第十一話「編みかけの約束」
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放課後の旧準備室は、夕陽が差し込むと黄金色の箱のように輝いた。
誰も使わなくなった机と椅子が並び、窓際の棚には割れた花瓶や古い譜面が積まれている。
けれど、その中に二人が置いた折り紙や小さな落書きが、少しずつ“秘密基地”の色を作っていた。
「ほら、これ見て。昨日より上手く折れたんだぞ」
颯真が紙飛行機を指先でつまんで、ひょいと投げる。
風を切るように教室を横切り、窓の隙間から差す光の帯の中をくるくると回った。
結翔はそれを目で追いながら、口元をわずかにゆるめる。
「……本当に飛んだ」
「当たり前。オレ、風の読み得意なんだ」
颯真は胸を張って笑った。
その無邪気な声が、静かな部屋の空気をやさしく震わせる。
結翔は机の上の毛糸玉を手に取り、指先で糸を撫でた。
「……ねぇ、あのとき、笑わなかったの。どうして?」
突然の問いに、颯真は少しだけ首を傾げる。
「笑う理由がなかったから。だって、すげぇと思っただけだし」
「すごい?」
「うん。糸って、こんなに細いのに、ちゃんと形になるだろ? それ作れるの、ちょっとカッコいいじゃん」
その言葉に、結翔の喉が小さく震えた。
「……カッコいい、なんて言われたの、初めてかも」
「なら、オレが一番乗りだな」
颯真はにっと笑って、机の上の毛糸を指先でつついた。
「なあ、これ……また編んでみせてよ。オレもやってみたい」
「え……?」
結翔は思わず顔を上げる。
颯真の瞳は真っ直ぐで、そこに嘘や興味本位の色は一つもなかった。
「教えてくれたら、オレも“作る側”になれるだろ? そのほうが楽しそう」
「……変なの」
「変でもいい。秘密基地は変なことする場所だし」
二人は笑いあった。
その笑い声が重なった瞬間、結翔の胸の奥で何かがほどける音がした。
かつて笑い声は痛みの記憶だった。
でも今、同じ“笑い”がこんなにも温かいものだと、初めて知った。
夕陽が沈みかけ、部屋の光がやわらかい橙に変わる。
机の上で糸がくるりとほどけ、結翔は小さなため息とともに微笑んだ。
「……できたら、見せてもいい?」
「もちろん。楽しみにしてる」
颯真はそう言って、黒板の端にまたチョークで文字を残す。
――『またあした』。
粉が舞い上がり、光の粒のように揺れた。
それは約束というより、“今日もここで一緒に笑えた”という印だった。
***
その日の放課後、秘密基地には冷たい風が吹き込んでいた。
窓の隙間から入り込む空気は少しひんやりしていて、けれどその中に漂うチョークと毛糸の匂いが、いつも通りの安心を運んでくる。
「もうすぐ冬休みかぁ」
颯真が窓の外を眺めながらつぶやいた。
夕陽が沈みきるころ、空の端が薄い群青に染まりはじめている。
結翔は机の上で毛糸を巻きながら、そっと笑った。
「休みになったら、ここ来れなくなっちゃうね」
「うーん、たしかにな。……あ、でもオレ、冬休み中に誕生日あるんだ」
「えっ、そうなの?」
「うん。二十四日。クリスマスとほぼ一緒」
「いいなぁ……」
結翔の指先が、毛糸の端で止まる。
少し考えたあと、声を潜めるように言った。
「……じゃあ、その日に何か作ってあげようか?」
颯真が驚いたように目を瞬かせる。
「作るって……また編み物?」
「うん。……まだ下手だけど」
「いや、嬉しいよ。……オレ、世界でひとつだけのプレゼントもらえるんだな」
颯真の声にはからかいも照れもなく、ただ真っすぐな喜びが混じっていた。
その響きに、結翔の胸の奥がぽっと熱を灯す。
「約束だよ」
「うん。約束」
二人は軽く拳を合わせた。
その音は、小さくても確かに響いた。
***
窓の外では、空気が透き通るように冷えていた。
夜の始まりを知らせる一番星が瞬き、部屋の中に差し込む橙の光がゆっくりと薄れていく。
結翔は少し迷ってから、机の端に置いてあったチョークを手に取った。
颯真が書いた『またあした』の隣に、小さな字でひとつだけ言葉を添える。
――『約束』。
白い粉が落ちて、光を反射する。
それを見て、颯真は少し笑った。
「……いい字だな」
「下手でも、気持ちは本物」
「うん。オレも、ちゃんと受け取る」
その瞬間、窓の外で風がひゅうっと鳴った。
二人の髪が揺れ、チョークの粉が夜気の中を舞う。
***
誕生日の朝。
雪は夜明けからしんしんと降り続けていた。
吐く息はすぐに白く凍り、街全体が深い静寂に包まれている。
結翔は厚着の袖の中で、小さな包みを大事そうに抱えていた。
中には、不格好ながら心を込めて編んだマフラー。
「今日は絶対に渡すんだ」
