第十六話「壊れた時計と傀儡の死神」
境界路を抜けた瞬間、空気が変わった。
冷たい夜気が肌を撫で、遠くで風が古びた木々を鳴らす。
月明かりの下に現れたのは、蔦と赤黒い糸に覆われた屋敷――旧ミルヴァルト家屋敷。
割れたステンドグラスが風に軋み、壁にこびりついた影が微かに揺れる。
その姿は、まるで“時そのものを封じ込めた墓標”だった。
「……ここが、旧ミルヴァルト家屋敷……」
緋音が小さく息を呑む。
金の霧が漂う霊境とは違い、ここでは光そのものが歪み、音が息を潜めていた。
十六夜が周囲を見回し、魂筆を軽く振る。
「霊波の層が五層……封じ込められてるな。相当根が深い」
瑞響の義眼が淡く光る。
「内部波形――人の情動に酷似。怒り、恐怖、愛情、後悔……混ざり合っています」
「……そんなの、まるで泣いてるみたい」
緋音の呟きが夜気に溶けた。
十六夜が静かに問いかける。
「リーシア、どう見る?」
紅と黒のドレスを纏う少女が、一歩前へ出る。
「命令では、この屋敷に残留する霊障の調査および“鎮魂・封印解除”を行うことになっています。
――ここに、“母”の魂がいると報告されています」
その声に、一片の揺らぎもない。
けれど、“母”という響きだけが微かに震えていた。
緋音はその横顔を見つめ、胸の奥が痛む。
瑞響が地面に符を置き、淡く光を走らせる。
屋敷の外壁がわずかに鳴り、冷気が弾けた。
「防侵結界……稼働中。屋敷自体が封印装置の一部ですね」
「つまり、この中は――リーシアとその家族の“記憶”か」
十六夜の言葉に、瑞響が無言で頷く。
空気の奥から、何かがゆっくりと目を覚ます気配がした。
かつて生まれ、いまだ終われなかった想い。
「命令により、ここを鎮めます」
リーシアの声が夜に溶ける。
冷たく研ぎ澄まされたその響きに、痛いほどの決意が宿っていた。
十六夜が目を細め、魂筆を構える。
「……命令か、意志か。どちらでもいい。
――救うために来たなら、それで十分だ」
屋敷の扉に触れた瞬間、錆びた歯車の音が鳴る。
金色の冥波が鍵穴をなぞり、静かに錠が外れた。
――カチリ。
その音が、“時の封印”を解く合図のように響く。
次の瞬間、屋敷の奥から、ひどく懐かしい声が流れ出した。
「……おかえりなさい――リーシア」
緋音の背筋を冷たいものが這う。
リーシアは瞬きもせず、扉の向こうを見つめていた。
十六夜が振り返らずに呟く。
「――行こう」
鈴が静かに鳴った。
その音が夜霧を揺らし、四人の影を屋敷の闇へと溶かしていった。
扉が背後で重く噛み合い、空気が止まった。
ひと息分の静寂ののち、外の霊波が遮断される。
瑞響の義眼が淡く光り、「通信、遮断……この中、独立領域です」と呟いた。
扉の向こうは、音のないホールだった。
赤い絨毯は褪せ、天井のシャンデリアは糸で縛られ、沈んだ月光だけが床の埃を銀に光らせる。
最初に鳴ったのは――鈴ではなく、歯車の音。
壁際の古い柱時計が、壊れた拍動で一度だけ時を刻む。
――コ、ン。
それは「ようこそ」の合図に似て、封印の鍵穴に触れた指の音にも似ていた。
「散開はしない。まとまって進もう」
十六夜の声が低く、乾いた空気を縫う。
瑞響が義眼冥具《響映の眼》をわずかに起動し、ホール全体の霊波を記録符に転写する。
「情動、混合。喜と哀が同位相で重なっています。……“作り笑い”の波形」
リーシアは前に出ると、紅糸を一本だけほどき、空気に触れさせた。
糸は微かに軋み、どこかへ呼ばれるように震える。
「母の気配は……奥」
短い一言に、緋音の胸がわずかに痛んだ。
その痛みは、絨毯の下に隠された細い縫い目と――奇妙に重なって見えた。
薄闇の中、壁のランプが一斉に灯る。
そして――見えた。
壁一面の肖像画。
古びた額縁が何十枚も並び、すべて“笑顔”の家族だった。
父、母、娘。
