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死神相談所  作者: 兎月心幸
二章「操り人形の糸の先」
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第十七話「解れ始めた心」

 


 屋敷の奥――肖像の向こうで、誰かの笑い声が響いた。

 その声が合図のように、次の扉の鍵が――ひとりでに開いた。


 開いた扉の奥は、闇のまま。

 誰もいないはずなのに、“気配”だけがこちらを覗いている。


 沈黙がゆっくりと形を取り、ラディスの金の瞳がそれを追った。

「……見たほうがいい。この屋敷が何を“喰ってる”のかを」


 低く淀んだ声が、埃の舞う空気を震わせる。

 ラディスは振り返らず、闇の奥へ歩き出した。

 まるで彼自身が、その闇の案内人であるかのように。


「ちょっ、ラディッシュさん!?」

 緋音が慌てて声を上げる。


 その肩に、十六夜の手が静かに置かれた。

「行こう。……この屋敷で何が起こっているのか、僕らで確かめるんだ」


 その声は穏やかだったが、瞳の奥には確かな覚悟が宿っていた。

 四人の影が、ゆっくりと闇の中へ溶けていく。



 開いた扉の奥――そこは、異様な静けさに包まれた広間だった。

 かつて舞踏のために使われていたのだろう。


 床の赤絨毯は裂け、天井のシャンデリアは糸に吊られて逆さにぶら下がっている。

 光源はどこにもないのに、壁の油絵だけがぼうっと淡い光を放ち、

 その明滅がまるで呼吸のように空間を脈打たせていた。


 踏み出すたび、床下から乾いた“軋み”が響く。

 その音が合図のように、絵画の中の影がわずかに揺れた。


 ラディスは足を止め、肩越しに振り返る。

「……彼らを見てごらん。

 この“絵”はただの飾りじゃない。

 ここに描かれているのは、かつてこの屋敷に踏み入った死神たち“そのもの”だ」


 彼は一歩、肖像へと近づく。

 絵の中の家族たちは微笑んだまま、静かに“呼吸”しているように見えた。

 キャンバスの下では、薄い赤糸がうねり、まるで血管のように鼓動している。


「屋敷に完全に取り込まれれば――こうして“絵の中”に縫い留められる。

 名前も声も消え、永遠に“笑顔の一部”として飾られるんだ」


 言葉とともに、ラディスは壁に手を当てた。

 指先が絵の表面をなぞるたび、そこに淡く霊波が滲む。


「……こいつは“死”ですらない。

 ただ、存在を模倣させられたまま止まる――それがこの屋敷に囚われた者の末路さ」



 その言葉と同時に、ホールの光がふっと落ちる。

 灯火が一斉に消え、肖像だけがぼうっと浮かび上がった。


 絵具の奥で何かが蠢く。

 ――黒い影が流れ、絵の中の人物たちが微かに息をした。


 次の瞬間、筆跡が波打ち、絵画の風景が現実の空気へと溢れ出す。

 赤い糸が額縁から伸び、床を這い、空間を裂いてゆく。


 瑞響の義眼が即座に反応する。

「霊波変動、臨界超過。……これは記憶層の投影です!」


 十六夜が魂筆を抜く。

「来るぞ――構えろ!」


 光が弾けた。

 ホールの中央に、ひとりの少女と母親が現れる。

 母は微笑み、娘の髪を梳いている。


 幼いリーシア。

 まだ紅の糸も、死神としての痕跡もない。


「リーシア、笑って。お父様が喜ぶわ」

「……うん。笑うね」


 やわらかな声。

 けれど、空気の奥で何かが軋んだ。


 ――カチ、カチ、カチ。

 メトロノームの音。

 リズムに合わせて肖像の人物たちが微笑を揃える。


 ラディスが低く呟く。

「この記録は、“命令”の瞬間を再現している。

 屋敷の主が娘に“完璧さ”を求めた――その命令を、今も繰り返してる」


 壁が震え、金糸の文字が浮かび上がった。

 《美しくあれ 服従せよ 微笑め それが愛である》


 緋音の瞳が見開かれる。

「これ……命令文……!」


 瑞響が記録符を展開しながら分析する。

「霊子構文による“精神縫合”です。

 命令を受けた魂は、自我を保てなくなる……!」


 その瞬間、絵の中の少女がこちらを見た。

 ――目が、まっすぐに。


 緋音の胸の奥に、冷たい針が刺さるような感覚が走る。

(……この感情、なに……)


