第十話「編みかけの想い」
『……ごめん。約束、守れなかった』
その声が胸の奥に触れた瞬間、心が沈む音がした。
喉が詰まり、指先に冷たい汗がにじむ。視界の端はじんわりと滲み、耳の奥では脈打つ鼓動がうるさいほどに響いた。
「……聞こえる?」
十六夜が小さく問いかける。その声は緋音を試すようであり、同時に支えるようでもあった。
「……うん。すごく……悲しい声」
緋音は胸に手を当て、かすかに震える声で答える。
瑞響は義眼を淡く光らせ、符にさらりと筆を走らせた。
「魂波形、安定度は低下。未練の残留――中級相当」
緋音は一歩踏み出そうとして、すぐに足を止めた。
少年の姿は薄く、触れようとすればそのまま霧散してしまいそうだった。
けれど――その小さな背中は、どうしようもなく「助けを求めている」ように見えた。
(……怖い。でも、逃げちゃだめ。これが――わたしの、最初の仕事だから)
震える指先を胸の前で重ね、緋音は深呼吸をした。
目の奥に宿る光が、夕陽の赤と溶け合う。
恐る恐る一歩前へ出て、腰を落として少年と目線を合わせる。距離を縮めても、彼の輪郭は切なげに震える。緋音の声は自然と柔らかくなった。
「……大丈夫。もう一人じゃないから。ねぇ、君の名前、教えてくれる?」
少年は驚いたように顔を上げ、か細い声が教室の静寂を破った。
「……結翔。ぼく……結翔っていうんだ」
その名を聞いた瞬間、緋音は胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。
「結翔くん……」
名前をそっと呼ぶ声は、揺らぐ魂を包むように優しかった。
「……あの日、渡すはずだったんだ。友達に……これを」
視線は机の上の古びたカバンへ向かう。編みかけのマフラーに伸ばした手は、ただ空気を切るばかりで、指先は糸に触れられない。
震える声は途切れ、輪郭がかすかに乱れる。
「笑われたくなくて……でも、どうしても渡したくて……」
緋音は首を振って、作り笑いではなく、そっと微笑んだ。
「笑ったりしないよ。そんなの。だって……それはすごく大切な気持ちだから」
その声に呼応するように、緋音の指先で淡い黎明色の光がちらりと揺れた。光はほのかな温度を帯び、マフラーの端にふっと触れる。背後で十六夜が小さく目を細める。
「……約束、か。重いものだね」
瑞響は無機質に説明を重ねる。
「未練の核、対象は編みかけのマフラー。観測記録に残す」
その言葉と同時に義眼の光がわずかに強まり、緋音には気づけないまま、冷徹な観測が続けられていった。
――その声とともに、緋音の意識は静かに記憶の中へと沈んでいった。
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ストーブがチリチリと鳴り、こたつの中で世界が小さく閉じていた。
外では風が鳴いているのに、この部屋だけは穏やかで、時間の流れがゆるやかだ。
毛糸の匂いが、湯気のように空気に溶けていく。
橙色のランプが壁にやさしく揺れ、フローリングの木目を金色に染めていた。
その光は、まるで“ぬくもり”という言葉が形になったみたいだった。
「ねぇ、おばあちゃん、それなぁに?」
結翔の声は、こたつの中で丸く響く。
「編み物っていうんだよ」
老婆は目尻にしわを寄せ、柔らかく笑った。
「こうして糸を編んでいくとね、心まであったかくなるんだよ」
編み棒の先がチクチクと糸をすくい上げるたび、
金属のかすかな音がリズムを刻む。
それは、この部屋だけで流れている小さな音楽のようだった。
「……ぼくも、やってみたい!」
結翔が目を輝かせて身を乗り出す。
「うん、いいよ。焦らなくていいからね」
老婆の手がそっと添えられる。
しわだらけなのに、信じられないほどあたたかい掌。
指と指が重なり、二人で糸をたぐる。
毛糸のざらりとした感触。
小さな指に伝わる“生きている温度”。
「ほら、上手になってきたよ」
老婆の声がやさしく響く。
結翔の胸の奥に、ぽつりと火が灯ったような感覚が広がった。
糸が少しずつ布の形を帯びていく。
不格好で、目は不揃い。だけど、それでも確かに“何かを生み出す”形だった。
「すごい……できた……!」
結翔の瞳がランプの光を映して、きらりと輝いた。
「ふふ。ほらね、心も一緒に編まれていくんだよ」
その言葉が、ゆっくりと心の奥に沈んでいく。
結翔は出来上がった小さな布を両手で包み込んだ。
毛糸の温度が掌に残り、消えない。
(……これが、“あたたかい”ってことなんだ)
