第二十五話「終わらない夜の糸」
――音が、消えた。
紅糸の世界が霧のように溶け、現れたのは白一色の空間。
壁も床も天井も、雪のように淡く光を帯びている。
呼吸しても空気の流れがない。
まるで、世界そのものが息を潜めていた。
緋音が一歩踏み出す。
だが、靴音はしなかった。
足元の感触だけがあるのに、音が存在しない。
「……っ」
声を出そうとしても、喉の震えが空気に届かない。
まるで“声”という概念が、ここから切り離されているようだった。
ラディスが何かを言おうと口を動かす。
瑞響も符を展開するが、光だけが走って音はない。
――沈黙。
ただ、彼らの仕草だけが世界に残されている。
十六夜が静かに手を上げる。
魂筆が金色の光を放ち、空気に波紋が走った。
『……聞こえるか? 声を出さないで。冥波で繋ぐ』
緋音がびくりと肩を揺らす。
――頭の奥で、十六夜くんの声が響いていた。
『……十六夜くん……今の、心の中で……?』
『冥波通信。死神同士が命核で思考を繋ぐ術だよ。
音の代わりに、想いそのものを届ける。』
『……すごい……けど、すごく近い感じがする……』
『感情も伝わるからね。深呼吸して。ノイズが出る』
瑞響が視線を上げる。
『霊波の位相、ほぼ無音域。……“声”そのものを封じた霊障空間です』
十六夜が頷き、前方を見た。
白の廊下の先に――赤いものがあった。
ひとつのアンティーク人形。
赤いドレスに、金の巻き髪ツインテール。
その姿を見た瞬間、リーシアが息を呑む。
『……あれ……私の……』
『知ってる人形?』
『うん……子どものころ、毎日いっしょに遊んでた。
お母さまが、誕生日にくれたの……』
人形は静かに立っていた。
誰も触れていないのに、ゆっくりと首を傾げ、
そのまま、廊下の奥へ向かって歩き出す。
“足音のない歩み”。
白い床に映る赤いドレスの影が、淡く揺れる。
まるで「ついてきて」とでも言うように、時おり振り返って。
十六夜が短く頷く。
『……導かれてる』
『……うん。あの子が、お母さまのところへ……』
リーシアの瞳に、懐かしさと恐れが入り混じる。
誰も音を立てないまま、一行はその人形のあとを追った。
――沈黙の中で、唯一動いているのは、その小さな“記憶”だけだった。
沈黙の廊下を進むたび、白い空気がゆらりと歪んでいく。
先を行く赤いドレスの人形は、迷うことなく真っすぐ進み続けた。
その後ろ姿を、リーシアは息を詰めて見つめていた。
それは、どこからどう見ても記憶の中と同じ姿で。
幼いころ、夜が怖くて眠れなかったあの日。
その人形を抱いて、母の寝室に駆け込んだ。
母は笑って、髪を撫でながら言った。
「この子がいれば、夜も泣かないわ」
けれど今、目の前の人形は無表情のまま。
声も出さず、ただ静かに前を向いている。
やがて、人形は足を止めた。
白い扉の前。
錆びた取っ手が、触れられもしないのに、音もなく開いた。
扉の向こう――
白の中に、ひとつだけ“色”があった。
そこだけ、時間が止まっている。
淡い光に包まれた空間の中心。
まるで“誰かの記憶”をそのまま切り取って縫い付けたように、
古いベッドと裁縫机が、不自然なほど鮮明に存在していた。
ベッドの傍には糸束と針。
床には淡く滲んだ紅――十四年前の血の色。
周囲は真っ白なのに、その部分だけ“現実”の質感を残している。
まるで、ここだけが時間の傷だった。
瑞響が低く思念を送る。
『……空間構造が歪んでる。
あそこだけ霊波が結晶化して、過去を留めてるようです……』
ラディスが眉をひそめる。
『十四年前の瞬間を、無理やり“縫い留めた”ってわけか。』
十六夜は黙ったまま、魂筆の先で空気をなぞる。
――白の中で、そこだけが“動かない”。
風も時間も触れられない。
リーシアが小さく息を呑む。
その中心――ベッドの上に、
金の髪をした影が、静かに横たわっていた。
「……お母さま……?」
リーシアが一歩、足を踏み出した瞬間――
紅のドレスの人形が足元に戻り、彼女の裾を引いた。
まるで、「行って」と言うように。
リーシアは震える指で、ベッドの影に触れた。
――静寂が波紋になる。
白い空間に、金色の光が広がった。
まるで水面に落ちた雫のように、
幾重もの輪が空気を震わせていく。
光は壁を、天井を、床を伝い、
白の世界全体を包み込んで――
そして、色が戻った。
壁には肖像画。
テーブルにはグラス。
どこからともなく流れ出すピアノの旋律。
白かった空気が淡い金と紅を帯び、
まるで“過去そのもの”が形を取り戻すようだった。
瑞響が息を呑む。
「……映像ではありません。霊波の層そのものが、記憶として空間に再現されている……!」
緋音が目を見開く。
「これ……感じる……! 音も、匂いも……生きてるみたい……!」
ラディスが低く唸る。
「つまり、あのベッドは“入口”ってわけか。記憶を実体化させる媒体……」
十六夜は無言で視線を巡らせる。
目の前に広がる光景――そこに立つ人影が、まるで本物のように動いていた。
ヴァルター。
そして、ミリア。
かつてのリーシアの両親。
その中心には、まだ幼いリーシアの姿。
「……これは……」
十六夜の声が、震えるほど低く響いた。
“過去”が始まった。
それは記録でも映像でもない。
魂が覚えている、最後の夜。
部屋全体が光を吸い込み、ゆっくりと沈み込んでいく。
ピアノの旋律が流れ、そして――声が聞こえた。
『……この子はもう“壊れている”。感情がある限り、不完全だ。――処分しろ、ミリア。』