 “悲しいのに、安心してる”。

 そんな矛盾した感情が、心の底から流れ込んでくる。


 十六夜が気づく。

「緋音、下がれ! 共鳴が――!」


 遅かった。

 霊波が彼女の霊核に触れ、幻影の世界が一瞬にして広がる。


 ――目を開けると、そこは屋敷のある一室だった。

 少女リーシアが椅子に座り、母が髪を梳いている。

 窓の外では赤い糸が空を覆い、時間が止まっていた。


「お母さん……これ、夢……?」

「夢じゃないわ。いい子ね。

 笑っていれば、みんなあなたを愛してくれるのよ」


 緋音の視界の隅で、ラディスの声が響く。

「それが“記憶同調”だ。

 魂が過去と共鳴し、“役割”を与えられる。

 お前も、この家の“役者”になりかけている」


 緋音が震える声で呟く。

「この……安心感……きっと、リーシアちゃんも……そうだ。愛されるために、“操られる”ことを選んだ」



 その言葉と同時に、壁の中の肖像たちが一斉に笑った。

 ――カチ、カチ。

 止まらないメトロノームの音が、心を縫い止めていく。


 メトロノームの音が、やがて声に変わった。

 低く、冷たい男の声。

 壁の奥から響き、床を這い、空気を震わせる。


『リーシア。姿勢を正しなさい。貴族の娘は常に微笑むものだ』


 その声が響くたび、肖像画の笑顔が一枚、また一枚と“整列”していく。

 微笑の角度まで同じ――まるで命令に従う兵列。


『お前の笑顔は、この家の誇りだ。

 美しくあれ。服従せよ。それが愛である』


 壁紙が剥がれ、先ほどと同じ命令文が――今度は血筋で縫い足されて浮かび上がった。

 《美しくあれ 服従せよ 微笑め それが愛である》


 リーシアの肩が震える。

 紅の糸が彼女の手足から浮かび、天井へ向かって延びていく。

 糸は次々に結ばれ、まるで“操り糸”のように彼女の身体を縫い留めた。


「リーシアちゃん……!」

 緋音が思わず駆け寄る。


 その瞬間、床の模様が波打ち、光がスポットライトのように彼女を照らす。

 ――カチ、カチ、カチ。


 メトロノームの音に合わせ、彼女の足元から紅の影が伸びていく。


『お前もだ。外の者。

 “娘”を見つめるその目で、同じ笑みを浮かべなさい』


「……っ!」


 緋音の瞳が一瞬だけ赤に染まり、頬の筋肉が勝手に引きつる。

 笑っている――命令に、笑わされている。


 瑞響が叫ぶ。

「緋音さん! 霊波に“感情干渉”が含まれています!

 これは――“共鳴強制型霊障”!」


 共鳴強制型霊障。

 それは、魂に直接、“笑う”という感情そのものを刷り込む霊障。

 意識では抵抗できず、心が命令に従うように“上書き”されていく。


「共鳴……強制……?」

 十六夜が眉を寄せる。


 瑞響は次々と符を展開し、空中に霊子構文を走らせた。

「分析完了。対象――リーシアの命核から分岐した波長。

 緋音さんの霊波と共鳴して、記憶の感情層を縫い留めている!