けれど、どの顔も不気味なほど似通っていて、筆跡も均一。
“幸福”という言葉を無理やり定義したような整った笑み。
「……これ、全部……」
緋音が息を呑む。
十六夜は壁に手をかざし、低く呟いた。
「霊波は微弱。だけど……生きてる」
その瞬間、肖像の目が動いた。
瞳の奥で光が瞬き、描かれた涙が一滴、キャンバスの外へ零れ落ちる。
滴は床に落ちる前に赤く変色し、じわりと血に溶けた。
「っ……!」
緋音が後ずさる。
――コツン。
足音。
音のした方を向くと、壁際の人形がゆっくりと首を傾けた。
白磁の顔に、ひび割れた唇。
金属の関節が軋み、紅い糸が首筋から天井へ伸びている。
ランプの光がその姿を照らす。
黒い燕尾服のような軍装、胸元に壊れた懐中時計。
髪は灰銀、片目はガラス玉、もう片方は冥光を宿す金。
――人形でありながら、どこか人間よりも哀しげだった。
十六夜が小声で警戒を促す。
「……動くぞ。距離を取って」
しかし、人形はゆっくりと口を開いた。
金属が軋むようでいて――どこか柔らかく響く声。
「……来たのか。新しい“役者”たちが」
緋音が震える声を漏らす。
「しゃ、喋った……!」
人形は微かに微笑み、首を傾げた。
「違うさ。俺は……人形にされた“死神”だ」
十六夜が目を細める。
「命核が……動いている。まだ消えていない……」
瑞響が分析を呟く。
「命核波形、結界と同化。自己保存による自我維持……異常な適応です」
人形は少しだけ笑みを深め、ゆっくり右手を胸に当てた。
「名を……思い出せたのは久しぶりだ。
祓魂庁所属、死神――ラディス。
いまはもう、“この家の一部”だけどね」
その名を聞いた瞬間、瑞響の瞳がわずかに揺れた。
「……ラディッシュ。記録にあります。十四年前――旧ミルヴァルト家霊障捜査で消息を絶った死神のひとり。確かに、その名が報告書に残されていました」
「ラディスだよ!? 今、ちゃんと名乗ったよね!?」
ラディスが反射的に声を上げる。
瑞響は一瞬だけ目を瞬かせ、無表情のまま淡々と返した。
「失礼。……ラディス。ラディッシュは根菜の一種でした」
その瞬間、耐えきれなかったのか緋音がぷっと吹き出した。
「っ……ごめんなさい……っ」
両手で口を押さえるが、肩の震えが止まらない。
張り詰めていた空気の糸が、ふっと切れるようにほどけた。
ラディスは頭を抱えて天を仰ぐ。
「……十四年ぶりに人と話したと思ったらこれかよ」
十六夜も思わず口元を緩めた。
「なんか……ごめんね。……だけど、確かに間違えそうな響きではある」
「フォローになってねぇよ!」
ラディスが即座に突っ込みを返す。
その時だった。
――空気が、ほんの一瞬だけ柔らかく揺れた。
紅と黒のドレスの裾が微かに揺れ、
リーシアが視線を伏せながら、そっと口元に指を添える。
「ラディッシュさん……ふふっ……かわいい」
笑った。
それは、誰かに命令された笑顔ではなかった。
声も、表情も、何もかもがぎこちなくて、
けれどその微笑は確かに“彼女自身の意志”から生まれたものだった。
ランプの灯が彼女の瞳を照らす。
深紅の光の奥で、凍っていた何かがほんのわずかに溶けていく。
緋音は息を呑んだ。
その笑みは儚くもあたたかく、
まるで夜の闇に小さな蝋燭が灯ったようだった。
ラディスは硬直したまま顔を赤くし、目を逸らした。
「……もう“ラディッシュ”でもいいよ……好きに呼んでくれ」
十六夜はその様子に微笑み、
「それでも、キミは確かに――“ラディス”だ」
とだけ、静かに言った。
リーシアはその言葉に小さく瞬きをし、
ほんの少しだけ、嬉しそうに目を細めた。
――その瞬間、空気の温度が変わった。
「……あい、してる……」
誰かの声。けれど、誰のものでもない。
甘く、途切れ途切れの囁きが、空間の奥で膨らんでいく。
「な……に……?」
