第十四話「操り人形」
――夢を、見ていた気がする。
糸が絡まる音。
誰かの手が、わたしの髪を撫でていた。
その手は、あたたかくて、痛かった。
優しさと哀しさが、同じ指先に混ざっていた。
「リーシア、いい子ね」
その声に合わせて、わたしは微笑むよう“作られていった”。
笑顔という形だけが残って、心の温度は少しずつ消えていく。
操り糸が軋むような音を立てて動く。
その仮面は、笑っているのに――どうしようもないほど哀しい顔をしていた。
唇が無意識に言葉を紡ぐ。
『お母さん――どうしてそんなに哀しい顔をしているの?』
(――この人の手は、どうして震えてるの?)
問いかけても、答えは返らない。
代わりに糸が、またひとつ増えた。
どれが本当の笑顔なのか、もうわからない。
だから、決めたの。
――もう、感情なんていらない。
その方がきっと、楽だから。
誰も、傷つかないから。
……けれど。
糸の向こうで、誰かが泣いている気がした。
その泣き声が、わたしを縫い止める。
(――聞こえる?)
(あなたの心、まだ止まっていないわ)
歯車が、一度だけ回った気がした。
けれど、それもすぐに闇に溶けていく。
――そう、わたしは操り人形。
糸を操る指先に頷くだけの、傀儡にすぎない。
……あの手が、誰かに操られていたことも知らずに。
それが、わたしの“生き方”だった。
* * *
霊境の朝は、音のない呼吸から始まる。
夜と昼のあわいを漂う金の霧が、鎮魂花の花弁をやわらかく包んでいた。
緋音は静かにしゃがみ込み、掌にすくった霊水をそっと注ぐ。
光の粒が水面で跳ね、ひとしずくが頬に落ちた瞬間――
鈴のような金の微音が空気の奥で震える。
魂が届いた合図。
この響きにも、もう驚かなくなった。
最初の頃は、死者の気配に触れるたび胸が締めつけられたけれど――
今はただ、この音の中に「生きていた証」を感じる。
けれど、霊水の波紋を見つめていたその瞬間――
胸の奥に、“あの夜”の残響がふとよぎった。
――黒い霧。
――「また会おうね」と笑った声。
あの声だけは、いまだに耳の奥で消えない。
冷たいのに、どこか懐かしい響き。
十六夜の指先が震えたこと。
その瞳に、一瞬だけ影が走ったこと。
あの光景が、今も小さな棘のように胸の奥で疼いている。
(……あれも、“死神”だったんだよね)
思い返すたび、胸が少しだけざわつく。
彼の「声を知っている気がする」という呟きが、
まるで未完成の詩みたいに心のどこかに残っていた。
緋音は小さく首を振り、手元の霊水を注ぎ直す。
雫が花弁を伝い落ち、霧の光を受けて瞬いた。
「……今日も、誰かの声が届くのかな」
その独り言を包むように――金の霧がゆるやかに揺れた。
まるで止まっていた糸が静かに動き出すように。
光は朝へと溶けていった。
* * *
相談所の朝は、今日も静かだった。
薄金の霧が差し込む応接室で、緋音は湯を沸かしながら鎮魂茶の香りを確かめる。
白檀と夜花の香が、ほんのりと胸を温めた。
「……十六夜くん、まだ資料整理してるの?」
廊下の奥から、紙をめくる音が返ってくる。
「うん。昨日の魂記録、瑞響に渡しておかないと」
「……ほんと、休まないよね」
苦笑まじりに言うと、十六夜が小さく鈴を転がすように笑った。
「僕の自己満足だよ。
死神は人間とは体の構造が違うから、日常を送るだけなら休まなくても平気なんだ。
だから、少しでも“想い”に向き合っていたい。
それが、僕にできる唯一の救いだから」
「……十六夜くんって、やっぱり真面目すぎるよ」
「そうかもね」
彼は静かに笑い、筆を動かした。
その仕草がどこか寂しく見えて、緋音は胸の奥が少しだけ温かくなった。
瑞響が無言で入ってきて、茶器を受け取る。
「記録用に一杯だけもらいます」
表情は淡々としているのに、湯気を見つめる瞳が少し柔らかい。
そんな、何気ない時間。
霊境に射す光が、静かに机の上を滑っていく。
――初任務から二週間。
その間にも、いくつもの魂が相談所を訪れた。
夜を恐れて震える子どもの魂。
想い人を探し続ける老人の魂。
緋音はそのひとつひとつに向き合い、
十六夜の隣で「どうか、安らげますように」と祈りながら見送った。
最初は怖かった“別れ”という瞬間も、今では静かに受け止められるようになった。
魂が光へ還るたびに、胸の奥で柔らかな共鳴音が響く気がする。
