第二十四話「祝福ノ終焉――赦シノ光」
紅糸の世界が、崩れ始めていた。
祝福の声はもう消え、音も光も色も、ただ淡く滲んでいく。
母の傀儡は、崩れかけた姿でまだ微笑んでいた。
糸に吊られたまま、揺らめく炎の中で――
『……ねぇ、リーシア。わたし、間違っていたのかしら……?』
その声は、かつての優しい母の声だった。
それでも、痛みがあった。
壊れた旋律のように、音の隙間に後悔が滲んでいた。
リーシアは答えを探すように目を閉じ、涙が頬を伝う。
そして――ゆっくりと、微笑んだ。
「……違うよ。お母さまは、間違ってなんかいなかった。」
母の目が揺れた。
「ただ……壊れてしまっただけ。
誰かを守ろうとして、優しさの中で、きっと自分を見失ったの。」
紅糸が風にほどけるように揺れる。
母の身体を縛っていた糸が一本、また一本と切れていく。
「……でも、それでも、あの人は“愛してた”んだ。
壊れるほどに、愛してた。」
その言葉に呼応するように、崩れかけた空間の時間が止まった。
炎が凍りついたように静止し――次の瞬間、白い光が一斉に立ち昇る。
紅だった炎が、黎明の色に変わっていく。
淡紅から金、そして白。
それは罪を焼く光ではなく、“赦し”の光だった。
母の傀儡がゆっくりと手を伸ばした。
その表情は穏やかで、かすかに涙を滲ませていた。
『……ありがとう。あなたが笑ってくれるなら、もう……怖くない。』
リーシアはその手を取る。
だが、触れた瞬間、母の手は光に溶けた。
悲しみではなく、安らぎの中で。
「お母さま……行っていいよ。
今度こそ、自由に。」
光が強くなり、糸が空中でほどけて舞った。
白い羽のように散った光が天井へ昇り、屋敷全体の“時間”が動き出す。
止まっていた時計の針が、ひとつ音を鳴らした。
――カチリ。
瑞響が義眼を押さえ、微かに息をついた。
「時間の固定……解除。層、解放完了。」
ラディスが肩を落とし、安堵の笑みを浮かべる。
「やっと……止まってた誕生日が、終わったな。」
十六夜が光を見上げながら呟いた。
「赦しは、罪を消すんじゃない。
ただ、“その痛みを生きていく”ってことだ。」
リーシアは涙を拭い、光の中に消えていく母を見送った。
「うん……お母さまは、もう壊れない。
あの人の“愛”は、ここで――ちゃんと、生きたから。」
残された蝋燭の炎がひとつ、金に染まり、
食堂の空気が穏やかに揺れる。
そして、静寂の中――
リーシアの胸から、淡い光が再び灯る。
黎明の色が、ゆっくりと天井へ昇った。
その光が扉を照らす。
白く滲んだ光の向こうに、新たな道が見えた。
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――白光。
世界が反転する。
音も色もなくなり、まるで舞台の幕がゆっくりと開くようだった。
――時間が止まった。
十四本の蝋燭だけが燃え続けていた。
白いケーキの表面は乾き、飾られた花束は色を失っている。
壁の時計は午後八時を指したまま、針が微動だにしなかった。
それでも、笑い声が響いていた。
どこか遠くから、薄い膜を隔てたような声。
「おめでとう、リーシア」
「おめでとう……」
――“声だけ”が生きていた。
父ヴァルターは、無表情の笑みを浮かべていた。
整えられた姿勢、歪みのない微笑。
その唇が静かに動く。
「おめでとう、リーシア。お前は完璧だ」
母ミリアも、同じ笑みを浮かべた。
けれど、その指先が震えている。
娘の肩に置いた手が、ほんの少しだけ冷たかった。
「ありがとう……お父さま、お母さま」
幼いリーシアが微笑む。
けれど、その頬の筋肉は不自然に引き攣っていた。
――幸福の食卓。
だが、愛ではなく“演技”がそこにあった。
ピアノの音が静かに流れ始める。