――その瞬間、緋音の胸の奥に光が差し込んだ。
目を閉じると、こたつのぬくもりや毛糸の匂いが、まるで自分の記憶のように広がっていく。
これが、結翔にとっての“最初の光”。
淡い黎明色の粒子が緋音のまわりに漂い、記憶の世界をやわらかく照らした。
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冬の朝の光は白く、冷たかった。
教室の窓ガラスには霜が張りつき、吐く息がすぐに曇る。
結翔は手の中の小さな布切れを大事そうに抱えていた。
おばあちゃんと一緒に編んだ、世界でひとつだけの布。
(……見せたい。きっと、すごいって言ってくれる)
胸を高鳴らせて机を離れる。
指先がわずかに震えるのは、寒さではなく緊張のせいだった。
「ねぇ、これ……ぼくが作ったんだ」
小さな声で差し出す。
布の端が光を受けてやわらかくきらめいた。
その瞬間――。
「えー!? 男のくせに編み物ぉ?」
「女の子みたい!」
笑い声が爆ぜた。
甲高い音が、氷を割るように教室の空気を裂いた。
時間が一瞬止まった気がする。
次の瞬間、笑いが雪崩のように押し寄せた。
乾いた机の音、椅子のきしみ、鉛筆が転がる音――
それらが冷たい笑い声にのみ込まれていく。
「ちがっ……そんなつもりじゃ……!」
声が震える。けれど、誰も聞いていない。
笑い声はどんどん近づき、鼓膜を刺すように響く。
手の中の布がひらりと落ちた。
拾おうとした瞬間――靴底がそれを踏みつける。
「うわ、汚れたー!」
笑い声。
踏まれた布の上で、泥がじわりと広がっていく。
胸の奥が、音もなく裂けた。
(見せなければよかった……)
指先が冷たい。
手の甲が震える。
呼吸をしようとしても、喉が塞がって空気が通らない。
その瞬間、緋音の胸にも冷たい衝撃が走った。
目の奥が痛む。心臓の奥で、同じ言葉が響く。
(――“女の子みたい”)
たった一言が、世界の色を奪う。
結翔の瞳から、あのこたつの温もりがすうっと消えていった。
泥の中で、布は小さく震えながら光を失っていく。
笑い声だけが、いつまでも耳の奥で反響していた。
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放課後の学校は、世界から音が消えたように静かだった。
薄曇りの空を夕陽が割り、廊下の窓に淡い橙の光が流れ込む。
音楽室の裏――今は使われていない旧準備室。
誰もいないその部屋を、子どもたちは“秘密基地”と呼んでいた。
けれど今、そこにいるのは結翔ひとりだけだった。
机の上には、泥のついた小さな布切れ。
昼間、踏まれて汚れたそれを、どうしても捨てられずに抱えてきた。
(……もう、誰にも見せない)
こたつの温もりを思い出そうとしても、
胸の奥には冷たい風しか吹かなかった。
膝を抱えたまま、息を潜める。
世界から自分だけが取り残されたような静けさがあった。
――キィ、とドアが鳴る。
「……ここにいたんだ」
声に振り向くと、逆光の中に立っていたのは颯真だった。
夕陽の光が彼の髪を縁取り、風のように優しい笑みが浮かぶ。
「先生、探してたよ。……っていうか、オレも心配してた」
結翔は小さくうつむいた。
足元の床に、淡い光が長く伸びている。
「……べつに、なんでもない」
「なんでもなくない顔してるけどな」
颯真は笑いながら、ゆっくりと歩み寄る。
ポケットからチョークを取り出し、黒板の隅に何かを書きつけた。
――『またあした』。
チョークの粉が夕陽に照らされて、金色に舞った。
「ほら。明日になったら、きっといい日になる」
結翔は顔を上げたまま、かすかに首を傾げる。
「……どうしてそんなこと言えるの」
「うーん、そう思ったほうが、少しだけ楽だから。オレもよく逃げこむんだ、ここ」
颯真はそう言って、机に腰をかける。
「誰にも見つからない場所って、いいよな」
その一言に、結翔の胸の奥で何かが小さく揺れた。
――“自分だけの世界”じゃなかったんだ。
「……颯真くんも、ここに来るの?」
「うん。オレの秘密基地、って思ってたけど……今日から二人のでもいい?」
結翔は少しだけ驚いて、それから小さく笑った。
「……いいよ」
颯真は満足そうに頷く。
「じゃあ決まり。……また、あしたね」
黒板に書かれた白い文字が、夕陽に溶けながらやわらかく光っていた。
――この日、結翔と颯真の“秘密基地”が生まれた。
その記憶の光が、緋音の胸の奥で静かに脈打っていた。




