさんの“意志”が完全に崩壊します……!」


 緋音も胸を押さえ、声を震わせた。


「……すごく苦しがってる……

 もう……自分でも止められなくなってる……!」


 ラディスは最後の糸を斬り払って息を吐く。


「……十六夜。

 この先……俺の刃じゃ届かねぇ。

 心を縛ってる“源”そのものが暴れてやがる」


 十六夜はわずかに頷き、前へ踏み出した。


「……ああ。

 もう“戦い”じゃない。

 ここから先は……彼女自身が向き合うべき場所だ」


 紅糸の暴風がいっそう荒れ狂い、空気が悲鳴を上げた。


 しかし――

 その中心で震えていたのは、たったひとりの少女。


 リーシアだった。


 紅糸は彼女に触れようとした瞬間、怯えたように弾かれる。

 その反応は、拒絶から“迷い”へと変わりつつあった。


 胸に押し寄せる痛みと恐怖。

 逃げたい心と、向き合いたい願いがせめぎ合う。


(……お母さま……

 わたし、怖い……

 でも……ここで背を向けたら……きっと一生後悔する……

 ……だって、わたしは――)


 胸の奥が熱く震え、何かが“ほどけるように揺れた”。

 けれどその形は、まだ言葉にもならない。

 ただ、涙の手前で息を呑むしかできなかった。


 紅糸の震えは、リーシアの揺れる心にそのまま連動していた。


 十六夜が静かに声をかける。


「リーシア。

 もうすぐ……彼女の“核”が姿を見せる。

 そこから先は……キミにしか踏み込めない領域だ」


 リーシアの指が震える。

 それでも、逃げるという選択肢は最初から持っていなかった。


「……わたし……行かなくちゃ……

 これ以上……苦しませたくない……

 お母さまも……わたし自身も……」


 唇がかすかに開きかける。

 だけど、その先の“言葉”はまだ届かない。

 胸の奥にある大切な想いが、いまはまだ、痛みと一緒に沈んでいる。


 


 緋音がはっと息を飲む。

 その表情には驚きと、どこか痛みに似た共鳴が滲んでいた。


「リーシアちゃん……!」


 十六夜は、迷わず頷く。

 声は低いのに、不思議と温度があった。


「大丈夫だ、リーシア。

 キミの中にある“願い”……ミリアには必ず届く。

 彼女を止められるのは……キミだけだ」


 その言葉が、まるで鍵穴の奥で静かに“カチリ”と音を立てたかのように、

 リーシアの瞳の揺れがひとつの方向へ定まっていく。


 彼女がそっと一歩踏み出した瞬間――


 紅糸が、世界ごと息を呑んだ。


 暴風のように荒れ狂っていた糸が、

 まるで“娘の足音”を待っていたかのように一斉に動きを止める。

 空気は震え、微細な紅の粒子が静かに降り積もるように舞った。


 天井から垂れていた糸も、床に散らばっていた断片も、

 すべてがリーシアを中心にゆっくりと弧を描くように収束する。


 その光景に、十六夜が目を見開いた。


「……来るぞ。

 ミリアの“心そのもの”が……姿を現す」


 空間が、深く沈んだ。

 音も光も一瞬遠のき、世界がただ心臓の鼓動だけになる。


 赤黒い糸がゆっくりとほどけていき――

 その中心に、淡い影が立ち上がる。


 ミリアの魂だ。


 ひび割れた仮面の破片がぱらぱらと落ち、

 長く垂れた紅糸は涙そのもののように揺れていた。

 その姿は歪んでいるのに、

 それでもなお“母の面影”が確かに残っている。


「……リー、シア……?」


 たったひとつの名。

 そこには命令も、怒りも、恐れもなかった。


 ただ――

 娘を呼ぶ“母の声”だけがあった。


 リーシアは震える唇をぎゅっと噛みしめる。


(……行かなきゃ……

 ここで逃げたら……もう二度と……本当の“お母さま”には……会えない……)


 足が、自然と前へ進む。

 重いはずの一歩が、今だけは不思議と軽かった。


 赤い霧がゆっくり晴れ、

 世界がふたりのためだけに道を開けていく。


 すべては――

 母と娘、ふたりだけの対話のために。


 


 紅糸の暴風はぴたりと止んだ。

 空間に残るのは――ほどけた糸が風に舞う、かすかな音だけ。


 ミリアの魂は、絡みついていた糸が少しずつ剝がれ落ち、

 まるで“本来の姿”へ戻ろうとするように揺れていた。


 仮面の破片がぱらりと落ち、

 現れた瞳には、紅と蒼がゆっくりと溶け合っていく。


 リーシアは震える指で胸元を押さえ、

 息を整えるように小さく吸い込んだ。

 それから――一歩、また一歩と、迷いのない足取りで母へ近づいた。


「……お母さま……」


 その小さな声に、ミリアの肩がかすかに震えた。


「リー……シア……?」


 声は、弱く、触れれば壊れてしまいそうだった。

 怒りも狂気も抜け落ち、ただ“母の声”だけがそこにあった。


 リーシアの周囲でほどけた糸が光へ変わり、

 やわらかな金色の粒となって舞う。

 空間全体が、夕暮れのように淡い光で満ちていく。


 


