表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死神相談所  作者: 兎月心幸
二章「操り人形の糸の先」
17/33

第十六話「壊れた時計と傀儡の死神」

 


 境界路を抜けた瞬間、空気が変わった。

 冷たい夜気が肌を撫で、遠くで風が古びた木々を鳴らす。

 月明かりの下に現れたのは、蔦と赤黒い糸に覆われた屋敷――旧ミルヴァルト家屋敷。

 割れたステンドグラスが風に軋み、壁にこびりついた影が微かに揺れる。


 その姿は、まるで“時そのものを封じ込めた墓標”だった。


「……ここが、旧ミルヴァルト家屋敷……」

 緋音が小さく息を呑む。

 金の霧が漂う霊境とは違い、ここでは光そのものが歪み、音が息を潜めていた。


 十六夜が周囲を見回し、魂筆を軽く振る。

「霊波の層が五層……封じ込められてるな。相当根が深い」


 瑞響の義眼が淡く光る。

「内部波形――人の情動に酷似。怒り、恐怖、愛情、後悔……混ざり合っています」


「……そんなの、まるで泣いてるみたい」

 緋音の呟きが夜気に溶けた。


 十六夜が静かに問いかける。

「リーシア、どう見る?」


 紅と黒のドレスを纏う少女が、一歩前へ出る。

「命令では、この屋敷に残留する霊障の調査および“鎮魂・封印解除”を行うことになっています。

 ――ここに、“母”の魂がいると報告されています」


 その声に、一片の揺らぎもない。

 けれど、“母”という響きだけが微かに震えていた。

 緋音はその横顔を見つめ、胸の奥が痛む。


 瑞響が地面に符を置き、淡く光を走らせる。

 屋敷の外壁がわずかに鳴り、冷気が弾けた。


「防侵結界……稼働中。屋敷自体が封印装置の一部ですね」

「つまり、この中は――リーシアとその家族の“記憶”か」

 十六夜の言葉に、瑞響が無言で頷く。


 空気の奥から、何かがゆっくりと目を覚ます気配がした。

 かつて生まれ、いまだ終われなかった想い。


「命令により、ここを鎮めます」

 リーシアの声が夜に溶ける。

 冷たく研ぎ澄まされたその響きに、痛いほどの決意が宿っていた。


 十六夜が目を細め、魂筆を構える。

「……命令か、意志か。どちらでもいい。

 ――救うために来たなら、それで十分だ」


 屋敷の扉に触れた瞬間、錆びた歯車の音が鳴る。

 金色の冥波が鍵穴をなぞり、静かに錠が外れた。


 ――カチリ。


 その音が、“時の封印”を解く合図のように響く。

 次の瞬間、屋敷の奥から、ひどく懐かしい声が流れ出した。


「……おかえりなさい――リーシア」


 緋音の背筋を冷たいものが這う。

 リーシアは瞬きもせず、扉の向こうを見つめていた。


 十六夜が振り返らずに呟く。

「――行こう」


 鈴が静かに鳴った。

 その音が夜霧を揺らし、四人の影を屋敷の闇へと溶かしていった。


 扉が背後で重く噛み合い、空気が止まった。

 ひと息分の静寂ののち、外の霊波が遮断される。

 瑞響の義眼が淡く光り、「通信、遮断……この中、独立領域です」と呟いた。


 扉の向こうは、音のないホールだった。

 赤い絨毯は褪せ、天井のシャンデリアは糸で縛られ、沈んだ月光だけが床の埃を銀に光らせる。


 最初に鳴ったのは――鈴ではなく、歯車の音。

 壁際の古い柱時計が、壊れた拍動で一度だけ時を刻む。


 ――コ、ン。


 それは「ようこそ」の合図に似て、封印の鍵穴に触れた指の音にも似ていた。


「散開はしない。まとまって進もう」

 十六夜の声が低く、乾いた空気を縫う。

 瑞響が義眼冥具《響映の眼》をわずかに起動し、ホール全体の霊波を記録符に転写する。


「情動、混合。喜と哀が同位相で重なっています。……“作り笑い”の波形」


 リーシアは前に出ると、紅糸を一本だけほどき、空気に触れさせた。

 糸は微かに軋み、どこかへ呼ばれるように震える。


「母の気配は……奥」


 短い一言に、緋音の胸がわずかに痛んだ。

 その痛みは、絨毯の下に隠された細い縫い目と――奇妙に重なって見えた。


 薄闇の中、壁のランプが一斉に灯る。

 そして――見えた。


 壁一面の肖像画。