(……少しは、成長できたのかな)
緋音は茶器を片づけ、窓辺に差す霊光を見上げた。
あの夜の恐怖は、まだ心の奥に残っている。
けれど――それ以上に、今は“誰かを救える喜び”を知っていた。
相談所の玄関先で、十六夜がドアノブに手をかけながら振り返る。
「いい? 緋音、相談所からは一人で出ちゃダメだからね」
「う、うん……わかってる」
その横で瑞響が静かに記録符を束ねる。
「私は記録課の資料整理に戻ります。……留守番をお願いします」
「二人とも、いってらっしゃい」
扉が閉まる音がして、静寂が戻る。
霊境の風がかすかに鳴り、霧が縁側をやわらかく包みこんだ。
緋音はひとり、箒を手に応接室を掃きながら小さく息を吐く。
(この空気にも、だいぶ慣れてきたな……)
けれど――そのとき。
“声”が、胸の奥を震わせた。
……だれか、たすけて。
耳で聞くのではなく、心の奥に直接響く。
空気の流れが変わった。
鈴の音が微かに震え、霧が窓の向こうで濃くなっていく。
気づけば箒を置き、玄関の鈴灯をくぐっていた。
冷たい夜気。白い息。足は勝手に霊境の外れへと進んでいく。
暗い道の先――黒い霧のようなものが蠢いていた。
歪んだ人の形。禍々しい邪波が空間を蝕み、
地面の霊花が枯れ、空気がざらつく。
「ひっ……!」
逃げようとした瞬間、黒い腕が伸び、空気が裂けた。
邪波の奔流が頬を切り、魂の奥まで冷たく染み込んでいく。
――そのとき、紅い閃光が夜を裂いた。
「動かないで」
声と同時に、霧の向こうから細い糸が奔る。
紅い線が幾重にも交差し、邪波の継ぎ目から黒霧を断った。
空間に浮かぶのは――傀儡たち。
古びたアンティークドールが、紅糸に操られながら舞う。
表情のない顔、細く長い手脚。
それらが霧の中を滑るように動き、邪魂を囲い込む。
「――封糸・縫鎖陣」
少女の指先が弾かれる。
紅糸が術陣を描き、傀儡たちが一斉に腕を掲げた。
光が走り、邪魂の咆哮が夜に溶けていく。
霊核が音を立てて割れるとともに、黒い霧が崩れ落ち、静寂が戻る。
月光に照らされて現れた少女は、黒と紅を基調としたアンティークドレスを纏っていた。
クラシックピンクのドリルツインテールが風に揺れ、
その左手の甲に、血のような紅のドクロ紋が脈打つ。
霊子粒が輪郭を揺らし、彼女の感情と共に淡く鼓動する。
その光はまるで――命を縫い止める糸のようだった。
(……死神――!)
緋音は息を呑む。
彼女の瞳に宿る紅は、炎ではなく“縛られた悲しみ”の色をしていた。
少女は軽やかに地面に着地し、緋音に手を差し出す。
「怪我はない?」
差し伸べられた手は冷たくも柔らかく、緋音はその手を掴んで立ち上がった。
「は、はい。助けてくれて……ありがとうございました!」
少女は緋音をつま先からてっぺんまで見つめ、静かに首を傾げる。
「あなた……死神じゃ、ない……? でも、不思議な霊波を纏ってる。
ただの魂じゃなさそうだけど……いったい何者なの?」
少女の深紅の瞳に、警戒と疑惑が浮かぶ。
(や、やばい。警戒されちゃってる……!)
「あっ、えっと、その……わたし、『だれか、たすけて』って声が聞こえちゃって!
それで、勢いで飛び出してきちゃったっていうか……!」
支離滅裂な弁明に、少女の視線がさらに鋭くなる。
けれどその瞳が、緋音の左手――魂縁のドクロ紋に止まった瞬間、わずかに揺れた。
「それ……もしかして、あなたが十六夜の助手?
不思議な力が使えるっていう……冥界中で噂になってる」
「そ、そうです! わ、わたし死神相談所の助手の暁星緋音です!」
名乗ると、少女の表情からわずかに疑念の色がほどけた。
「ここは魂の終着点。このあたりには、悪意のある魂も流れつくの。
悪いことは言わない。……早く戻ったほうがいい。
相談所はすぐそこだし、ここらへんにはもう邪魂の気配は感じない、すぐに戻れば襲われることは無いはず」
その声とともに、傀儡たちが霧へと還っていく。
紅い糸がふっとほどけ、夜の空気に溶けて消えた。
緋音は一歩、少女のほうへ踏み出す。
「ま、待って! あなたの名前、教えて……!」
霧の中、少女が振り返る。
その瞳に、ほんの一瞬だけ――人間らしい揺らぎが宿った。
「……わたしは、リーシア」
名前を告げる声は、どこか壊れそうで、それでいて温かかった。
その瞬間、風が吹き抜け、遠くで鈴の音が一度だけ響く。