緋音が顔を上げた。
肖像の唇が、ゆっくりと動く。
微笑みを崩さぬまま、唇だけが、血のように鮮やかに。
「――愛してる。愛してる。愛してる……」
囁きは次第に重なり、やがて“拍”を持った。
カチ、カチ――柱時計の壊れた拍が、連呼のリズムを打つ。
低く、甘く、狂おしい祈りは、拍に煽られて“叫び”へ変わる。
「愛してる、アイシテル、アィシテ……ル……」
声が歪み、波形のように空間を震わせた。
頭の奥をノイズが走り、視界が点滅する。
「十六夜くん、これ――!」
緋音の声が震える。
十六夜が壁を睨む。
「……肖像が、喋ってる……?」
絵の中の瞳が動いた。
赤黒い涙が頬を伝い、キャンバスの外に零れ落ちる。
ラディスの声が低く響いた。
「……冗談はここまでだ。
この屋敷は、記憶を喰う。
思い出すほど、過去の光景が糸になって魂を縫い止めていくんだ」
彼は自分の腕に絡む紅い糸を掴み、ゆっくりと引き千切る。
断面から、冷たい鉄の匂いを帯びた黒い霊子の粒が零れ落ちた。
「糸は《記憶→感情→意志》の順に食い込み、最後は“身体より先に心が動かなくなる”。
縫われていくほど、魂が屋敷に侵食される。
最初は記憶が、次に感情が、そして最後に――意志が」
ラディスは苦笑するように唇を歪めた。
「やがて“笑うこと”も、“泣くこと”も、命令でしかできなくなる。
そうして……こんな風に、傀儡に成り果てるんだ」
言葉と同時に、彼の背の糸が軋み、
金属の関節がかすかに鳴った。
自嘲のように目を伏せ、
「見苦しいだろ? でも、これでもまだマシさ。
あいつらは“絵の中”で、一生正解の笑顔を続ける」
彼の言葉が静かに落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。
十六夜は黙ってラディスを見つめていた。
その金の瞳の奥に、かすかな痛みと怒りが交じる。
「……縫われたまま、それでも自我を握ってる……か。それを地獄と言わずにいられない」
緋音は小さく息を呑み、唇を噛んだ。
「そんな……そんなの、あんまりだよ……」
彼女の声は震え、まるで自分の胸が縫われたように押し殺された。
瑞響は義眼を光らせ、淡々と呟く。
「精神・感情・意志――三段階侵食。
構造は理解しました。……けれど、それを“耐えている”理由が不明です」
だがその声の端に、ほんの一瞬だけ、揺らぎがあった。
リーシアは何も言えず、胸元の紅い糸を見つめていた。
その指先が、かすかに震えている。
「……わたしも……こうなるの……?」
誰に向けたでもない呟きが、薄闇に溶けた。
ラディスは短く息をつき、肩をすくめた。
「だから言ったろ。覚えてることが一番の呪いだって」
それでも、声の奥にはどこか“安堵”のような響きがあった。
久しぶりに、誰かに“見られた”痛みの吐露――その証のように。
天井から吊られた赤糸がわずかに震えた。
その振動に合わせて肖像たちが微笑み、唇が同時に動く。
『笑って、リーシア。お父様が見ているわ』
緋音はその言葉に息を呑んだ。
十六夜が素早く符を展開し、霊障の干渉を遮る。
「“声”が霊障を持ってる……この屋敷自体が、命令の器だ」
ラディスは静かに頷いた。
「そう。この家では“愛”と“命令”が同じ意味になる。
そして、命令に従う者だけが“家族”と呼ばれる」
その声に合わせて、彼の背の糸がひゅるりと揺れる。
赤い糸が腕を締め付け、ラディスはそれを引きちぎるように動いた。
「俺は、もうこの家から出られない。
でも――君たちなら、まだ“糸を断てる”」
十六夜が静かに頷く。
「案内を、頼めるか?」
ラディスはわずかに目を細め、
「俺に残された“時間”の分だけなら」と微笑んだ。
屋敷の奥――肖像の向こうで、誰かの笑い声が響いた。
その声が合図のように、次の扉の鍵が――ひとりでに開いた。