 このままでは二人とも魂同調を起こし、役割固定されます!」


「つまり――この糸を断てばいいんだね」

 十六夜が静かに一歩前へ出た。


 金の瞳が、命令の光を睨み返す。

「……了解。瑞響、波長の固定を」

「座標同期――完了」


 十六夜が魂筆を構える。

 筆先に、黒と金の光が絡みつく。

 空気の粒子が揺れ、詠唱が始まった。


「――魂断ノこんだんのことば

 “縫われた言葉、結ばれた想い、命核を歪める声――ここに断つ”」


 詠唱文字が霊子に刻まれ、空間に文字が舞う。

 その文字は金の軌跡となって糸へ吸い込まれていった。



 ――ピン。


 音が弾けた。

 紅の糸が一斉に光を放ち、そして静かに崩れ落ちる。


 リーシアの体を縛っていた糸がすべて解け、

 緋音の頬からも無理やり貼り付けられていた“笑み”が剥がれた。


 息が戻る。

 緋音が膝をつき、震える指先で口元を押さえた。

 指先が震え、左手の小さな金色のドクロ紋が一度だけ脈打った。


「……怖かったのに……心が、勝手に笑おうとしてた……」


 十六夜がそっと肩に手を置く。

「命令はもう消えた。大丈夫。キミの“意志”は奪われてない」



 瑞響が分析を終え、淡く頷く。

「霊障値、安定化。共鳴解除を確認……

 十六夜様、第一層霊障、鎮静成功です」


 ラディスが少し離れた位置で、静かに拍手した。

「見事だ。……君たちは、“言葉”で糸を断った。

 命令の中に、まだ言葉を信じているんだね」


 彼はそう言いながら、壁の肖像にそっと視線を向けた。

 ランプの光がその頬のガラス片を照らし、ひときわ冷たく光る。


「……昔、俺にもいたんだ。

 “言葉で誰かを救える”って、本気で信じてた仲間が」


 その声は、笑っているようで、どこか遠い。

「けどな――この屋敷で、そいつの声も、笑いも、みんな“絵”になった。

 気づいたら、俺だけが動けてた。

 たぶん……残った“後悔”が、俺をこの形のまま縫い止めてるんだろうな」


 十六夜が静かに目を伏せる。

「……だから、自我を保てているのか」

「皮肉な話だよな。

 忘れられなかったから、壊れずに済んだ。

 でも――忘れられない限り、糸は解けない」



 ラディスの声が、ゆるやかに沈む。

 その瞳の奥に、かすかな金の灯が揺れていた。

 燃え尽きる前の炎のように、儚く、静かに。


 その声を合図に、メトロノームの音が止まり、

 屋敷の空気が一瞬――静寂を取り戻した。


 だが、その沈黙の奥で、別の“糸の軋み”がかすかに響いた。

 赤い光が壁を走り、肖像の破片がわずかに揺れる。


 リーシアの瞳がそれに引き寄せられるように光を宿した。

「……まだ、終わってないのね」


 彼女の声は震えていた。

 けれど、その震えの奥には、もう恐れではなく決意があった。


「“笑って”って、あの人はいつも言ってた。

 笑えば愛されるって。――でも違う。

 わたしは、もう“命令”なんていらない!」


 叫びと同時に、彼女の胸の紅糸が強く脈動する。

 糸がひときわ明るく光り、まるで“縫われていた何か”がほどけるように弾けた。


 空間に張り巡らされていた命令構文が一瞬にして乱れ、

 屋敷の空気がざわめく。


 瑞響が驚きの声を漏らす。

「霊障の制御構文が……逆流してる!? まさか、魂の命令拒否反応――!」


 十六夜は静かに目を細めた。

「違う。これは“解放”だ。命令を拒んだ魂が、真実を呼び起こしてる」


 紅糸の残滓が宙に舞い、光の帯となって壁に投影されていく。

 ――その光の中に、“誰かの記憶”が浮かび上がり始めた。


 ラディスが、息を詰める。

 金の瞳がわずかに揺れ、低く呟いた。

「……驚いた。屋敷の主が呼ぶ名前と同じだから、まさかとは思ってたが……

 本当に“封印”が解かれるとはな」


 十六夜が振り向く。

 ラディスは壁を見据えたまま、表情を変えずに続けた。

「十四年前から、誰もこの層を越えられなかった。

 この屋敷が“母の記憶”を守り続けていた理由も、ようやく分かる」


 その言葉と同時に、壁の光が一層強まる。

 彼の呟きがまるで合図のように。


 ――“過去”が動き出した。


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