第一話「応接室でのひととき」
緋音は、十六夜に案内されながら静かに応接室へと足を踏み入れた。
壁には和紙に描かれた紋様と、古びた洋風の燭台が並び、和と洋が不思議に混ざり合った空間が広がっている。
天井からは銀色の鈴が吊るされており、わずかな空気の揺らぎで、チリンと透明な音を響かせた。
部屋の中央には、深い瑠璃色を帯びた木製のテーブルが静かに据えられ、手触りの良さそうな磨き込まれた天板には、わずかに星屑のような光の粒が反射している。
その周囲には、背もたれの高い三脚の椅子が等間隔に並ぶ。
椅子の背には、夜空を思わせる星の紋様が彫られ、まるで、過去に交わされた無数の“対話”が、木の中に染み込んでいるかのような重厚感。
空気には墨と香のほのかな残り香が漂い
床板からは年月を刻んだ古木の匂いが立ち上っている。
足を置くたび、深い瑠璃色の床が低くきしみ、その音すら静寂に溶けていく。
ここは、ただの“部屋”ではない。
魂の声を受け止め、言葉が未来へ記されていく――対話と記録のために整えられた、神聖な場だ。
「こちらが、応接室です」
瑞響の声は、鈴の音が空気を撫でるように静かだった。
白を基調とした文官装束は、一切の乱れもなく整えられ、その身のこなしはまるで風のない水面に浮かぶ月のように揺らぎがない。
「こちらにおかけください」
「あ、ありがとうございます……」
緋音が瑞響に促され、緊張した様子で椅子に腰を下ろすと、それに合わせて十六夜も、彼女の正面へと静かに座った。
視線が合う。金の瞳が、まっすぐに彼女の内側を覗き込むようだった。
瑞響は、十六夜の隣に席を取り、記録紙を広げる。
その動きすら淀みなく、まるで最初から決められていた儀式のように静かだった。
こうして、三人が静かに席に着いたことで、部屋には改めて“対話のための空気”が満ちる。
まるで、ここから始まる言葉のすべてが、丁寧に紡がれていくことを予感させるように――
「改めて、僕は十六夜。この相談所の所長で……死神だよ」
どこか距離を保つような、けれど優しさを含んだ声。
「私は瑞響。死神相談所の記録係です。霊波の解析や魂の分類、資料管理を担当します」
「……わ、私、暁星緋音です……」
緋音の声は小さく震えていたが、その名乗りには確かな意志が込められていた。
「緋音さんだね。ようこそ、死神相談所へ」
十六夜の微笑みが、緋音の胸に静かに灯をともした。
「……その、死神って、人の魂を刈り取る存在なんじゃ……」
おそるおそる投げかけた言葉に、十六夜は柔らかく首を振る。
「そう思われがちだけど、僕たちは魂を“導く”者なんだ。この《霊境》は、成仏も転生もできずに彷徨う魂たちの狭間。《死神相談所》は、そんな魂の声に耳を傾け、終わりを見届ける場所――魂が、自分の物語に“意味”を見出せるように。僕たちはその手助けをしてるんだ」
「ですが……“邪魂”と呼ばれる魂も存在します」
瑞響が静かに補足を挟む。
「端的に言えば、強い負の感情に染まり、他者の魂を傷つける存在です。私たちはそれらの討伐や封印も担当しています。また、“霊波”と呼ばれる魂の波長を解析することで、その魂の状態や記憶を読み取ることが可能になります」
「霊波って……魂の声、みたいなものですか……?」
問いかける緋音の声は、かすかに震えていた。
「そう。霊波は魂の“響き”。想いや記憶、信念すら宿す波長なんだ」
「……死神って、もっと怖い存在だと思ってたのに……なんだか、少し違うんですね」
その言葉に、十六夜は一瞬きょとんとした後、照れくさそうに微笑んだ。
「……怖いと思われても仕方ないけど、少なくとも“救いたい”って想いだけは、ちゃんと持ってるつもりだよ」
その言葉に、緋音の表情がふっと緩む。
胸の奥に、ささやかな温かさが灯った気がした。
……この人の言葉なら、信じてもいいかもしれない。
「では、相談者の導きのため、霊波の解析を行います」
瑞響の言葉に、緋音は小さく肩を跳ねさせた。
「……え? 解析って、何されるの……?」
背筋を正す暇もなく、椅子の背にぴたりと身体が張りつく。
こめかみを汗が伝い、視線が落ち着かない。
そんな彼女を見て、十六夜が優しく声をかけた。
