第二十一話「優しさの残響」
――静寂。
ピアノの鍵盤がひとりでに鳴り、最後の一音を響かせる。
リーシアの胸から、紅と金の光がふたたび浮かび上がった。
瑞響が義眼で測定する。
「霊障反応、消滅。命核安定。……第二層、鎮静完了です。」
ラディスが深く息を吐き、鋏を下ろす。
「……やれやれ。やっと一曲、終わったか。」
十六夜が壁を見上げる。
音の残響が完全に消え、淡紅の光だけが漂っていた。
「“優しさを拒まない”――それが、この層の解放条件だったんだね。」
リーシアは静かに頷く。
「うん……お母さん、今なら笑えるよ。」
緋音がその肩に手を置き、柔らかく微笑んだ。
「きっと、見てるよ。――優しさが“自由”になった世界を。」
ラディスが扉の方へ視線を向ける。
「……次の部屋が開く音がしたな。」
実際、ホールの奥では新たな扉が光を帯び、ゆっくりと開き始めていた。
淡紅から蒼白へ――色が変わる。
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――戦いが終わり、音が消えた。
霊子の霧が薄れていく中、緋音は胸の前で手を重ねた。
黎明の光がかすかに脈動している。
以前なら、深く共鳴した後は魂が削られるような痛みが残った。
けれど今は――不思議と静かだった。
身体の奥から、淡い温もりだけがゆっくりと広がっていく。
「……ねぇ、十六夜くん。」
「ん?」
「最近ね、どんなに深く共鳴しても……あまり“削られる”感じがしないの。
前は胸の奥が痛くて、立ってるのもやっとだったのに……今は、ちゃんと息ができる。」
十六夜は少し驚いたように目を細め、微笑んだ。
「……それはきっと、“魂縁の契り”の影響だよ。
キミの霊核と僕の命核は繋がっている。
共鳴時の負荷が分散されて、命核への負担が軽減されるようになってるんだ。」
緋音はうなずく。
「……やっぱり、そうなんだね。
あの契りの時、あたたかい光が流れ込んでくるのを感じたの。
“もう一人じゃない”って思えて――怖くなかった。」
十六夜は穏やかに微笑む。
「黎明の力も少しずつ安定してきたんだと思う。」
「……そっか。」
緋音は胸に手を当て、微笑む。
その光は穏やかで、どこか懐かしい朝の気配を含んでいた。
「じゃあ……これが、私たちの“繋がり”なんだね。」
「そう。――魂が削れる代わりに、少しずつ“重なって”いくんだよ。」
十六夜の声は静かで、夜明け前の灯みたいにあたたかかった。
けれど、その瞳の奥には、かすかな影が揺れている。
「……でも――それが“大きな代償を伴う力”だということには変わりない。
使いすぎには気をつけて。霊核は、簡単に癒えるものじゃないから。」
緋音は少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに笑みを浮かべた。
「ちゃんとわかってる。……でも、ありがとう。」
「うん。」
十六夜は小さく頷き、天井から差し込む光を見上げた。
その光は霧のように淡く、瞳の中でゆらめいている。
――まるで、**夜と朝の境に浮かぶ“約束の光”**のようだった。
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緋音の言葉が静かに空間へ溶けていく。
残響の粒子がゆるやかに舞い、淡紅の光が静かに揺れる。
その中心で、リーシアの胸の灯がかすかに明滅した。
「……あれ……?」
彼女の瞳の奥に、一瞬だけ“別の光景”が映る。
焦げた床、割れた鍵盤――そのはずの音楽室が、少しずつ修復されていく。
霊波が逆流し、音がひとつ、またひとつ蘇っていく。
瑞響が義眼を光らせた。
「反応あり。……命核の深層で記憶が展開しています。これは……」
十六夜が短く息を呑む。
「――“記憶再生”か。ミリアさんの魂が、最後に見せた想い……」
空間がゆっくりと反転する。
光が淡紅から乳白へ。
空気にやわらかな音が混じりはじめた――ピアノの旋律。
それは“今”の音ではなく、“昔”の記憶。
――やわらかな夕光が、窓越しに差していた。
白いカーテンが風に揺れ、ピアノの蓋が開かれている。
部屋の空気には、香油の甘い匂いと、微かに鉄の匂いが混じっていた。
幼いリーシアの指が、黒鍵の上で震えている。
「……お母さま……もう、弾けないよ……」
掠れた声が、弱い風のように消えた。
隣でミリアが微笑む。
穏やかで、まるで祈るような笑顔。
けれどその瞳の奥は――沈んだ湖のように、何も映していなかった。
