第二十八話「母胎領域、覚醒」
――光が、静かに消えていく。
リーシアの胸に宿った紅と金の残光は淡い霧となって溶け、
四層の寝室に“救いの余韻”と“終わらない痛み”だけを残した。
緋音が胸に手を当てて息を吐く。
瑞響の義眼が微細な霊波を追い、振動が収まっていくのを確認する。
十六夜は魂筆を握り直し、静かに言った。
「……ひとつ終わっただけだ。
本当の“核”は……もっと奥にある」
その言葉と同時に――床が、胎児の鼓動のように“こくん”と脈動した。
リーシアの肩が震える。
紅糸の残滓が、ひとりでに空中へと浮かび上がり、
まるで帰り道を知っているかのように屋敷の深部へ吸い込まれていく。
瑞響が低く呟く。
「……霊波の流れが逆転。屋敷の核が自律活動に入りました」
その瞬間――
ラディスだけが、誰よりも深い闇の奥を見ていた。
表情は笑っているのに、影の奥で“別の何か”が揺れる。
一歩踏み出した足取りが、わずかに震えていた。
「……やっと、だな」
十六夜が視線を向ける。
「ラディス?」
ラディスは天井――糸が消えていった方向を見上げ、
長く、押し殺したような息を吐いた。
「これで……やっと解放されるんだ。
俺も……あいつらも……」
その声には、十四年分の重さが沈殿していた。
聞き流せるはずの軽い口調なのに、耳に残る“深さ”だけが異様だった。
緋音が心配げに眉を寄せる。
「ラディスさん……?」
ラディスは笑って肩をすくめた。
「なんでもねぇよ。行こうぜ」
けれどその瞳の奥――金の虹彩の奥底で揺れた光は、
“仲間を全員、目の前で糸に奪われた男”の色だった。
その直後、床に走ったひびが“糸の形”を成し、
螺旋の階段のように下層へと開いていく。
十六夜がリーシアへ手を差し出す。
「行こう。――この人形劇に、終止符を打つんだ」
リーシアはその手を強く握り返し、深く頷く。
その背で、ラディスはひとつだけ、誰に聞かれるでもなく呟いた。
「……十四年も待ったんだ。
終わらせてやらなきゃな……みんなの糸も」
その言葉を封じるように、
階段の奥から胎動のような響きが伝わり――
“操糸核”の扉が、ひとりでに、静かに開いた。
階段を降りた瞬間、空気が変わった。
――丸い。
床も壁も天井も見分けがつかない、“繭”の内側のような空間。
淡い灰金色の壁がゆっくりと膨らみ、しぼむ。
まるで巨大な胎内そのものが呼吸しているようだった。
緋音が息を詰める。
「……ここ、あったかいのに……苦しい……」
瑞響が義眼を細めた。
「霊波密度が極端に高い……ここは空間じゃありません。
ミリアの魂の“内側”です」
足元には“糸の海”が広がっていた。
無数の細い紅糸が波のように交差し、踏むたびに沈む。
まとわりつき、絡みつき、離れない。
十六夜が前に出た瞬間――
空気がひとつ震えた。
声が降りてきたのは、そのときだった。
「……リーシア……来てくれたのね」
母の声。
あまりにも優しい。優しいのに、背筋が凍る。
緋音がかすかに震えた。
身体が勝手に前へ引かれ、腕が動いてしまう。
「な、なんで……身体が……!」
十六夜が即座に符を展開する。
「触れるな! これは“邪波による精神干渉”だ。
母胎領域の支配が強すぎる……!」
空間中央――“核座”に白い布の塊が浮かんでいた。
そこへ、天井から紅糸が一本ずつ降り注ぐ。
右脚、左腕、背中、髪、顔の半分、そして白磁の仮面。
“縫われて”いく。
ひとつひとつ、遅い。
遅いのに、目が離せない。
完成した瞬間、空気が震えた。
聖母のように優雅で、
人形のように歪んだ姿。
淡い灰金の髪が糸のように広がり、
背中の“紅糸の翼”がゆっくりと呼吸に合わせて開閉する。
顔の右半分は純白の仮面。微笑。
左半分は素顔で、焼きついた涙の跡が残る。
瞳は――紅と蒼のグラデーション。
娘を見つめた瞬間だけ、微かに黎明色を帯びた。
ミリアは静かに笑う。
「リーシア……おいで。
もう、痛くない世界にしてあげる。
何も感じなくていいのよ。……お母さんが全部動かしてあげる」
床の糸がざわりと逆立ち、影から針糸が突き上がる。
十六夜が叫ぶ。
「……構えろ! “母胎領域”が起動する!」
次の瞬間、床一面の“糸の海”が爆ぜるように盛り上がり、
影という影から、針のように細い糸が一斉に突き上がった。
「っ……くそ……!」
十六夜が即座に符を展開し、冥波の斬撃を叩きつける。
金紅の火花が弾け、突き上がった糸を切り払うが――
糸は切断の手応えすら残さず、瞬時に再生した。
緋音が胸を押さえてよろける。
「やだ……視界が……溶けて……」
糸が空気を震わせるたび、
幸福の残滓が〈匂い〉のように流れ込む。
――抱きしめられた温もり。
――家族の笑顔。
――自分の名前を呼ぶ優しい声。
その記憶は暖かいのに、胸の奥を締めつける。
十六夜が低く鋭い声で叫ぶ。
「深呼吸するな! 思い出に触れるたび心まで縫われる……!」
瑞響の義眼が赤い光を宿し、糸の動きを追う。
「……精神薄膜が破られています……!