胸の奥でその言葉を何度も繰り返しながら、雪を踏みしめて歩いていく。
***
秘密基地へ向かう途中、立ち止まって包みを開けた。
編み目は歪んでいる。それでも、颯真のために仕上げたその布はどこか誇らしく見えた。
(……喜んでくれるかな)
期待と不安が胸の奥で交互に波を立てる。
――その頃、颯真は。
病室の窓から、同じ雪空を眺めていた。
高熱で布団から出られず、ただ「ごめん」と心の中で何度も呟く。
約束の場所に行けない自分を責めながら、窓を叩く雪の音に耳を塞いでいた。
***
けれど、結翔はその事実を知らない。
ただ一人で、雪深い道を秘密基地へと向かっていた。
小さな背中は、降り積もる白にかき消されるように遠ざかっていく。
雪はさらに勢いを増し、世界は白一色に塗りつぶされた。
彼の足跡だけが、一本道のように雪面に刻まれている。
「……寒い……」
吐く息がすぐに凍りつき、頬は赤く、指先は痛みを通り越して感覚を失っていく。
それでも結翔は、胸の包みをぎゅっと抱きしめ、歩みを止めなかった。
(もうすぐだ……もうすぐ、渡せる……)
そう思った、その瞬間だった。
――ゴゴゴ、と大地が低く唸る。
山肌が裂けるように音を立て、上方から白い壁が迫ってきた。
「……え?」
次の瞬間、雪崩は怒涛のように押し寄せた。
視界は真っ白に埋め尽くされ、冷たさと重みが全身を押し潰す。
掴もうと伸ばした指先は空を切り、包みが雪に弾かれて遠ざかっていく。
――まだ、渡してないのに。
――約束を、守れてないのに。
胸の奥で最後に燃えたのは、悔しさと願いだった。
その想いを抱えたまま、結翔の小さな身体は雪に呑まれていった。
***
――渡したかった。
――でも、渡せなかった。
その記憶が緋音の胸に突き刺さる。
心臓がぎゅっと縮み、視界の奥が滲んでいった。
雪に呑まれる直前に伸ばした手。
冷たさ、痛み、悔しさ。
「まだ伝えてない」という後悔が、魂を現世に縛りつけていく。
光景が途切れても、その声だけが緋音の胸に残った。
――「渡したかった」
その震える囁きが、心臓をひっかくように響く。
「っ……」
緋音の瞳に熱い涙がこみ上げ、視界がじんわり滲んだ。
胸の奥に流れ込む少年の痛みが、あまりにも真っ直ぐすぎて呼吸が乱れる。
(……こんなにも、苦しかったんだ……)
頬を伝う涙は、自分のものか、結翔のものか分からなかった。
ただ一つだけ確かだった――
この「渡せなかった後悔」こそが、少年を縛りつける“未練の核”だということ。
***
背後で、十六夜の低い声が静かに響く。
「……これが、魂を留める鎖だよ。触れれば触れるほど、痛みも強くなる」
瑞響は淡々と筆を走らせた。
「未練の固定化を確認。……対象の魂、縛着度合い:深刻」
緋音は涙を拭おうともせず、結翔をまっすぐに見つめ続けた。
「……絶対に、放さない。私が……必ず導くから」
結翔の指先は、編みかけのマフラーに触れられないまま宙をさまよっていた。
その姿があまりに切なくて、緋音の胸がきゅっと痛む。
「……渡したかったんだよね」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど震えていた。
結翔の影が揺れ、目を伏せる。
「でも……できなかった。守れなかったんだ。約束……」
緋音は一歩近づき、膝を折って目線を合わせた。
涙に滲む視界の中で、それでもまっすぐに彼を見つめる。
「……守れなかった約束でも、君が渡したかった気持ちは本物だよ。
“好き”とか、“大事”とか……そういう気持ちは、きっと相手に届いてる」
言葉に呼応するように、緋音の胸元で黎明色の光が淡く脈打った。
その光は指先へと流れ、そっとマフラーの端に触れる。
淡い輝きが布に溶け込み、未完成の編み目を優しく照らした。
結翔は驚いたように瞳を揺らし、そしてかすかに笑った。
「……ほんとに、届くかな」
「うん。だって、その気持ちを誰よりも大事にしてるのは――君自身だから」
光が結翔の輪郭を包み込み、揺れていた影が静かに整っていく。
足元の霧が晴れ、教室の空気が澄み渡った。
結翔は光の中で立ち上がり、編みかけのマフラーを見つめながら小さく呟く。
「……ありがとう」
その言葉とともに、身体が淡い粒子となって空へ舞い上がった。
笑顔を残したまま、光に溶けて消えていく。
***
――静寂。
けれどその静寂は、もう哀しみではなく穏やかな余韻だった。
緋音は涙を拭い、小さく息を吐く。
「……よかった」
背後で十六夜が静かに頷き、瑞響は符に筆を走らせながら呟いた。
「適性、確認。黎明色の波長……記録します」
その瞬間、教室に漂う空気がぴたりと張りつめた。