 ミリアの霊体がゆらりと揺れ、

 糸の断片が涙のようにぽたり、ぽたりと落ちた。


「……ごめんね……リーシア……

  あなたを……愛してはいけないと思っていたの……」


 その言葉に、リーシアの胸がぎゅっと締めつけられる。

 息が浅くなり、目の奥が痛んだ。


 ミリアは震える声で続けた。


「私が……あなたを“操れば”……

  あなたは傷つかないと、本気で思っていたの……

  自由は……痛いものだから……」


 リーシアの瞳が揺れた。

 母の言葉が胸の奥に刺さるのに――

 それでも目を逸らさなかった。


 ほどけた糸は風へ溶けながら、

 ミリアの弱さと後悔を、静かに語り続ける。


「あなたが自分の心で泣くくらいなら……

  私の糸で、泣けないようにしてあげたほうが楽だと思った……

  間違っていたと……分かっていたのに……

  怖くて……あなたを手放せなかったの……」


 それは、娘を思うがゆえの“母の弱さ”だった。


 


 リーシアは足元を揺らしながらも、

 今にも崩れそうな体で、真っ直ぐに母を見つめた。


「お母さま……わたし……」


 胸の奥が熱くなる。

 今まで感じたことのない痛みが、じんわりと広がっていく。


「これが……自由ってことなの……?

 誰の糸にも繋がれていなくて……

 誰にも命令されなくて……

 ……なのに……どうして……こんなに痛いの……?」


 ぽたり、と。


 リーシアの頬を、初めて“熱い涙”が伝った。

 その涙を見た瞬間、ミリアの表情がゆっくりと変わる。


「……リーシア……あなた……」


 ミリアの言葉が空気に溶けた瞬間――

 リーシアの胸の奥で何かが弾けた。


 幼いころ、泣いた夜。

 不器用な手で背中を撫でてくれたぬくもり。

 名前を呼ばれた優しい声。

 糸ではなく、“素手”で触れようとしてくれたたった一度の記憶。


 その断片が一気に込み上げ、視界が滲んだ。


 気づけば、足が動いていた。


 ――走っていた。


 紅糸の欠片を蹴り、金色の粒子を散らしながら、

 リーシアはおもわず駆け出した。


「……お母さまっ……!」


 泣きながらその胸に飛び込む。

 細い腕で必死に、ぎゅっと抱きしめる。

 震える手は、もう“操り糸”の形じゃない。


 ミリアは驚いたように目を見開く。

 霊体は透けているのに、

 それでも娘の体温が、確かに伝わってくるように感じられた。


「リー……シア……?」


 リーシアの肩が震え、

 喉の奥で何度も言葉がつかえて、

 それでも――


「わたし……怖いよ……

 自由って……苦しい……

 でも……」


 顔を上げた。

 涙でくしゃくしゃになりながら、それでも笑おうとして。


「――わたし、お母さまを……愛してる……!」


 その瞬間。

 ミリアの霊体が、大きく、大きく揺れた。


 紅と蒼の瞳の奥に、

 どんな色にも定義できなかった“透明な光”がふわりと灯る。


 その光は、

 “母として抱いてはならない”と自分で封じ込め続けた想いが、

 ようやく息を吹き返した証のようだった。


 ミリアはずっと、自分にはリーシアを愛する資格などないと思っていた。

 愛せばまた縛ってしまう。

 操らなければ守れない――そう信じてしまった日から、

 胸の奥に芽生えた「母の気持ち」を、自分の手で押し殺してきた。


 本当は、ただ一度でいい。

 たった一言だけでいい。

 リーシアに「愛してる」と伝えたかった。

 それが、ずっと果たせなかった“未練の核”だった。


「……そんな……言葉……

  私が……言ってはいけないと思っていた言葉を……

  あなたの口から……聞けるなんて……」


 ミリアの糸がほどける速度が急にゆるやかになった。

 まるで、娘の言葉が痛みをそっと撫でているかのように。


 崩壊の波が、一度だけ静まった。


 ミリアは震える腕を、

 糸ではなく、本当に“素手”のつもりで広げた。

 触れられないと分かっているのに、

 それでも娘を抱きしめようとして。

 本当はずっと――この腕で抱きしめて、この言葉だけは伝えたかった。

「リーシア……

  私も……愛してるわ……

  ずっと……ずっと……

  あなたを……愛してた……」


 その言葉とともに、ミリアの霊体は光に満ちた。


 母を縛っていた糸は、苦しみごとほどけていく。

 紅い断片が金となり、涙のように舞い上がり、

 やがて優しい光の輪を描きはじめる。


 娘の告白が、

 母の魂を“解放”していた。


「お母さま……行かないで……!」


「大丈夫……リーシア。

  あなたはもう……誰の糸にも縛られない。

  あなたの涙は……あなた自身のもの……」


 ミリアの手はすり抜ける。

 けれど、その仕草は確かに“抱きしめようとしている母の手”だった。


「……ありがとう……お母さま……

  わたし……ちゃんと……生きていく……

  お母さまの“娘”として……」


 ミリアはふわりと微笑んだ。


「……誇りに思うわ、リーシア……

  私の……愛しい娘……」


 光が弾けた。


 ミリアの魂が静かに霧散し、

 ほどけた糸は金の粒となって天へ舞い上がり――


 世界に、ひとつの“光だけ”が残った。


 それは、

 誰にも操られない心。

 新しく生まれた、自由な魂の証。


 リーシアは胸に手を当て、震える声で呟いた。


「……もう、誰の命令でもない……

  この涙は……わたしの心で流したものだから……」


 かつて操り人形のように揺れていた糸の先に残っていたのは、

 誰かに操られるための輪ではなく、ひとりの少女が自分で選び取った“はじまり”だけだった。


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