 古びた額縁が何十枚も並び、すべて“笑顔”の家族だった。

 父、母、娘。

 けれど、どの顔も不気味なほど似通っていて、筆跡も均一。

 “幸福”という言葉を無理やり定義したような整った笑み。


「……これ、全部……」

 緋音が息を呑む。


 十六夜は壁に手をかざし、低く呟いた。

「霊波は微弱。だけど……生きてる」


 その瞬間、肖像の目が動いた。

 瞳の奥で光が瞬き、描かれた涙が一滴、キャンバスの外へ零れ落ちる。

 滴は床に落ちる前に赤く変色し、じわりと血に溶けた。


「っ……!」

 緋音が後ずさる。


 ――コツン。

 足音。


 音のした方を向くと、壁際の人形がゆっくりと首を傾けた。

 白磁の顔に、ひび割れた唇。

 金属の関節が軋み、紅い糸が首筋から天井へ伸びている。


 ランプの光がその姿を照らす。

 黒い燕尾服のような軍装、胸元に壊れた懐中時計。

 髪は灰銀、片目はガラス玉、もう片方は冥光を宿す金。

 ――人形でありながら、どこか人間よりも哀しげだった。


 十六夜が小声で警戒を促す。

「……動くぞ。距離を取って」


 しかし、人形はゆっくりと口を開いた。

 金属が軋むようでいて――どこか柔らかく響く声。


「……来たのか。新しい“役者”たちが」


 緋音が震える声を漏らす。

「しゃ、喋った……!」


 人形は微かに微笑み、首を傾げた。

「違うさ。俺は……人形にされた“死神”だ」


 十六夜が目を細める。

「命核が……動いている。まだ消えていない……」


 瑞響が分析を呟く。

「命核波形、結界と同化。自己保存による自我維持……異常な適応です」


 人形は少しだけ笑みを深め、ゆっくり右手を胸に当てた。

「名を……思い出せたのは久しぶりだ。

 祓魂庁所属、死神――ラディス。

 いまはもう、“この家の一部”だけどね」


 その名を聞いた瞬間、瑞響の瞳がわずかに揺れた。

「……ラディッシュ。記録にあります。十四年前――旧ミルヴァルト家霊障捜査で消息を絶った死神のひとり。確かに、その名が報告書に残されていました」


「ラディスだよ!? 今、ちゃんと名乗ったよね!?」


 ラディスが反射的に声を上げる。

 瑞響は一瞬だけ目を瞬かせ、無表情のまま淡々と返した。

「失礼。……ラディス。ラディッシュは根菜の一種でした」


 その瞬間、耐えきれなかったのか緋音がぷっと吹き出した。

「っ……ごめんなさい……っ」


 両手で口を押さえるが、肩の震えが止まらない。

 張り詰めていた空気の糸が、ふっと切れるようにほどけた。


 ラディスは頭を抱えて天を仰ぐ。

「……十四年ぶりに人と話したと思ったらこれかよ」


 十六夜も思わず口元を緩めた。

「なんか……ごめんね。……だけど、確かに間違えそうな響きではある」


「フォローになってねぇよ!」


 ラディスが即座に突っ込みを返す。

 その時だった。


 ――空気が、ほんの一瞬だけ柔らかく揺れた。


 紅と黒のドレスの裾が微かに揺れ、

 リーシアが視線を伏せながら、そっと口元に指を添える。

「ラディッシュさん……ふふっ……かわいい」


 笑った。

 それは、誰かに命令された笑顔ではなかった。

 声も、表情も、何もかもがぎこちなくて、

 けれどその微笑は確かに“彼女自身の意志”から生まれたものだった。


 ランプの灯が彼女の瞳を照らす。

 深紅の光の奥で、凍っていた何かがほんのわずかに溶けていく。

 緋音は息を呑んだ。

 その笑みは儚くもあたたかく、

 まるで夜の闇に小さな蝋燭が灯ったようだった。


 ラディスは硬直したまま顔を赤くし、目を逸らした。

「……もう“ラディッシュ”でもいいよ……好きに呼んでくれ」


 十六夜はその様子に微笑み、

「それでも、キミは確かに――“ラディス”だ」

 とだけ、静かに言った。


 リーシアはその言葉に小さく瞬きをし、

 ほんの少しだけ、嬉しそうに目を細めた。


 ――その瞬間、空気の温度が変わった。


「……あい、してる……」

 誰かの声。けれど、誰のものでもない。

 甘く、途切れ途切れの囁きが、空間の奥で膨らんでいく。


