第十八話「動き出した傀儡、はじまりの操り糸」
――“過去”が動き出した。
――それは、十四年前の玄関ホール。
まだ壊れる前の屋敷。
床は磨かれ、壁の絵は色鮮やかで、
天井のシャンデリアは穏やかな光を滴らせていた。
その中央に、二人の人影が立っていた。
一人は、冷ややかな瞳をした壮年の男――ヴァルター・ミルヴァルト。
この屋敷の主であり、かつて名門と呼ばれたミルヴァルト家の当主。
そしてもう一人は、その妻――ミリア。
淡い金髪に白磁の肌を持つ、静かな気品を宿した女性。
だが、二人の間に流れる空気は、光の温もりとはほど遠い。
ヴァルターは机に向かい、整えた書類に目を落としながら静かに言った。
「……この子は“完璧な娘”になる。感情など必要ない」
ミリアの胸が震える。
「あなた、それは違うわ! この子はまだ小さい。
“教育”なんて名の命令で縛るなんて、間違ってる!」
ヴァルターの手が止まり、ゆっくりと顔を上げた。
その眼差しは怒りでも激情でもなく、ただ無慈悲な静寂だった。
「黙れ。お前は“母親”のくせに、感情に溺れるな」
「感情? それがなければ、どうやって子を抱くの?」
「“完璧な娘”に抱擁は不要だ」
彼の言葉は信念だった。
ヴァルターはかつて父親に叩き込まれてきた“家訓”を口癖のように繰り返す。
――“ミルヴァルトの血は理性で続く。愛は腐敗だ”。
それは彼自身もまた、愛を知らぬまま育てられた証だった。
短い応酬のあと、ヴァルターは机上の金のベルを指で軽く叩いた。
――チリン。
その一音で、すべてが命令に変わる。
廊下の奥から、無言の使用人が現れた。
泣きじゃくる幼いリーシアを抱き上げ、そのまま扉の向こうへ運んでいく。
ミリアが駆け寄ろうとした瞬間、ヴァルターの声が背後から刺さった。
「見苦しい。娘に“弱さ”を見せるな」
扉が閉まる。
重い音が、まるで“母と子の断絶”を告げる鐘のように響いた。
残されたミリアはその場に立ち尽くす。
指先が震えても、声は出ない。
――あの人の言葉に逆らえば、リーシアが罰せられる。
――笑えなければ、また閉じ込められる。
そんな恐怖が、心を縫い止めていく。
頬に青い痕が残るたび、彼女は悟っていった。
「命令を代わりに伝えれば、あの子は傷つかない」
そして――“命令を代弁する母親”が生まれた。
その夜、ミリアは娘の部屋の前に立ち続けた。
鍵の向こうから、かすかな嗚咽が聞こえる。
「おかあさま……あけて……」
けれど、取っ手は冷たく閉ざされたまま。
回しても、叩いても、何も動かない。
――“母親失格”。
その言葉が、背後の闇から囁かれた気がした。
泣けば、娘が罰せられる。
叫べば、家が崩れる。
だから彼女は――笑った。
翌朝、リーシアが戻ってきた時、
ミリアは掠れた声で言った。
「……リーシア、笑って。そうすれば痛くないわ」
その言葉に、幼い娘は震える唇で微笑もうとした。
泣き顔のまま、それでも笑顔を作る。
ヴァルターはそれを見て満足げに頷き、書類を閉じた。
――紅い涙が、ミリアの頬を伝い、床へと落ちる。
その瞬間、空気が凍りついた。
涙は糸となり、細く長く伸びていく。
母の掌から、娘の影へと――。
“愛”の名を借りた鎖。
これが、この屋敷で生まれた最初の操り糸だった。
ミリアはそれを見つめたまま、震える声で呟く。
「……ごめんなさい。
あなたを笑わせるしか、守る方法がなかったの」
映像が揺らぎ、紅糸がほどけるように光を散らす。
母の姿が薄れ、声だけが残る。
『――笑っていれば、誰も壊れないと思ってたの』
光が消える。
残ったのは、静寂と、赤い残光だけだった。
* * *
壁を覆っていた肖像画がひとつ、またひとつと崩れ落ちる。
乾いた音を立てて砕けたキャンバスの向こうに、
淡い光が――リーシアの胸へと流れ込んだ。
紅と金、二つの糸が胸の上に重なって浮かび上がる。
それは、操りの紅と、黎明の金。
支配と救いの境界線。
十六夜が静かにその光を見つめ、低く呟いた。
「……愛の始まりは、支配の始まりでもあった、か」
瑞響は義眼をわずかに細め、崩れた肖像に散った霊子の軌跡を静かに記録する。
「命令構文、消失を確認……。
――けれど、この“記録”は消えません。母の想いそのものとして、残ります」
緋音は目を伏せ、唇を噛んだ。
「優しさが……呪いになってたなんて。
こんな結末、誰が望んだんだろ……」
その声には怒りでも悲しみでもなく、ただ哀しみが滲んでいた。
リーシアは胸の糸を見つめたまま、何も言わなかった。
だが、その瞳の奥で確かに“何か”がほどけていく。
その表情は痛みと安堵が混じり合った、誰にも真似できない微笑だった。
――その時、かすかな音が響いた。
オルゴールの旋律。
壊れた肖像の破片の中から、小さな箱が光を放っている。
曲はやさしく、どこか懐かしい。
母がかつてリーシアに贈った子守唄だった。
緋音が呟く。
「……この音、あったかいのに、胸が痛い」
瑞響が静かに頷く。
「“記録”は、哀しみさえも抱えて残るものですから」
十六夜は奥の扉を見やり、静かに告げた。
「優しさは、次の罠だ。――進もう」
その言葉に、ラディスがわずかに肩をすくめる。
「……ここから先は、俺にも何が起こるか分からない」
乾いた笑みとともに、視線を扉へ向けた。
「けど――見届けたいんだ。
この“家族の劇”が、ようやく終わるその瞬間を」
十六夜は彼を見据え、短く頷く。
「なら、一緒に行こう」
ラディスの金の瞳が淡く光を帯びる。
「案内は得意なんだ。もっとも……この屋敷が素直に道を開けるとは限らないがな」
オルゴールの旋律が一段と強まる。
淡紅色の光が扉の隙間から洩れ出している。
それは、旋律に呼応するように揺らめいていた。
【お知らせ】
次回の更新は1週間後の11月1日 22:00です。
そしてその日から、操り人形編・完結までの2週間連続更新を行います。
毎晩22時、最後までお付き合いください。