ミリアが鍵盤に指を置き、微笑む。
「ほら、リーシア。みんなの前で弾きましょう」
小さな手が、母の指に重なる。
白鍵を押すたびに、空気が震える。
しかし――旋律が、濁った。
ヴァルターの眉が動く。
「音が汚れている」
その言葉が、刃のように室内を裂いた。
ミリアの微笑が、一瞬だけ崩れかける。
けれどすぐに、完璧な仮面を貼り直す。
「笑って、リーシア。お父さまが見ているわ」
その声は優しいのに、凍えるように冷たかった。
かつて抵抗していた母が、いまは“命令者”として娘を導く。
守りたい一心で、命令しか知らなくなっていた。
頬を撫でる手は、温かいのに冷たい。
母の瞳の奥には、微かな光が残っていた。
だが、その光は、ひび割れている。
「……お母さまの笑顔が、痛いよ……」
リーシアの声は、音にならずに震えた。
ピアノの旋律が再び流れる。
――“ハッピーバースデー”のはずだった。
けれど、一音ごとに調律が狂い、音が歪んでいく。
「おめでとう」「おめでとう」
「愛してる」「笑って」「いい子ね」
同じ言葉が何度も反響し、重なり、
祝福が呪いに変わる。
蝋燭の炎が赤く滲み、ケーキの上の花が黒く溶ける。
リーシアの笑顔が引き攣り、頬が硬直していく。
空間全体がループを始め、
笑顔が止まり、拍手だけが響いた。
そのとき、ヴァルターの声が響く。
「もう充分だ。この子は学院に送る。
“感情”はここまでだ。――次は、機能を学ばせろ。」
ミリアの顔から血の気が引いた。
「……あなた、それは……」
ヴァルターは答えない。
「完璧であればいい。それが“幸福”だ。」
その言葉が、世界を凍らせた。
ミリアの中で、何かが音を立てて砕けた。
ピアノの旋律が途切れ、ミリアは無表情のまま娘を抱きしめる。
「……笑って、リーシア。お母さまが見ているわ」
声はもう、優しさではなく命令だった。
けれどその瞳には――涙が浮かんでいた。
「おめでとう」「おめでとう」
声が重なり、時間が崩壊する。
ケーキが腐り、花束が枯れ、肖像画がひとりでに剥がれ落ちる。
リーシアの笑顔がゆっくりと溶け、母の瞳がこちらを見た。
口だけが、動く。
――“赦して”。
その言葉を最後に、映像は砕け散った。
音も光も霧散し、残ったのは“止まった祝福”の残響だけだった。
白炎が消えたあと、食堂には微かな焦げ香だけが残っていた。
十四本の蝋燭のうち、最後の一本だけが、まだ燃えている。
その炎はもう赤くはなく、淡い金色に揺れていた。
リーシアはケーキの前に立ち、しばらく動けなかった。
手を伸ばせば届くほど近いのに――
その小さな光が、まるで遠い記憶のように儚かった。
「……お母さまは、きっともう、泣いてないよね」
その言葉に、十六夜がゆっくりと頷いた。
「泣いてない。けど……まだ“声”が残ってる。」
瑞響が義眼を光らせる。
「霊波残留反応、微弱ですが確認。……方向は、屋敷の最奥部です。」
「最奥……?」
リーシアが顔を上げた。
天井の裂け目から、光の糸が一筋、床へ降りていた。
その先――壁がひとりでに崩れ、細い廊下が姿を現す。
廊下の奥には、半開きの扉。
白いカーテンが風もないのに揺れている。
ラディスが低く口笛を吹いた。
「……こりゃ、誕生日の後片付けどころじゃねぇな。」
緋音が息を呑み、胸を押さえる。
「この感じ……“声”が、消えてない。――呼んでる、ね。」
十六夜が歩き出す。
「ここから先は、静かに行こう。」
リーシアは蝋燭の炎を見つめ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
金色の火がふっと消え、空気が揺れる。
その瞬間、床の模様が光に染まり、
紅から白へ、白から蒼へと変化していく。
沈黙の廊下が、彼らを待っていた。