「大丈夫。怖がらなくていい。霊波を読み取るだけで、痛みはないし、嫌な思いをさせたりもしない。緋音さんがどんな想いでここに来たのか――それを、ちゃんと受け取らせてほしいんだ」
その声は、とても静かで、とても真っ直ぐで。
まるで、心に直接語りかけてくるようだった。
緋音は、彼の言葉に小さく頷いてから精神を落ち着かせるために深呼吸。
そして静かに目を瞑った。
(……あれ? これって……)
空間にふと漂った違和感と共に、視界が揺らぎ始めた。
——空間に、波紋が走る。
瑞響の霊波解析が一瞬だけズレたその時、映し出されたのは、月灯りだけが頼りの薄暗い部屋。
書棚に並ぶ古書、香炉から立ち昇る線香の煙、机に開かれた一冊のノート。
その表紙には、金色の文字でこう書かれていた。
《冥詩ノート:第二稿/夜想詩篇》
……既に、地雷の気配がすごい。
ペンを走らせているのは、十六夜だった。髪はほどけ気味、頬杖をつきながら、陶酔気味に詩を口ずさむ。
「――深き冥の調べよ、我が魂を響かせよ……」
「闇に咲いた一輪の月華、刃に宿して貴き者を救わん……」
「嗚呼……我は月夜に舞う、孤独なる冥者……」
一行ごとに目を細めては、「……うん、完璧」と満足げに頷いている。
――尚、机の上には既に【月をテーマにした語彙集】【孤独系語録】【死神らしい表現リスト】の紙束が大量に並んでいる。
ペン先を止めると、彼はふと立ち上がり、部屋の中央でポーズを取りながらこう呟いた。
「夜風に問う……冥よ、我を呼ぶのか……?」
そして――
「これは“後の僕”が読むための、詩的資料……つまり未来の自分用メモ……」
小声で恥ずかしそうに自己弁護する姿が一番恥ずかしい。
その瞬間、瑞響の声が無慈悲に割り込む。
「……あ、間違えました。解析対象、十六夜様ではなく緋音さんでした」
「失敬」
ドッ……。
空気が崩壊する音が、聞こえた気がした。
「えっ……死神さん……? すごい汗……大丈夫……?」
緋音が心配そうに問いかける。だが十六夜は何も答えなかった。
彼の目は虚空を見つめ、口はうっすらと開かれたまま――完全に思考がフリーズしている。
その姿は、まるで時間ごと置き去りにされたかのようで。
(……放心って、こういう状態を言うんだ……)
緋音は息を呑みながら、そっと彼の顔を覗き込んだ。
「……ッ、なんで……なんでだ……ッ!」
十六夜が小声で呟く。
震える指先で、己の額を押さえる。
「解析って……僕だったのか……ちが、違うよね? 幻覚……? 夢……?」
ぶつぶつと現実逃避の独り言をこぼす彼の肩を、瑞響が淡々と追撃する。
「追記:詩のタイトルが“月涙の刃”であることを確認しました」
「ッあああああああああ!!!!!」
その瞬間、魂が一度抜けた。
本気で叫び、椅子から転がり落ち、床をバンバン叩く十六夜。
「ダメ!! 今のナシ!! 消してぇ!! リセットしてぇぇええ!!」
顔を真っ赤にしながら、床を転げ回り、魂が物理的に抜けそうになっている。
緋音は思わず口元を押さえている。
笑ってはいけない、でも笑いがこみ上げてくる。耐えきれない。
十六夜はやがて、這うように椅子に戻り、顔を手で覆いながら震えた。
「……僕の尊厳……粉々だよ……」
その呟きは、床に落ちた書類のように、感情の底からふわっと零れた。
その後、しばらくの沈黙。
ようやく彼は咳払い一つ。
震える声で、体裁を立て直そうとする。
「こ、コホン……さ、さきほどは……し、失礼した。さて、キミは……ど、どんな……」
語尾が情けなく揺れている。
必死に取り繕うとしていることが完全にバレバレだ。
その様を、何も言わずに見守る瑞響と緋音。
……だが、沈黙は訪れなかった。
「ところで十六夜様。開始数ページで死神としての威厳をノックアウトさせられたご心境はいかがですか?」
瑞響の無慈悲な一言が、爆弾のように落とされた。
「ぐうぅうぅぅぅぅぅ……っっ!!!」
十六夜は叫ぶこともできず、背中を丸め、ぺたんと座り込んだ。
もはや言葉にならない。
魂の震えが、背中に滲み出ていた。
「もうやめてぇぇえええっ!!!!!」
緋音は両手で顔を覆いながら叫んでいた。
「もう……死神さんのライフ、ゼロどころかマイナスだよ……っ!」
「了解しました。記録は“永続保存”に設定します」
