第三十話「操り人形の糸の先――」
暴走する紅糸は、ついに限界へ達しようとしていた。
空間全体を覆っていた“母胎の脈動”が崩れはじめ、
糸は狂ったように暴れながらも、ところどころで“ほつれ”が生まれていく。
そのほつれは――ミリアという存在の“心”が耐えきれなくなっている証だった。
十六夜は鋭い眼差しで赤黒い渦を見据えた。
「……来る。
ミリアの……最後の波だ……!」
瑞響の義眼がけたたましい光を跳ね返し、
同時に沈静符を複数展開。漂う紅糸へ触れさせて霊波を弱めていく。
「沈静符、効果薄……!
命核反応、不安定化がさらに増大……
このままでは、ミリアさんの“意志”が完全に崩壊します……!」
緋音も胸を押さえ、声を震わせた。
「……すごく苦しがってる……
もう……自分でも止められなくなってる……!」
ラディスは最後の糸を斬り払って息を吐く。
「……十六夜。
この先……俺の刃じゃ届かねぇ。
心を縛ってる“源”そのものが暴れてやがる」
十六夜はわずかに頷き、前へ踏み出した。
「……ああ。
もう“戦い”じゃない。
ここから先は……彼女自身が向き合うべき場所だ」
紅糸の暴風がいっそう荒れ狂い、空気が悲鳴を上げた。
しかし――
その中心で震えていたのは、たったひとりの少女。
リーシアだった。
紅糸は彼女に触れようとした瞬間、怯えたように弾かれる。
その反応は、拒絶から“迷い”へと変わりつつあった。
胸に押し寄せる痛みと恐怖。
逃げたい心と、向き合いたい願いがせめぎ合う。
(……お母さま……
わたし、怖い……
でも……ここで背を向けたら……きっと一生後悔する……
……だって、わたしは――)
胸の奥が熱く震え、何かが“ほどけるように揺れた”。
けれどその形は、まだ言葉にもならない。
ただ、涙の手前で息を呑むしかできなかった。
紅糸の震えは、リーシアの揺れる心にそのまま連動していた。
十六夜が静かに声をかける。
「リーシア。
もうすぐ……彼女の“核”が姿を見せる。
そこから先は……キミにしか踏み込めない領域だ」
リーシアの指が震える。
それでも、逃げるという選択肢は最初から持っていなかった。
「……わたし……行かなくちゃ……
これ以上……苦しませたくない……
お母さまも……わたし自身も……」
唇がかすかに開きかける。
だけど、その先の“言葉”はまだ届かない。
胸の奥にある大切な想いが、いまはまだ、痛みと一緒に沈んでいる。
緋音がはっと息を飲む。
その表情には驚きと、どこか痛みに似た共鳴が滲んでいた。
「リーシアちゃん……!」
十六夜は、迷わず頷く。
声は低いのに、不思議と温度があった。
「大丈夫だ、リーシア。
キミの中にある“願い”……ミリアには必ず届く。
彼女を止められるのは……キミだけだ」
その言葉が、まるで鍵穴の奥で静かに“カチリ”と音を立てたかのように、
リーシアの瞳の揺れがひとつの方向へ定まっていく。
彼女がそっと一歩踏み出した瞬間――
紅糸が、世界ごと息を呑んだ。
暴風のように荒れ狂っていた糸が、
まるで“娘の足音”を待っていたかのように一斉に動きを止める。
空気は震え、微細な紅の粒子が静かに降り積もるように舞った。
天井から垂れていた糸も、床に散らばっていた断片も、
すべてがリーシアを中心にゆっくりと弧を描くように収束する。
その光景に、十六夜が目を見開いた。
「……来るぞ。
ミリアの“心そのもの”が……姿を現す」
空間が、深く沈んだ。
音も光も一瞬遠のき、世界がただ心臓の鼓動だけになる。
赤黒い糸がゆっくりとほどけていき――
その中心に、淡い影が立ち上がる。
ミリアの魂だ。
ひび割れた仮面の破片がぱらぱらと落ち、
長く垂れた紅糸は涙そのもののように揺れていた。
その姿は歪んでいるのに、
それでもなお“母の面影”が確かに残っている。
「……リー、シア……?」
たったひとつの名。
そこには命令も、怒りも、恐れもなかった。
ただ――
娘を呼ぶ“母の声”だけがあった。
リーシアは震える唇をぎゅっと噛みしめる。
(……行かなきゃ……
ここで逃げたら……もう二度と……本当の“お母さま”には……会えない……)
足が、自然と前へ進む。
重いはずの一歩が、今だけは不思議と軽かった。
赤い霧がゆっくり晴れ、
世界がふたりのためだけに道を開けていく。
すべては――
母と娘、ふたりだけの対話のために。
紅糸の暴風はぴたりと止んだ。
空間に残るのは――ほどけた糸が風に舞う、かすかな音だけ。
ミリアの魂は、絡みついていた糸が少しずつ剝がれ落ち、
まるで“本来の姿”へ戻ろうとするように揺れていた。
仮面の破片がぱらりと落ち、
現れた瞳には、紅と蒼がゆっくりと溶け合っていく。
リーシアは震える指で胸元を押さえ、
息を整えるように小さく吸い込んだ。
それから――一歩、また一歩と、迷いのない足取りで母へ近づいた。
「……お母さま……」
その小さな声に、ミリアの肩がかすかに震えた。
「リー……シア……?」
声は、弱く、触れれば壊れてしまいそうだった。
怒りも狂気も抜け落ち、ただ“母の声”だけがそこにあった。
リーシアの周囲でほどけた糸が光へ変わり、
やわらかな金色の粒となって舞う。
空間全体が、夕暮れのように淡い光で満ちていく。
ミリアの霊体がゆらりと揺れ、
糸の断片が涙のようにぽたり、ぽたりと落ちた。
「……ごめんね……リーシア……
あなたを……愛してはいけないと思っていたの……」
その言葉に、リーシアの胸がぎゅっと締めつけられる。
息が浅くなり、目の奥が痛んだ。
ミリアは震える声で続けた。
「私が……あなたを“操れば”……
あなたは傷つかないと、本気で思っていたの……
自由は……痛いものだから……」
リーシアの瞳が揺れた。
母の言葉が胸の奥に刺さるのに――
それでも目を逸らさなかった。
ほどけた糸は風へ溶けながら、
ミリアの弱さと後悔を、静かに語り続ける。
「あなたが自分の心で泣くくらいなら……
私の糸で、泣けないようにしてあげたほうが楽だと思った……
間違っていたと……分かっていたのに……
怖くて……あなたを手放せなかったの……」
それは、娘を思うがゆえの“母の弱さ”だった。
リーシアは足元を揺らしながらも、
今にも崩れそうな体で、真っ直ぐに母を見つめた。
「お母さま……わたし……」
胸の奥が熱くなる。
今まで感じたことのない痛みが、じんわりと広がっていく。
「これが……自由ってことなの……?
