第十三話「結ばれた光、ほどかれた影」
ガラリ、と音を立てて扉が開いた。
黒紫の霧が渦巻く教室に、ひとりの少年が立っていた。
腕には小さな花束。肩で息をしながら、それでも真っ直ぐに微笑んでいる。
「――そのマフラー、見せに来てくれたんだね」
その声が響いた瞬間、黒鎖の唸りがぴたりと止まった。
結翔の濁った瞳が、大きく揺れる。
崩れかけていた魂の輪郭が、かすかに震えた。
「……っ、どうして……」
震える声を漏らす結翔に、颯真はゆっくりと一歩踏み出す。
夕陽の名残が差し込み、二人の間に薄金色の光を落とした。
「毎月ここに来てたんだ。……君のこと、忘れたことなんて一度もないよ」
その言葉に、黒紫の冥波がざわめき、鎖が再び暴れようとする。
だが緋音がその前に立ち、両手を広げた。
「……大丈夫。もう、ひとりじゃないから」
黎明色の光が指先から零れ、空間に淡い朝焼けの揺らぎを描き出す。
その光はやさしい風のように広がり、二人の間を繋ぐ架け橋となっていく。
マフラーの端を包み込むように光が灯り、温もりの記憶が息を吹き返した。
結翔は涙に濡れた瞳で颯真を見上げる。
「……笑わない?」
「笑うわけないだろ」
颯真はにかっと笑い、花束を机の上にそっと置いた。
「だってそれ、君が作った宝物だよ」
その瞬間、ぽたりと結翔の頬を涙が伝う。
零れた雫は霊子の光となって舞い上がり、マフラーの糸に触れた。
ねじれていた糸は淡くほどけ、柔らかな光を帯びて整っていく。
緋音は黎明の光を重ね、二人の想いを静かに結び直した。
温かな波動が教室全体に満ちていく。
黒霧は音もなく霧散し、代わりに柔らかな光の粒がゆっくりと舞い始めた。
結翔はマフラーを胸に抱きしめ、かすかな笑みを浮かべる。
「……ありがとう」
その声は風に溶けるように穏やかで――
次の瞬間、彼の身体は柔らかな光粒となり、静かに空へ昇っていった。
涙を残した笑顔は、最後まで揺らがなかった。
――そして、教室には穏やかな余韻だけが残った。
黎明の光が静かに消えていく中、緋音はそっと胸に手を当てた。
(……きっと、もう大丈夫だね)
* * *
――気がつくと、颯真は廃校の昏い廊下に立っていた。
さっきまで確かに感じていた温もりも、光も、少年の姿もない。
けれど掌を見下ろすと、白い糸くずがひとつ、淡く光りながら残っていた。
「……夢、じゃないよな」
頬を伝う涙の跡はまだ乾いていない。
胸の奥に宿るあの笑顔と声は、確かに自分に届いていた。
颯真はそっと糸くずを握りしめ、静かに目を閉じた。
「……ずっと忘れない」
吹き抜ける風が古びた窓を鳴らす。
だがその音は、彼にはどこか澄んだ旋律に聞こえていた。
* * *
――静寂。
光に溶けた結翔の痕跡はもうなく、ただ黎明の温もりだけが教室に残っていた。
緋音は涙を拭い、胸の奥の波を整えるように小さく息を吐く。
「……よかった……」
その声に十六夜がそっと肩へ手を置いた。金色の瞳がやわらかく揺れ、微かに笑む。
「……よくやったね」
だが次の瞬間――。
教室の隅で、黒紫の冥波が残滓のようにひらめいた。
ぴたりと空気が凍り、背筋を撫でる冷たい感覚が広がる。
「……あーあ、つまんないの。もっと面白いもの見せてくれると思ったのにな」
無邪気で残酷な声。
黒霧の中から、フードを深く被った人影がゆらりと浮かび上がる。
笑いながら、影は霧に溶けていこうとした。
「待て!」
十六夜の声が鋭く響く。
その瞬間、彼の指先から夜色の糸光が走り、空間に小さな共鳴陣を描き出す。
霧がわずかに震え、音の波が教室の空気を歪めた。
「瑞響!」
「了解――封環・共振結符」
瑞響が符を掲げ、筆先で陣を重ねる。
共鳴波が符を介して形を持ち、二人の冥波が重なり合う瞬間――
夜色の糸は光の鎖へと変わり、霧の中の影を縛りつけた。