糸そのものが“心の入口”……接触は危険です!」
そのとき――
紅糸の中心、“核座”がぐらりと揺れた。
ゆっくりと、ひとりの影が立ち上がる。
ミリアだった。
だが、記憶の中の母ではない。
髪がふわりと広がり、一本一本が光の糸へと変わる。
背中の紅糸の翼が呼吸のたびに揺れ、影を裂く。
仮面の白磁に微笑が刻まれ、
素顔側には焼きつくような涙の跡。
瞳は――紅と蒼の揺らぐ二色。
その視線がリーシアに触れた瞬間だけ、淡い黎明色が灯った。
「リーシア……」
ミリアの声は、胎内に響く子守唄のように柔らかい。
「おいで。
もう苦しまなくていいのよ。
何も感じなくていい……お母さんが代わりに動かしてあげる」
その声が空気の芯を震わせた。
リーシアの足が、勝手に一歩前へ出る。
「……お母……さま……?」
十六夜が肩を掴み、強引に引き戻した。
「ダメだ! 意識が引かれてる……!」
ミリアの指がふわりと持ち上がる。
――風もないのに、紅糸がしなる。
蛇のように、獲物へ一直線に。
緋音が叫ぶ。
「くるっ!!」
十六夜は一歩踏み込み、魂筆を振るう。
斬型の波が円状に広がり、糸の牙を弾く。
金属の弦を切り裂くような、甲高い音が響き渡る。
だが――切っても切っても、糸はすぐに“縫い戻される”。
母胎の鼓動と完璧に同期する、無限の再生。
「……攻撃の意図がありません……!
これは“愛情の反応”。
リーシアを守るための……排除です!」
瑞響の声が落ちた瞬間、
紅糸の海がぴたりと静止した。
ミリアの動きも一瞬だけ止まる。
仮面の下で、素顔の瞳がかすかに揺れた。
「……守る……?」
小さな呟き。
まるで“自分自身に問い返す”ような震えだった。
紅と蒼の色が、目の中で不安定に混じり合う。
「……守るのは……わたし、なのに……?」
空気がひりつく。
紅糸がざわりと逆立ち、次の瞬間、鎮まる。
ミリアの視線はリーシアへ向き──
そして、十六夜の手へ移った。
リーシアの手を、十六夜が確かに握っている。
その事実だけで、ミリアの胸奥に別の感情が落ちる。
紅と蒼がぶつかり、瞳が揺らぐ。
「どうして……?
どうしてあの子は……あなたたちに寄り添って……?」
声は優しいのに、
震えていた。
“母の愛”ではなく、“母の恐怖”の揺らぎ。
紅糸が再びざわつき、空間が軋む。
「……あなたたちは……
あの子を……どこへ連れていくつもりなの……?」
十六夜が息を呑む。
その問いは明らかに核心へ向かっていた。
次の瞬間、ミリアの瞳に強い紅が灯る。
「外の世界に……?
あの子が傷つく場所へ……?」
仮面の裏で、涙がひとすじ落ちた。
仮面の裏で涙が零れたその瞬間――
空間が、息を飲むように“止まった”。
紅糸も、鼓動も、光さえも。
すべてが一瞬だけ凍りつく。
次の瞬間。
“バキンッ”
胎内のような空間の壁に、
巨大な亀裂が走った。
紅糸が震え、逆巻き、空間全体が脈動を開始する。
まるで“母の心臓”が怒りで暴れ出したように。
ミリアの瞳が、紅に飲み込まれる。
声は囁きのように優しいのに――
その優しさごと世界を焼き尽くすほどの強さで震えていた。
「……許さない」
その瞬間、
空気の重さが倍になった。
肺が押しつぶされるような圧力が、全員の身体を沈める。
“怒り”ではない。
母が子を奪われたときの、底なしの絶望。
――轟音。
紅糸が爆発したように四方へ走り、
床を割り、壁を裂き、天井から滝のように降り注ぐ。
糸が触れた空気が赤黒く染まり、
視界の端がゆらゆらと揺らぐ。
十六夜が即座に構える。 「全員、防御――っ!!」
瑞響の義眼が悲鳴のように光を跳ね返す。
「反応値急上昇……! 母胎領域が完全暴走状態――!」
緋音の足元の影からも紅糸が噴き出し、
彼女は悲鳴と共に後退した。
リーシアの周囲にだけ、
紅糸が渦を巻くように集まり、守るように蠢いていた。
それは――“支配”ではなく“縛りつける愛”。