誰の糸にも繋がれていなくて……
誰にも命令されなくて……
……なのに……どうして……こんなに痛いの……?」
ぽたり、と。
リーシアの頬を、初めて“熱い涙”が伝った。
その涙を見た瞬間、ミリアの表情がゆっくりと変わる。
「……リーシア……あなた……」
ミリアの言葉が空気に溶けた瞬間――
リーシアの胸の奥で何かが弾けた。
幼いころ、泣いた夜。
不器用な手で背中を撫でてくれたぬくもり。
名前を呼ばれた優しい声。
糸ではなく、“素手”で触れようとしてくれたたった一度の記憶。
その断片が一気に込み上げ、視界が滲んだ。
気づけば、足が動いていた。
――走っていた。
紅糸の欠片を蹴り、金色の粒子を散らしながら、
リーシアはおもわず駆け出した。
「……お母さまっ……!」
泣きながらその胸に飛び込む。
細い腕で必死に、ぎゅっと抱きしめる。
震える手は、もう“操り糸”の形じゃない。
ミリアは驚いたように目を見開く。
霊体は透けているのに、
それでも娘の体温が、確かに伝わってくるように感じられた。
「リー……シア……?」
リーシアの肩が震え、
喉の奥で何度も言葉がつかえて、
それでも――
「わたし……怖いよ……
自由って……苦しい……
でも……」
顔を上げた。
涙でくしゃくしゃになりながら、それでも笑おうとして。
「――わたし、お母さまを……愛してる……!」
その瞬間。
ミリアの霊体が、大きく、大きく揺れた。
紅と蒼の瞳の奥に、
どんな色にも定義できなかった“透明な光”がふわりと灯る。
その光は、
“母として抱いてはならない”と自分で封じ込め続けた想いが、
ようやく息を吹き返した証のようだった。
ミリアはずっと、自分にはリーシアを愛する資格などないと思っていた。
愛せばまた縛ってしまう。
操らなければ守れない――そう信じてしまった日から、
胸の奥に芽生えた「母の気持ち」を、自分の手で押し殺してきた。
本当は、ただ一度でいい。
たった一言だけでいい。
リーシアに「愛してる」と伝えたかった。
それが、ずっと果たせなかった“未練の核”だった。
「……そんな……言葉……
私が……言ってはいけないと思っていた言葉を……
あなたの口から……聞けるなんて……」
ミリアの糸がほどける速度が急にゆるやかになった。
まるで、娘の言葉が痛みをそっと撫でているかのように。
崩壊の波が、一度だけ静まった。
ミリアは震える腕を、
糸ではなく、本当に“素手”のつもりで広げた。
触れられないと分かっているのに、
それでも娘を抱きしめようとして。
本当はずっと――この腕で抱きしめて、この言葉だけは伝えたかった。
「リーシア……
私も……愛してるわ……
ずっと……ずっと……
あなたを……愛してた……」
その言葉とともに、ミリアの霊体は光に満ちた。
母を縛っていた糸は、苦しみごとほどけていく。
紅い断片が金となり、涙のように舞い上がり、
やがて優しい光の輪を描きはじめる。
娘の告白が、
母の魂を“解放”していた。
「お母さま……行かないで……!」
「大丈夫……リーシア。
あなたはもう……誰の糸にも縛られない。
あなたの涙は……あなた自身のもの……」
ミリアの手はすり抜ける。
けれど、その仕草は確かに“抱きしめようとしている母の手”だった。
「……ありがとう……お母さま……
わたし……ちゃんと……生きていく……
お母さまの“娘”として……」
ミリアはふわりと微笑んだ。
「……誇りに思うわ、リーシア……
私の……愛しい娘……」
光が弾けた。
ミリアの魂が静かに霧散し、
ほどけた糸は金の粒となって天へ舞い上がり――
世界に、ひとつの“光だけ”が残った。
それは、
誰にも操られない心。
新しく生まれた、自由な魂の証。
リーシアは胸に手を当て、震える声で呟いた。
「……もう、誰の命令でもない……
この涙は……わたしの心で流したものだから……」
かつて操り人形のように揺れていた糸の先に残っていたのは、
誰かに操られるための輪ではなく、ひとりの少女が自分で選び取った“はじまり”だけだった。




