第二十六話「壊れた愛の残響」
――“誕生日の翌晩”。
母と娘が、最後に過ごした夜。
ピアノの旋律が、淡く響いていた。
穏やかなはずの音色は、どこか冷たく、硬質に揺れている。
テーブルの向こう、黒のスーツを着た男が立っていた。
整った髪、感情のない瞳。
――ヴァルター・ミルヴァスト。
かつてこの屋敷の主であり、リーシアの父。
「……この子は、もう“壊れている”。」
その声は判決のように、静かに空気を断つ。
「感情がある限り、不完全だ。
壊れた箇所は、作り直すしかない。
――処分しろ、ミリア。完璧であれば、世界は赦す。」
空気が凍った。
ミリアは立ったまま動かない。
金髪が揺れ、唇が震える。
言葉が出ないのではない――出してはいけないのだ。
部屋の空気が、命令に従って形を変えていく。
声を出すことすら、罪に変わっていく。
「……あなた……何を言っているの?」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
ヴァルターの表情は微動だにしない。
「完璧な娘を造るためだ。
感情は欠陥だ。母の手で終わらせろ――それが愛だ。」
その言葉を、十六夜たちは黙って見つめていた。
光の中に浮かぶ幻影は、まるで本物のように息づいている。
瑞響が小さく呟く。
「……これは、“声の記録”ではありません。
魂の層に残った――命令の残響です。」
緋音が拳を握りしめた。
「そんなの、愛なんかじゃない……!」
十六夜の瞳がわずかに揺れる。
「けれど、あの人にとっては“正義”だったんだろう。
――感情を恐れた者の、末路だ。」
ミリアは椅子の背を掴み、かすかに震えていた。
その瞳の奥には、恐怖と絶望、そして微かな光。
「……あなた……この子は、ただ……」
命令の波に逆らおうとした瞬間、
喉の内側で見えない縫い目がきしみ、言葉がそこに縫い留められる。
声を出そうとするたび、痛みが走った。
瑞響が低く呟く。
「……これは実際の術ではありません。
“命令に縫い付けられた記憶”が霊障として再現されている……」
十六夜が目を細める。
「言葉の暴力が、魂に刻まれるとこうなる。
……声を封じられた母の記憶だ。」
緋音が唇を噛む。
「自分で……妻の“声”を封じたの……?」
ラディスが低く吐き捨てる。
「愛してるなら、壊すしかない――って理屈か。
最悪の結末を信仰してやがる。」
ミリアは喉を押さえながら、それでも娘を見た。
ベッドの上の幼いリーシア。
眠っているのか、泣き疲れたのか、静かに目を閉じている。
ミリアの手が震える。
血を滲ませながら、それでも髪を撫でた。
ピアノの音が、いつの間にか止まっていた。
ヴァルターの靴音だけが、規則正しく響く。
そのリズムは冷たく、まるで時間を刻む時計の音。
「……ミリア。情を交わせば、どちらかが壊れる。
あの子は“作品”だ。感情は、不要だ。」
彼は娘を見ることもなく、扉の方を向いていた。
「母としての役目を果たせ。
この家は完璧でなければならない。」
そう言い残し、踵を返す。
規則正しい靴音が三度、床を刻む。
ドアノブに手をかけたとき、夕焼けのような橙光が差した。
それはまるで――娘を覆い隠すための光。
扉が閉まる。
――“カチリ”。
鍵がかかる音だけが、やけに大きく響いた。
完全な沈黙が訪れる。
ミリアはその場に立ち尽くしたまま、
ゆっくりと振り返る。
ベッドの上、幼いリーシア。
無垢な寝息。小さな指が布を握っている。
ミリアの肩が、かすかに震えた。
唇が動くが、声にはならない。
――喉の奥に残る“縫い付けられた痛み”が、まだ消えていないのだ。
それでも、彼女は歩み寄る。
光のない部屋に、衣擦れの音だけが落ちていく。
「……リーシア……」
かすれた声が、ようやく漏れた。
それは十四年ぶりに取り戻した、“母の声”だった。
「……お母さまね、あなたに何もしてあげられなかったの。
守りたかったの。あなたを苦しみから。
でも……わたし、どうすればよかったのか分からなかったの」
細い指が、娘の頬をなぞる。
涙が落ちて、白い髪を濡らす。
「優しさって、間違えると人を壊すのね……
“笑って”“いい子ね”――
本当は、そんなふうに言いたくなかったのに……」
ピアノの鍵盤が、遠くで微かに鳴った気がした。
ミリアの声は、音に溶けるように細くなっていく。
「ごめんなさい、リーシア。
あの人の言葉に縛られて……
あなたを抱きしめることさえ、できなくなっていたの」
涙が髪に落ちる。
その瞬間、ミリアの表情が、微笑に変わる。
「だからね……今度こそ、あなたを“解放”するわ」
引き出しから取り出したのは、銀の小さな糸切り。
彼女にとって、それは“縛った糸を断つための祈り”だった。
「もう、笑わなくていい。命令なんて、もういらない。
あなたが自由に泣けるように――
命令じゃない、これは……私の願い。」
部屋の時計は止まったまま、外の光も届かない。
ミリアは銀の刃を見つめていた。
ランプの灯が細く反射し、逃げ道のように輝く。
ベッドの上のリーシアが、うっすらと目を開ける。
呼吸は浅く、唇がかすかに動く。