「な……に……?」

 緋音が顔を上げた。


 肖像の唇が、ゆっくりと動く。

 微笑みを崩さぬまま、唇だけが、血のように鮮やかに。


「――愛してる。愛してる。愛してる……」


 囁きは次第に重なり、やがて“拍”を持った。

 カチ、カチ――柱時計の壊れた拍が、連呼のリズムを打つ。

 低く、甘く、狂おしい祈りは、拍に煽られて“叫び”へ変わる。


「愛してる、アイシテル、アィシテ……ル……」


 声が歪み、波形のように空間を震わせた。

 頭の奥をノイズが走り、視界が点滅する。


「十六夜くん、これ――!」

 緋音の声が震える。


 十六夜が壁を睨む。

「……肖像が、喋ってる……?」


 絵の中の瞳が動いた。

 赤黒い涙が頬を伝い、キャンバスの外に零れ落ちる。


 ラディスの声が低く響いた。

「……冗談はここまでだ。

 この屋敷は、記憶を喰う。

 思い出すほど、過去の光景が糸になって魂を縫い止めていくんだ」


 彼は自分の腕に絡む紅い糸を掴み、ゆっくりと引き千切る。

 断面から、冷たい鉄の匂いを帯びた黒い霊子の粒が零れ落ちた。


「糸は《記憶→感情→意志》の順に食い込み、最後は“身体より先に心が動かなくなる”。

 縫われていくほど、魂が屋敷に侵食される。

 最初は記憶が、次に感情が、そして最後に――意志が」


 ラディスは苦笑するように唇を歪めた。

「やがて“笑うこと”も、“泣くこと”も、命令でしかできなくなる。

 そうして……こんな風に、傀儡に成り果てるんだ」


 言葉と同時に、彼の背の糸が軋み、

 金属の関節がかすかに鳴った。

 自嘲のように目を伏せ、

「見苦しいだろ? でも、これでもまだマシさ。

 あいつらは“絵の中”で、一生正解の笑顔を続ける」


 彼の言葉が静かに落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。

 十六夜は黙ってラディスを見つめていた。

 その金の瞳の奥に、かすかな痛みと怒りが交じる。

「……縫われたまま、それでも自我を握ってる……か。それを地獄と言わずにいられない」


 緋音は小さく息を呑み、唇を噛んだ。

「そんな……そんなの、あんまりだよ……」

 彼女の声は震え、まるで自分の胸が縫われたように押し殺された。


 瑞響は義眼を光らせ、淡々と呟く。

「精神・感情・意志――三段階侵食。

 構造は理解しました。……けれど、それを“耐えている”理由が不明です」


 だがその声の端に、ほんの一瞬だけ、揺らぎがあった。


 リーシアは何も言えず、胸元の紅い糸を見つめていた。

 その指先が、かすかに震えている。

「……わたしも……こうなるの……?」

 誰に向けたでもない呟きが、薄闇に溶けた。


 ラディスは短く息をつき、肩をすくめた。

「だから言ったろ。覚えてることが一番の呪いだって」


 それでも、声の奥にはどこか“安堵”のような響きがあった。

 久しぶりに、誰かに“見られた”痛みの吐露――その証のように。


 天井から吊られた赤糸がわずかに震えた。

 その振動に合わせて肖像たちが微笑み、唇が同時に動く。


『笑って、リーシア。お父様が見ているわ』


 緋音はその言葉に息を呑んだ。

 十六夜が素早く符を展開し、霊障の干渉を遮る。

「“声”が霊障を持ってる……この屋敷自体が、命令の器だ」


 ラディスは静かに頷いた。

「そう。この家では“愛”と“命令”が同じ意味になる。

 そして、命令に従う者だけが“家族”と呼ばれる」


 その声に合わせて、彼の背の糸がひゅるりと揺れる。

 赤い糸が腕を締め付け、ラディスはそれを引きちぎるように動いた。

「俺は、もうこの家から出られない。

 でも――君たちなら、まだ“糸を断てる”」


 十六夜が静かに頷く。

「案内を、頼めるか?」


 ラディスはわずかに目を細め、

「俺に残された“時間”の分だけなら」と微笑んだ。


 屋敷の奥――肖像の向こうで、誰かの笑い声が響いた。

 その声が合図のように、次の扉の鍵が――ひとりでに開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