瑞響の淡々とした言葉がさらに追い討ちをかける。
十六夜は今度こそ、声を出せずにただ静かに崩れ落ちた。
瑞響は淡々と首を傾げながら、無表情で告げた。
「……十六夜様、これは非常に興味深い資料です。音声記録の精度確認のため、全文を読み上げます」
「……えっ?」
十六夜が目を見開き、虚を突かれたような声を漏らす。
だが、瑞響は一歩前に出ると、手に持った月色の表紙のノートを掲げた。
その表題には、金色の文字でこう書かれている。
《死神詩抄》 サブタイトル:“月涙の刃”
空気が、妙なざわめきを帯びた。
緊張が一気に高まり、十六夜の目の前に突如として放たれた瑞響の言葉が響く。
瑞響は、無表情のまま音読を開始した。
「……『冥月詩 第一章』」
「――月光に照らされた我が瞳、」
十六夜は顔を覆い、小さく呻いた。
「あぁぁぁ……やめて……」
「その光はただ、夜を彷徨う魂のために。」
「哀しみを斬る刃は、我が胸に宿る“誓い”となりて……」
「やめてぇぇええええっ!!!!」
十六夜が床に崩れ落ちた。
瑞響はその反応に微動だにせず、次の一節を告げる。
「――幾千の夜に祈りを灯し、 ひと雫の涙を宿すこの瞳が、 やがて冥を救う刃とならんことを……」
「ぐぅうぅぅうううああああああああ!!!!!」
十六夜が本気の絶叫をあげて転げ回る。
瑞響は、完全に無感情だった。淡々と記録を進める。
「……朗読中、対象者の精神波が臨界を突破しました。重要記録として保存処理を行います」
「もうやめてあげてえぇぇっ!!死神さんが何したっていうのおおぉ!!」
緋音は椅子から身を乗り出し、机越しに瑞響へ手を伸ばす。
「お願い……これ以上は死神さんの魂が持たないからぁっ!!」
瑞響は、表情を一切崩さずに言った。
「記録完了。タイトル:『月と涙と、死神と。』」
「そんなタイトルにするなぁぁああああ!!!」
再び絶叫する十六夜の声が、応接室の静寂を破る。
「ううぅ……、消えたい……死にたい……霧散したい……」
十六夜は顔を覆ったまま、魂が霧散しそうな勢いでうずくまっていた。
その姿は、どこからどう見ても完全にただの羞恥で崩壊した少年だった。
緋音が心底いたたまれなそうに、瑞響の肩にぽんと手を置く。
「あの……記録係さん。せめてその記録、非公開設定に……」
瑞響は、きっぱりと首を振った
「いえ、すでにこの記録は “月光詩篇・映像資料付き”として永久保存されています。閲覧権限は黎明官以上に設定済みです」
「鬼! 悪魔! 心を抉る感情レスモンスターッ!!」
最早語彙力が完全に崩壊……したかと思いきや、炸裂していた。
むしろ、羞恥に耐えかねて語彙力だけが命を燃やしている。
「……崩壊してるの、語彙力じゃなくて、メンタルのほうだよね」
緋音がぼそっと呟く。
そして――
「十六夜様って、無駄に語彙力高いですよね」
瑞響の一言が、トドメを刺した。
「……ぐふぅっっ!!」
十六夜が呻き声をあげ、崩れ落ちるように顔を伏せた。
肩が小刻みに震えている。羞恥と後悔と、もはやどうしようもない諦めと――すべてが入り混じった、哀れな沈黙。
その姿は、恐ろしくも神秘的な“死神”という存在のイメージから、あまりにもかけ離れていて。
だからこそ、思わず緋音の頬がほころんだ
この場所が、ただの“死の狭間”じゃなくて―― ちゃんと誰かの声が届く場所なんだと、少しだけ思えたから。
こんな風に、笑ってもいいんだって思えたのは、久しぶりだった。
心の奥に、長いあいだ閉め切られていた窓が、ふっと開いたような気がして――。
それだけで、ほんの少しだけ、救われた気がした。
「……ふふっ、死神さんって意外と可愛いところあるんだね」
「……聞こえてるぞ……」
「わあ、怖い」
「記録追記。“十六夜様、死神としての威厳を最後の一滴まで失う”。完了です。……タイトル案はあと七つありますが、読み上げますか?」
「…………」
十六夜はゆっくりとうずくまり、両手で顔を覆ったまま、小さな声で呟いた。
「この記録……お願いだから、永久封印して……」
その声は、冗談でも怒りでもない。 心の底からの、切実なる“お願い”だった。
このシーンは書いてて楽しかったです。
次回も明日の22時に公開いたします。