第九話「現世到着」
水晶塔の前に立ち、緋音はごくりと息を呑んだ。
透明な巨塔が天まで伸び、闇と光を映す――境界路そのの表面には、冥界の闇と現世の残像が交互に滲んで揺れている。
淡い脈動に合わせて、塔の奥から低く鈴のような響きが伝わってきた。
「……これは?」
思わず声を落とす緋音。胸の奥がざわついて、手のひらに汗が滲む。
「これは“境界路”。冥界と現世を繋ぐ道だ。僕ら死神は、ここを通って任務に出る」
十六夜が短く答え、胸元の命核に手を当てる。金色の瞳がわずかに光を帯びた。
「補足。正式名称《境界塔》。……記録上、こちらを採用」
瑞響が無表情のまま義眼を瞬かせ、さらりと付け加える。
「えっ、塔……? なんかすごい響きだね」
緋音は思わず声を上げるが、十六夜は肩をすくめる。
「まぁ、僕らは普段“境界路”って呼んでるけどね」
「通称の使用は非公式記録に限ります」
「そこまで厳密なの!?」
「道って……本当に通れるの? なんか、飲み込まれそうなんだけど」
緋音は一歩引き、塔の表面に映る自分の姿に息を呑む。そこにはわずかに揺れる魂の輪郭が映り込んでいた。
「初回利用時の不安、正常な反応。緊張による冥波の乱れ、記録します」
瑞響が無表情のまま符を取り出す。指先が光り、符に文字が浮かんでは沈む。
――その記録は“呪い”のように静かに刻まれていった。
「えぇ!? そんなとこまで残さなくていいから!」
思わず声を上げる緋音に、瑞響は淡々と首を傾げる。
「……記録は冥界資産です」
「まぁ、瑞響はそういうやつだから。多めに見てやって」
十六夜が小さく吹き出し、肩をすくめる。
「そ、そんなこと言われても」
十六夜はまだ笑みを残したまま、静かに瞳を閉じた。
胸元の命核が淡く脈打ち――水晶塔の表面に波紋が走る。
扉が音もなく開き、霊子の光に満ちた小部屋が現れた。
足元は水面のように揺らぐ石畳。
踏み込むたびに淡い波紋が広がり、光の粒が弾ける。
壁は半透明に透け、冥界と現世の光景が交互に滲んで揺れていた。
頭上には裂け目のような闇が広がり、星の残影や光る粒子が静かに漂う。
「……きれい……」
一瞬だけ、恐怖を忘れて緋音の瞳に驚きが宿る。
けれど次の瞬間、足元がわずかに波打った。
「わ、わっ……! 落ちそう!」
緋音は思わず足をすくませ、壁に手をついた。
視界の端で石畳が波打ち、底なしの闇に飲まれそうな錯覚に胸がざわつく。
手のひらに汗が滲み、心臓がいやに早く打ち始める。
十六夜は振り返り、小さく笑った。
「大丈夫。ちゃんと足はつくから、落ちたりしないよ」
軽やかに言い添えると、安心させるように手を軽く差し出す。
「揺れないから酔わないし……まぁ、初めてだと少し息苦しいかもしれないけど」
「息苦しい……っ、え、ええ!?」
緋音が慌てて深呼吸する姿に、十六夜は小さく肩をすくめた。
その横で瑞響は無表情のまま義眼を瞬かせ、記録用の符をさらりと走らせる。
「霊波の同期に微弱な乱れ。……記録します」
「ちょ、そんなの記録しなくていいでしょ!」
「初回データとしては有用です。……緋音さんの反応、特異でしたので」
「追撃しなくていいからぁぁ!」
やがて床から光が満ちあがり、三人の身体をやわらかく包み込む。
重力感覚はなく、ただ“魂ごと光に抱き上げられる”ような浮遊感が広がる。
耳の奥がツーンとし、胸の奥が一瞬“裏返る”ようにひやりと震える。
魂そのものが光に撫でられている――そんな錯覚に緋音は小さく息を呑んだ。
耳鳴りが遠のき、胸に響くのはただ自分の鼓動だけ。
次の瞬間――。
闇が音もなく裂け、目の前に現世の光景が広がった。
光が弾け、三人は静かに足を踏み出す。
境界路の扉を抜けた先は――夕暮れに染まる、ひとつの教室だった。
目の前に広がっていたのは、夕暮れの光に包まれた教室。
窓から差し込む橙の光は、長い影を床に落とし、机と椅子の列を淡く照らしている。
けれど空気は妙に冷たく、誰もいないはずなのに、どこかで子どもの笑い声が反響している気がした。
黒板の隅には、白くかすれた文字が残されていた。
――「またあした」。
それだけの言葉が、時を止めたかのように静かに教室を縫いとめていた。
「……すごい……」
緋音は小さく息を呑む。胸の奥がざわつき、肌をかすかに粟立たせる。
今ここにあるのはただの空間のはずなのに――魂の未練が、空間全体に痕跡を刻んでいた。
十六夜が緋音の横に並び、静かに告げる。
「ここは彼らの“秘密基地”だった場所。魂の想いが濃いほど、こうして残滓として空間が浮かび上がる」
緋音の視線が、空気中に漂う小さな光の粒に留まった。
「……星みたい」
十六夜は小さく頷き、その粒を指先で掬う。
「霊子だよ。魂を形作る一番小さな粒子。未練が強い場所ほど、濃く集まる」
瑞響は義眼を瞬かせ、淡々と補足する。
「死神の体も、すべて霊子で構成されています。人間とは構造そのものが異なる。……記録します」
「えっ、じゃあ……十六夜くんも、瑞響さんも……」
「そう。僕らは“霊子の器”なんだ」
十六夜はさらりと返し、緋音の胸にひやりとした驚きが広がる。
瑞響は一歩進み、義眼を淡く光らせた。符を取り出し、さらさらと筆を走らせる。
「霊波濃度、通常値の三倍。未練の定着強度……高い。記録します」
緋音は思わず机の列を見渡した。
整然と並んでいるはずの椅子が、どれも少しずつ角度を違えている。
まるでそこにいた子どもたちが、途中で立ち上がった瞬間をそのまま閉じ込められたかのようだった。
胸の奥でざわめく鼓動。
それは緊張だけじゃない――誰かがまだ、ここにいる。
前列の机の上に置かれた古びたカバン。
その口から、編みかけのマフラーが少しだけはみ出していた。
ほつれた糸が微かに揺れ、夕陽に照らされて赤く淡くきらめく。
見ているだけで胸が締めつけられるような、そんな静かな光景だった。
ふいに、教室の空気がひやりと震えた。夕陽の光が一瞬揺らぎ、影がわずかに歪む。緋音の胸に、確かな気配が触れてくる。かすかな声が、心の奥底に届いた。
『……ごめん。約……く、守……なかっ……』
その囁きが刺さった瞬間、胸にずしりと重みが落ちる。緋音は咄嗟に息を詰め、手を胸元に当てた。心臓が早鐘を打つ。十六夜は静かに目を細め、唇を震わせずに低く呟く。
「……確かにいるね」
瑞響は義眼を淡く光らせ、手元の符に淡々と記録を刻む。
「魂波形、安定度低下。未練が強い」
教室の中央に、ふわりと霊子が集まり始めた。
淡い光の粒が空中で輪を描き、やがて一人の少年の姿がゆっくりと浮かび上がる。
制服姿の影は俯きがちで、輪郭はいつ消えてもおかしくないほど薄く揺れている。足元は霧に溶け、まるで自分の場所をつかめずにいるようだ。
――“迷子の魂”。緋音の胸に、そんな言葉が浮かんだ。