「リーシア。……指をこの位置に。ずれてしまうと、音が濁るわ。」
母の声は柔らかい。けれど、それは“命令”の響きだった。
細い手が娘の手を包み、ゆっくりと押しつける。
――パリン……。
爪が鍵盤に触れるたび、透明な何かが割れるような音がした。
その音が、部屋の静けさを痛々しく切り裂く。
部屋の奥で、低い声が響いた。
「……音が濁っている。」
ヴァルター・ミルヴァルト。
この屋敷の主であり、完璧を何よりも愛する男。
声は冷たく、まるで空気そのものに秩序を押し付けるようだった。
「この子を“飾れ”。お前の手で、完璧に。」
その言葉に、ミリアの肩が微かに揺れた。
視線を落とし、鍵盤を見つめたまま――ゆっくりと息を吐く。
「……この子は、まだ七歳です。
間違えることだって……」
「ならば、間違いごと削ぎ落とせ。」
男の声が重なる。
“躊躇”という名の感情を許さない音。
ミリアの唇が、ほんの一瞬だけ震えた。
けれど次の瞬間、彼女は――笑った。
その笑みはあまりにも整いすぎていて、まるで作られた仮面だった。
「……わかりました。あなたの望む“愛”を、形にしましょう。」
リーシアの瞳が怯える。
「お母さま……?」
返ってきたのは、微笑みだけ。
言葉はなく、音だけが流れた。
鍵盤の上で、母の手がゆっくりと娘の指を導く。
「弾きなさい。笑って。……それが、私たちの“正しい形”よ。」
指が動く。音が重なる。
だが、響くのは“旋律”ではなく“命令”。
ヴァルターが満足げに頷く。
「それでいい。愛を教えるな。形を教えろ。」
――パリン。
その音は、ミリアの心のどこかが砕ける音だった。
静かな微笑みの裏で、胸の奥に細いひびが走る。
彼女はそれでも弾き続けた。
――娘のためではなく、“命令を果たすため”に。
「……あなたの言う“愛”で、私は娘を壊している。」
その小さな呟きは、誰にも届かない。
ピアノの音だけが、すべてを塗り潰していく。
その旋律は優しく、美しく、そして残酷だった。
リーシアの頬を、一筋の涙が伝う。
「お母さまの笑顔が、痛いよ……」
ミリアの手が一瞬だけ止まり――また、鍵盤を押した。
笑顔は崩れない。
けれど、押された一音が、わずかに濁った。
――パリン。
割れたガラスのようなその音が、二人の間に落ちて、静かに消えた。
夕陽が沈む。
ピアノの蓋がゆっくりと閉じる。
母の手は冷たく、娘の手は涙で濡れていた。
その日、音楽室には“優しさの音”ではなく――
“命令の残響”だけが残った。
---
――静寂。
戦いの余韻が消えていく。
霊子の霧がゆっくりと散り、空気の温度が戻っていく。
リーシアは震える指先を胸に当てた。
その奥で、まだ微かに母の声が響いている気がした。
緋音が静かに微笑んだ。
「……優しさって、痛いね。」
十六夜は短く頷く。
「でも、痛みのある優しさこそ――本物だよ。」
瑞響が符盤を閉じながら報告する。
「第二層、鎮静完了。霊波構造、安定。」
ラディスが息を吐く。
「やれやれ……次の層はもう少し静かだといいんだがな。」
その言葉に、十六夜はふと天井を見上げた。
空間の高みに漂っていた淡紅の光が、ひとつ、またひとつ消えていく。
代わりに――温かな橙色の灯がゆっくりと差し込んだ。
「……光が変わった?」
緋音が囁く。
瑞響の義眼が反応し、薄くノイズを走らせる。
「霊波の流れが中央に収束しています。……屋敷の“心臓部”へ。」
リーシアが顔を上げる。
胸の奥で、何かが呼んでいた。
懐かしいようで、怖いようで、それでも――確かに“あたたかい”。
「……行かなきゃ。あの人が、まだ……止まってる。」
その声に十六夜がうなずく。
「うん。行こう。今度こそ、“本当の想い”を取り戻そう。」
足元の床が、ふっと鳴った。
波紋のような光が広がり、世界がゆっくりと溶け始める。
淡紅は橙に、橙は金へ――
そして、静止した空間の中央に白いテーブルが浮かび上がった。
空気が変わる。香ばしい甘い匂い、磨かれた銀食器の反射。
――そして、ピアノの代わりに響く“祝福の鐘”。
リーシアの瞳がかすかに揺れた。
「……これ、誕生日の匂い……」
その瞬間、世界が裏返った。
淡い橙の光が一気に広がり、
十四本の蝋燭が灯る大きなケーキが、静止した空間の中央に姿を現した。
誰も息をしなかった。
ただ、“止まった笑顔”たちがテーブルに並んでいた。
連続投稿3日目です!
ここまで付き合ってくれている読者の皆様。
本当にありがとうございます!
まだまだ投稿は続きますので明日の22時もお付き合いくだされば幸いです。