黒霧がざわめき、軋む音が教室に低くこだました。
絡み取られた影の輪郭が激しく揺らぎ、胸元の命核が一瞬だけ露わになる。
ひび割れた太陽のような核。紅黒い鎖がそこから伸び、血のような光を滴らせていた。
「……これは……」
見たこともない異様な光景に、十六夜は息を呑む。
影はゆっくりと顔を上げ、唇の端を吊り上げた。
「また会おうね」
意味深な一言。黒霧が弾け、影の姿は霧散する。
残ったのは“確かに何かがいた”痕跡と、不気味な笑い声だけだった。
光が消えた教室に、しん……と静寂が降りる。
さっきまで黒紫の霧が渦巻いていた空間は、ただ冷たい余韻だけを残している。
緋音は少し怯えたように震え、十六夜を見上げた。
「……いまの……あの声……邪魂じゃ、なかったよね?」
十六夜は目を閉じ、一拍だけ呼吸を整え、静かに頷く。
「……うん。命核を確認できたし、あの波長は邪波じゃなかった。
波形は、間違いなく冥波だった。正体は――死神で間違いないよ」
「……死神って魂を導く案内人なんじゃないの? こんな酷いことする死神もいるってこと……?」
緋音の声はかすれ、手はまだ小さく震えている。
十六夜は視線を伏せ、わずかに眉を寄せた。
「……さっきの状況が夢か幻でもない限り、それが事実だろうね」
少し間を置き、金色の瞳で緋音を見つめ直す。
「でも、僕が知る限り――あんなことをする死神は、さっきの奴しか見たことがない」
その言葉が、ひりつくような現実感を緋音の胸に突き刺す。
瑞響は無言のまま符に筆を走らせ、淡く光る義眼を伏せている。
教室に残るのは冷たい余韻と、かすかな光の残滓だけ。
十六夜は式符刀を収め、ふと物憂げに目を伏せた。
(……やめろ……思い出すな……)
胸の奥に沈めた囁きは、誰にも届くはずがなかった。
けれど、黎明の力を帯びた緋音の耳には、不意に流れ込んでしまった。
「……声を知っている……?」
緋音は思わず呟き、はっとして唇を押さえる。
十六夜が小さく顔を上げたとき、その金色の瞳に影が揺れていた。
緋音は咄嗟に駆け寄り、袖を掴む。
「十六夜くん……大丈夫?」
彼は小さく息を吐き、微笑もうとした。
だがその笑みはかすかに震え、影を帯びていた。
「……大丈夫。ただ――あの声を……知っている気がして」
緋音ははっと目を瞬かせる。
「声……?」
十六夜は答えず、窓の外に沈みゆく夕陽へと視線を投げた。
金色の瞳に映っていたのは光ではなく、胸の奥に疼く過去の影。
その沈黙を切るように、瑞響の冷ややかな声が響いた。
「……記録、完了」
淡々とした一言が、緋音と十六夜を現実へと引き戻す。
こうして緋音の初任務は幕を下ろした――けれど、それはほんの序章にすぎなかった。
* * *
森の奥。
月明かりの届かぬ闇に、ひとつの影が佇んでいた。
フードの奥から、愉快そうな笑みがこぼれる。
「……あーあ、しくったなぁ。御影様に“契約痕は見せるな”って言われてたのに。怒られちゃうな、これ」
軽く肩をすくめ、ゆるりと夜空を仰ぐ。
雲の切れ間から覗いた月光が、その頬を一瞬だけ照らした。
その瞬間――右胸の上に、赤黒く歪んだドクロ紋が淡く浮かぶ。
血のような色に脈打ち、周囲の空気さえ歪める紋章。
それは、彼が死神でありながら“禁忌”へと堕ちた証だった。
「でも、いいや。……太陽と月が日食を起こすように、ボクらはいずれ必ず交わるから」
無邪気な声。
けれどその響きには、底冷えするような確信が滲んでいた。
影は口元を吊り上げ、愉しげに笑う。
「――再会が楽しみだね」
その言葉を最後に、影は黒い霧となって形を失う。
霧は森の闇へと溶け込み、夜気に吸い込まれていった。
残されたのは、不吉な静寂と、風にざわめく木々の音だけ。
月の見えぬ夜が、いっそう深く沈み込んでいく――。