「……お母さま……?」
ミリアは息を呑む。
それでも、微笑んだ。痛みに歪んだ笑顔。
「……ごめんなさい、リーシア。
あなたを守るはずが、こんな形にしてしまった……」
ナイフを握る手が震える。
血管が浮かび、指先から冷たさが伝わっていく。
「もう……痛くないようにしてあげる。
これで、あなたは壊れない。
どんな命令も、もう届かないわ――」
リーシアの瞳が見開かれる。
刃が降りる。
布を裂き、皮膚を貫く。
音はないのに、確かに“血の音”が響いた。
ミリアの手の中で、娘の身体がゆっくりと力を失っていく。
赤い花が、シーツの上に咲いた。
「……お母さま……笑って……」
その言葉が、空気にひとつ微笑みの形を残す。
ミリアの瞳から、ひと筋の涙が落ちる。
その顔に浮かぶのは、十四年ぶりの“母の笑顔”だった。
「……リーシア――愛してるわ」
刃が再び持ち上がり、彼女は自らの喉へと突き立てた。
血が弧を描き、床に散る。
声にならない声が、静かに消えた。
――沈黙。
時が止まったままの寝室。
二人の亡骸は寄り添うように並んでいた。
母の腕の中で眠る娘の顔は、安らかだった。
足元には、赤いドレスのアンティーク人形。
金の巻き髪には血がひとすじ垂れ、
まるで泣いているように見えた。
――時間が止まっていた。
部屋の中は静かで、光さえ息を潜めている。
床に流れた血は冷え、紅の線を描いて二人を結んでいた。
ミリアの唇が微かに震えた。
もう息はないはずなのに、確かに言葉が零れる。
「……守れた、よね……リーシア……」
その声は空気にも届かない。
だが部屋の白い空間だけが、それを記録していた。
娘の頬に手を伸ばし、冷たい髪を撫でる。
「ごめんなさい……あなたを苦しめたのは、私なのに……
それでも、守りたかった……」
――背後で、扉が軋む。
ヴァルターが立っていた。
淡々とした表情で、ベッドの二人を見下ろす。
「……終わったか。」
その一言に、冷気が走る。
彼は娘の顔を一瞥し、吐き捨てた。
「欠陥品め。」
ミリアの目が、静かに彼を見上げる。
そこに怒りも憎しみもなかった。ただ、空っぽの哀しみ。
「あなたが言う“完璧”って……何?」
ヴァルターは答えなかった。
壊れた机に手を置いた瞬間、床に落ちていた紅の線が動く。
糸のような血脈が、彼の足元に絡みつく。
「くだらん幻覚だ」
だが、糸は確かに存在していた。
足首から腕へ、胸へ、首へ。
音もなく彼を縫い留めていく。
「……やめろ……誰の許可で――!」
叫びは途中で止まった。
糸が口を塞ぎ、声を喰った。
ヴァルターは家具と同じ素材に編み込まれていく。
ミリアは息を呑んだ。
「やめて……それは、違うの……」
誰も聞いていない。
紅の光が家の内側から滲み、壁を這って広がっていく。
――夫は、理念と共に屋敷に喰われた。
ミリアは娘を抱きしめ、微かに震える唇で呟いた。
「……ヴァルター。これでいいのでしょう?
あなたの“完璧”は、もうここにある。」
静かな笑み。けれど、その瞳には裂けるような痛み。
「でもね……本当は……
愛したかったの。
“愛してる”と、ただそれだけを……伝えたかった……」
その瞬間、光が脈打った。
床から紅い霧が立ち昇り、空間全体が震える。
壁が息をし、床が鼓動を打つ。
“愛してる”の言葉は光にならなかった。
――愛してはいけない。
――愛さなければ、守れない。
相反する祈りが、ひとつの悲鳴に変わる。
ミリアの身体から紅の糸が溢れ出す。
髪の金に赤が差し込み、瞳が紅と蒼の狭間で揺れる。
声にならない声が空気を裂き、壁の向こうへ広がっていく。
「……リーシア……」
微笑みは、そのまま凍って崩れた。
残ったのは“命令”だけ。
「愛してはいけない」という呪いが、彼女の魂に刻まれる。
紅の光が屋敷を飲み込み、廊下の先で壁紙が裂けた。
糸が柱を、家具を、床を縫い合わせる。
屋敷そのものが呼吸を始めた。
――母の未練が、胎動する。
外の風が止み、静寂が戻る。
紅の霧の中、彼女の亡骸がゆっくりと沈んでいく。
その指先がかすかに動いた。
最後の囁きは、もう言葉ではなかった。
“リーシアを、守る”
紅い糸が光となり、天井を這って広がる。
屋敷全体が、母の願いを呪いとして受け入れた。
十六夜たちはただ見つめることしかできなかった。
瑞響が静かに息を吐いた。
「……ここから、すべてが始まったんですね……」
十六夜が目を伏せる。
「“愛してる”が届かなかった夜だ。」
――こうしてミルヴァスト家は、
“壊れた愛”に縫い留められた屋敷となった。
――そして奥で、まだ縫い目は動いている。
まだ、誰かの息が聞こえる。
どうも、皆さんお久しぶりです。
兎月心幸でございます。
今回はミルヴァスト家の悲劇の全貌を書いた回です。
今まではめんどくさいという気持ちがあり、あとがきは滅多に書きませんでしたが……一言だけ言わせてください。
”ヴァルター許すまじ”
はい、これがわたしの今の心情でございます。
いつも読んでくださっている読者の皆様には頭が上がりません!
これからも死神相談所をよろしくお願いします!




