第十二話「渡したかった想い」
空気を裂くように、黒紫の冥波が差し込んだ。
教室全体が電流を浴びたように震え、光は一瞬で濁色に染まる。
「っ……!?」
緋音は思わず身を竦ませ、胸を押さえた。
結翔の目に怯えと怒りが混ざり、輪郭がぐらりと歪む。
黒紫の冥波が教室にじわじわと染み込み、夕陽の光をかき消していく。
窓際の影が逆さに揺れ、黒板の「またあした」の文字さえも滲んで崩れた。
「……どうせ、笑われるだけだよ」
不意に響いた声。
無邪気で、残酷な歌声のようだった。
緋音は息を呑み、顔を上げる。
その瞬間――黒紫の霧の中に、人影が浮かぶ。
フードを深く被った黒装束。
表情は闇に沈み、輪郭さえ揺らいでいる。
「約束なんて、守られやしない。裏切られるのがオチなんだ」
結翔の目が大きく見開かれ、心を抉られる。
「ちがっ……でも……!」
否定しようとした声は震え、霊核にぱきりと黒いひびが走った。
「やめてっ!」
緋音は叫ぶ。だが声は冥波の濁流にかき消され、結翔には届かない。
彼の体から黒い霧が噴き出し、編みかけのマフラーの糸がどす黒くねじれて蠢いた。
十六夜の瞳が険しく揺れる。
「……この波長……!」
胸の奥に刻まれた記憶を抉る響きに、動揺を隠せない。
瑞響は義眼を細め、符に淡々と記録を刻む。
「干渉元――外部の冥波。……正体不明」
緋音は必死に手を伸ばした。
「ちがう! 君は裏切ってない! 約束は壊れてない!」
けれどその言葉は届かない。
結翔の瞳は黒紫に濁り、魂が邪魂へと変わりかけていた。
黒霧の奥、フードの影がわずかに笑った。
黒紫の霧が渦巻き、結翔の身体は軋むように歪んでいく。
瞳は濁り、声は怒りと絶望に変わりかけていた。
「……どうせ、僕なんて裏切り者だ……! 颯真だって結局、僕のことなんてどうでもよかったんだ!」
叫びと共に霊核のひびが広がる。
緋音は必死に叫んだ。
「ちがう! 君は……!」
その声は冥波の濁流に飲まれ、届かない。
十六夜も式符刀を構えるが、瞳には迷いが揺れていた。
瑞響の符は震えを記録し続け、冷徹に状況を告げる。
「魂、臨界――邪魂化まで残りわずか」
結翔の体から噴き出した黒紫の霧は、編みかけのマフラーを媒介に“鎖”の形をとる。
ガシャン、と金属の軋む音を響かせながら床や壁を叩きつけ、机や椅子を容易く砕いていった。
「くっ……!」
緋音は思わず後退したが、鎖は生き物のように唸りを上げて迫る。
机を巻き込み、粉々に砕き散らしながら彼女の腕へと絡みつこうと伸びる。
「下がって!」
十六夜が駆け出す。
夜色の冥波を帯びた式符刀が閃き、鎖を一閃。
鋭い衝撃音とともに黒鎖は弾け飛び、破片が床に触れると黒煙を上げて消滅した。
だがすぐに次の鎖が噴き出す。
今度は天井を貫き、瓦礫を雨のように降らせて襲いかかってきた。
「しつこい……!」
十六夜は身を翻し、椅子を蹴って跳び上がる。
宙で刃を振り抜くと、光の軌跡が鎖をまとめて断ち割った。
破片が火花のように散り、瓦礫とともに床に叩きつけられる。
けれど、結翔の胸のひび割れからは止めどなく黒紫の霧が噴き出していた。
鎖は次々と再生し、空気を圧迫していく。
「止まらない……!」
十六夜の瞳に焦りが揺れる。
緋音は胸を押さえながらも、一歩前へ出た。
「……ちがう! 君は裏切ってない! 本当は……渡したかっただけなんだよ!」
叫んだ瞬間、緋音の指先から黎明色の光がほとばしる。
朝焼けのような光は鎖に触れ、ジュッと音を立てながら黒霧を薄めた。
結翔の瞳が一瞬だけ揺らぎ、濁りが晴れる。
「……ぼく、は……」
その隙に十六夜が駆け込み、残った鎖を一閃で断ち切る。
緋音を背に庇い、鋭く声を落とした。
「無茶をするな! 制御できてないんだ、君の力は!」
「でも……放っておけない……!」
膝が震え、呼吸も荒い。
それでも緋音の瞳には、諦めない光が宿っていた。
* * *
校舎の渡り廊下を、ひとりの少年――颯真が歩いていた。
腕には、小さな花束。
彼はあの事故以来、毎月一度だけこの場所を訪れている。
誰もいなくなった“秘密基地”に花を添え、静かに手を合わせるために。
それは、忘れないための約束のようなものだった。
夕陽が差し込む窓の外、雪の残骸がまだかすかに白く光っている。
その光を眺めながら歩いていた颯真は、ふと足を止めた。
「……なんだろ」
心臓がざわつく。
廊下の突き当たり――古い教室の扉の隙間から、淡い光が漏れていた。
思わず手を伸ばす。
扉は、きしみひとつなくすっと開いた。
その瞬間、胸の奥で懐かしい声が響いた気がした。
――「渡したかった」
震える囁きが、花束を抱く腕をぎゅっと強くさせる。
ガラリ、と音を立てて扉が開く。
緋音と十六夜の動きが止まった。
「……っ!」
濁りに沈んでいた結翔の瞳が、はっと揺れる。
そこに立っていたのは、花束を抱えた颯真の姿だった。
息を切らしながら、それでも真っ直ぐに微笑んでいる。
「――そのマフラー、見せに来てくれたんだね」
その言葉は、黒紫の冥波さえも揺るがすほどに優しく、力強かった。




