第十九話「母の旋律」
どうも、兎月心幸です。
さて、今夜から2週間連続投稿の一日目でございます。
毎日22時お付き合いいただければ幸いです。
オルゴールの旋律が、途切れもせず続いていた。
壊れたはずの箱から零れる音は、どこか懐かしく、そして哀しかった。
その旋律に導かれるように、扉の向こうへと足を踏み入れる。
――淡紅色の光。
空気の質が変わった。
冷たくもなく、温かくもない。
けれど確かに“音”が混じっている。
誰かの吐息、遠い囁き、ピアノの鍵を撫でる音。
それらが静寂と溶け合い、まるで世界そのものが呼吸しているかのようだった。
「……ここが、第二層か」
十六夜の声がわずかに響く。
その音さえ、空気の膜に吸い込まれていった。
足元の絨毯は、血のように深い紅。
両脇の壁には古びた肖像画が並んでいたが、第一層のような“歪み”はない。
代わりに、どの絵も――幸福そうに音楽を奏でている家族が描かれていた。
部屋の中央には、漆黒のグランドピアノ。
その横の棚には、ひび割れたオルゴールが静かに置かれている。
鍵盤には埃一つなく、まるで誰かが今も弾き続けているかのようだった。
緋音が小さく囁く。
「……なんか、優しい空間……のはずなのに、落ち着かない……」
瑞響の義眼が淡く光る。
「霊波の位相、安定。……ですが、この安定は“固定化”に近い。
――まるで感情を一つの音に閉じ込めたようです。」
十六夜は静かに頷き、壁に指を滑らせた。
「笑うことも泣くことも、最初から“旋律”として定められている――そんな感じだ。」
ラディスが低く息を吐いた。
「優しさの音で縫われた牢獄、ってわけか。
……あの人のやり方らしい。」
オルゴールの旋律がふと止み、代わりにピアノの前奏が流れ始めた。
柔らかく、澄んだ音。
だが――その“綺麗すぎる”響きが、何よりも不気味だった。
緋音が胸に手を当て、かすかに震える。
「……ねぇ、十六夜くん。この音、どうしてだろ……優しいのに、心がざわつく」
十六夜は答えず、ただ前を見据えた。
その瞳の奥に、淡い金の光が揺れている。
「――進もう。
この旋律の中に、“誰かの想い”が隠されているはずだ。」
四人の影が、淡紅色の光の中に溶けていった。
扉の向こうで、ピアノの音がひときわ強く鳴った。
まるで、彼らの到来を歓迎するように。
あるいは、逃れられない“演奏”の幕を開けるように。
ピアノの旋律が、ゆるやかに空間を満たしていく。
音は壁を伝い、床を這い、まるで生き物のように彼らの足元を撫でた。
柔らかく、穏やかで――そして、どこか懐かしい。
その響きは“母に抱かれていた記憶”を呼び起こすようだった。
緋音は思わず胸に手を当てる。
「……この音、なんだろ……あったかいのに、涙が出てくる……」
リーシアもまた、小さく息を吐いた。
「これは……お母さまの、弾いていた曲……」
彼女の指先がわずかに震える。
目の奥に、記憶の残光が灯る。
――指を絡めて弾いた幼い日の旋律。
――笑って、と優しく言われた声。
それらが、音に乗って再生される。
十六夜はその様子を見つめながら、静かに息を吐いた。
「懐かしさを媒介にして、感情層へ干渉している……」
瑞響の義眼が淡く光り、分析の符が展開される。
「霊波構造、異常。……音波に“感情同調”の層が含まれています。
聞く者の記憶に反応し、感情を縫い合わせている。」
ラディスが低く唸る。
「優しい音で、心を縛る……皮肉な方法だ。」
そのとき、旋律の奥から声が重なった。
『――泣かないで。笑っていれば、痛みは消えるわ。』
女の声はあくまで柔らかく、囁くように響く。
けれど、その言葉に合わせて彼らの胸が妙に締め付けられた。
瑞響の符盤が一瞬、ノイズを走らせる。
「感情反応、異常上昇。……これは――」
十六夜が目を細める。
「“優しさの霊障”……か。
癒しを装いながら、心を支配する。」
ラディスが口を歪める。
「……なるほど。“母の声”の次は、“愛の鎖”ってわけか。」
リーシアの目が揺れる。
「……やめて……その声、やめて……!」
ピアノの音がわずかに強くなった。
まるで彼女の拒絶を掻き消すように。
『いい子ね、リーシア。
泣かないで。お母さまが見ているわ――ずっと。』
音が空気を縫い、彼女の髪がふわりと揺れる。
旋律が優しさから、わずかに命令の響きを帯び始めた。
瑞響が低く呟く。
「……これは“優しさによる侵蝕”。
感情の奥に、“従順”を植え付ける構文です。」
十六夜が一歩前に出た。
「優しさが支配に変わる瞬間――それが、この層の罠か。」
ラディスが苦く笑う。
「笑えって言葉ほど、怖いもんはねぇよな。」
そのとき、ピアノの音が一瞬だけ途切れ、
――代わりに“誰かの息”が、空間を震わせた。
次の瞬間、旋律が急転する。
優しい声が、もう一つの声と重なった。
『笑って』『笑って』『笑って』
その合間に、低い呟きが混じる。
『――従え。息をすることも、わたしの許しで。』
空気が凍り、彼らの背筋に寒気が走った。




