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死神相談所  作者: 兎月心幸
二章「操り人形の糸の先」
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第二十五話「終わらない夜の糸」



 ――音が、消えた。


 紅糸の世界が霧のように溶け、現れたのは白一色の空間。

 壁も床も天井も、雪のように淡く光を帯びている。

 呼吸しても空気の流れがない。

 まるで、世界そのものが息を潜めていた。


 緋音が一歩踏み出す。

 だが、靴音はしなかった。

 足元の感触だけがあるのに、音が存在しない。


「……っ」

 声を出そうとしても、喉の震えが空気に届かない。

 まるで“声”という概念が、ここから切り離されているようだった。


 ラディスが何かを言おうと口を動かす。

 瑞響も符を展開するが、光だけが走って音はない。

 ――沈黙。

 ただ、彼らの仕草だけが世界に残されている。


 十六夜が静かに手を上げる。

 魂筆が金色の光を放ち、空気に波紋が走った。


『……聞こえるか? 声を出さないで。冥波で繋ぐ』


 緋音がびくりと肩を揺らす。

 ――頭の奥で、十六夜くんの声が響いていた。


『……十六夜くん……今の、心の中で……?』

『冥波通信。死神同士が命核で思考を繋ぐ術だよ。

 音の代わりに、想いそのものを届ける。』


『……すごい……けど、すごく近い感じがする……』

『感情も伝わるからね。深呼吸して。ノイズが出る』


 瑞響が視線を上げる。

『霊波の位相、ほぼ無音域。……“声”そのものを封じた霊障空間です』


 十六夜が頷き、前方を見た。

 白の廊下の先に――赤いものがあった。


 ひとつのアンティーク人形。

 赤いドレスに、金の巻き髪ツインテール。

 その姿を見た瞬間、リーシアが息を呑む。


『……あれ……私の……』

『知ってる人形?』

『うん……子どものころ、毎日いっしょに遊んでた。

 お母さまが、誕生日にくれたの……』


 人形は静かに立っていた。

 誰も触れていないのに、ゆっくりと首を傾げ、

 そのまま、廊下の奥へ向かって歩き出す。


 “足音のない歩み”。


 白い床に映る赤いドレスの影が、淡く揺れる。

 まるで「ついてきて」とでも言うように、時おり振り返って。


 十六夜が短く頷く。

『……導かれてる』

『……うん。あの子が、お母さまのところへ……』


 リーシアの瞳に、懐かしさと恐れが入り混じる。

 誰も音を立てないまま、一行はその人形のあとを追った。


 ――沈黙の中で、唯一動いているのは、その小さな“記憶”だけだった。


 沈黙の廊下を進むたび、白い空気がゆらりと歪んでいく。

 先を行く赤いドレスの人形は、迷うことなく真っすぐ進み続けた。

 その後ろ姿を、リーシアは息を詰めて見つめていた。


 それは、どこからどう見ても記憶の中と同じ姿で。

 幼いころ、夜が怖くて眠れなかったあの日。

 その人形を抱いて、母の寝室に駆け込んだ。

 母は笑って、髪を撫でながら言った。

「この子がいれば、夜も泣かないわ」


 けれど今、目の前の人形は無表情のまま。

 声も出さず、ただ静かに前を向いている。


 やがて、人形は足を止めた。

 白い扉の前。

 錆びた取っ手が、触れられもしないのに、音もなく開いた。


 扉の向こう――

 白の中に、ひとつだけ“色”があった。


 そこだけ、時間が止まっている。


 淡い光に包まれた空間の中心。

 まるで“誰かの記憶”をそのまま切り取って縫い付けたように、

 古いベッドと裁縫机が、不自然なほど鮮明に存在していた。


 ベッドの傍には糸束と針。

 床には淡く滲んだ紅――十四年前の血の色。

 周囲は真っ白なのに、その部分だけ“現実”の質感を残している。


 まるで、ここだけが時間の傷だった。


 瑞響が低く思念を送る。

『……空間構造が歪んでる。

 あそこだけ霊波が結晶化して、過去を留めてるようです……』


 ラディスが眉をひそめる。

『十四年前の瞬間を、無理やり“縫い留めた”ってわけか。』


 十六夜は黙ったまま、魂筆の先で空気をなぞる。

 ――白の中で、そこだけが“動かない”。

 風も時間も触れられない。


 リーシアが小さく息を呑む。

 その中心――ベッドの上に、

 金の髪をした影が、静かに横たわっていた。


 「……お母さま……?」


 リーシアが一歩、足を踏み出した瞬間――

 紅のドレスの人形が足元に戻り、彼女の裾を引いた。

 まるで、「行って」と言うように。


 リーシアは震える指で、ベッドの影に触れた。


――静寂が波紋になる。


 白い空間に、金色の光が広がった。

 まるで水面に落ちた雫のように、

 幾重もの輪が空気を震わせていく。


 光は壁を、天井を、床を伝い、

 白の世界全体を包み込んで――


 そして、色が戻った。


 壁には肖像画。

 テーブルにはグラス。

 どこからともなく流れ出すピアノの旋律。


 白かった空気が淡い金と紅を帯び、

 まるで“過去そのもの”が形を取り戻すようだった。


 瑞響が息を呑む。

「……映像ではありません。霊波の層そのものが、記憶として空間に再現されている……!」


 緋音が目を見開く。

「これ……感じる……! 音も、匂いも……生きてるみたい……!」


 ラディスが低く唸る。

「つまり、あのベッドは“入口”ってわけか。記憶を実体化させる媒体……」


 十六夜は無言で視線を巡らせる。

 目の前に広がる光景――そこに立つ人影が、まるで本物のように動いていた。


 ヴァルター。

 そして、ミリア。

 かつてのリーシアの両親。


 その中心には、まだ幼いリーシアの姿。


「……これは……」

 十六夜の声が、震えるほど低く響いた。


 “過去”が始まった。

 それは記録でも映像でもない。

 魂が覚えている、最後の夜。


 部屋全体が光を吸い込み、ゆっくりと沈み込んでいく。

 ピアノの旋律が流れ、そして――声が聞こえた。


『……この子はもう“壊れている”。感情がある限り、不完全だ。――処分しろ、ミリア。』



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