プロローグ『月光の照らす場所で』
初めまして、兎月心幸です。
今日から連載を開始しますので、何卒よろしくお願いします。
“死神”――その名を聞いて、人は何を思い浮かべるだろうか。
鎌を振るい、黒いローブに身を包む骸骨。
魂を刈り取り、恐れと終わりの象徴として語られる冷酷な存在。
だが、この世界における死神は少し違う。
魂の最期に寄り添い、その想いを受け止め、成仏や転生へと導く“魂の案内人”。
未練を抱え、彷徨う魂の声に耳を傾ける者――それが冥界に生きる“死神”だ。
――チリン。
星屑のような鈴の音が、空間を揺らめかせる。
魂の来訪を告げる、導きの音色。
「……」
その音に応じ、ゆっくりと少年が顔を上げた。
読みかけの書物に指を挟み、静かに閉じる。その手元から金の粒子がふわりと広がった。
彼が佇むのは“応接室”と呼ばれる静謐な空間。
和紙張りの壁には星を模した金糸の紋様が浮かび、古い洋風の燭台がかすかな明かりを灯す。
天井から吊るされた無数の銀鈴が、空気のわずかな揺れに応じて微かに鳴った。
星屑の刺繍が施された敷布には、魂の気配に呼応するように淡い粒子が浮かんでいる。
ひんやりとした空気には、懐かしい墨と香の匂いが混じっていた。
黒を基調とした外套が静かに揺れ、夜色の髪が星明かりを受けて朧げに光る。
月光を閉じ込めたような金色の瞳が、微かに揺らいだ。
彼の名は、十六夜。
冥界の片隅――生と死の狭間《霊境》に存在する、《死神相談所》の所長である。
ここは、魂の終着点。
成仏も転生もできず、想いに縛られた魂が辿り着く場所。
心に残された“声”を、誰かに届けるための――最後の止まり木。
十六夜は、その声に耳を傾ける者だ。
刃ではなく言葉で。力ではなく想いで。
魂が“自分の結末”と向き合えるように、寄り添い続ける。
右鎖骨下には金色に輝く死神の証、ドクロ紋が浮かび、魂の波長に共鳴して淡い粒子が輪のように舞う――
「十六夜様。相談者の魂が、来訪しました」
静けさを乱さぬ声に振り向くと、白を基調とした文官装束の死神・瑞響が立っていた。
灰色の髪に、片方だけ覗く淡い蒼の義眼。
その容姿から性別は判断できず、声もまた中性的だった。
紙片を手にした右手の甲にはドクロ紋が浮かんでいた。
銀のような透明な光が、空気の中に紛れるように微かに揺れ、その存在が“死神”であることを物語っている。
「あぁ、そうみたいだね……迎えに行ってあげようか」
十六夜が立ち上がると、装束の鈴が小さく揺れ、魂の波長に共鳴して澄んだ音を立てた。
「さて、今回の魂は――どんな未練を抱えているのかな?」
* * *
……声がした。
柔らかくて、どこか寂しげで、それでも優しい――そんな声。
まるで夢の途中で名前を呼ばれたような、不思議な感覚。
――眠っていたはずだった。
けれど、まぶたを透かす光も、耳に届く音も、現実とは思えなかった。
目を開けると、視界を埋め尽くすのは透き通る白い霧。
静寂とともに立ち込めるそれは、世界そのものが霞んでいるかのようだった。
だがその白は雪のように優しくはなく、触れれば形を失う“何か”の気配を孕んでいる。
気づけば、暁星緋音は知らない場所にひとり立っていた。
空気は静まり返り、微かな甘い香りが漂う。
鼓膜に響くのは自分の呼吸と、遠くでかすかに揺れる鈴の音だけ。
肌を撫でる空気は冷たくも温かくもなく、感情そのものが抜け落ちたような無垢な空間だった。
(……ここ、どこ? どうしてわたし)
足元の石畳に視線を落とすと、胸の奥に生まれた“揺らぎ”が波紋のように広がる。
(誰かに、助けてって……言っても、いいのかな)
寒さも痛みもない。ただ、心にぽっかりと穴が空いた虚ろさだけが残る。
白い霧がゆらゆらと漂い、足元の石畳が微かに光を返す。
見上げれば、星ひとつない夜空のような闇が空間を覆っていた。
ここがどこなのかも、自分がどうやって来たのかもわからない。
だがこれが現実ではないことだけは分かった。 ――怖かった。
不安で、不確かで、自分の存在が宙に浮く感覚。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(……誰も、いない。声を出しても、きっと誰にも届かない)
諦めが、知らないうちに心に染みついていた。
喉が詰まり、声が出ない。
「ようこそ、死神相談所へ」
静寂を破るように、優しい声が届いた。
夜の帳をすくい上げるような、静かであたたかな声。
不思議と、その響きは胸の奥にそっと触れてきた。
冷え切っていた心に、小さな灯がともる。
初めて聞く声なのに、どうしようもなく懐かしくて――
気がつけば、その声の方へ振り向いていた。
霧が音もなく晴れ、視界が開ける。
それは、彼の存在に応じて退いたかのようだった。
夜と星の狭間から浮かび上がったような建物が現れる。
木造と石造りが融合した和洋折衷の静かな佇まい。
屋根の縁には金の糸が縫い込まれたように光が走る。
背後には霧と星屑が漂い、空間そのものが夢のように滲んでいた。
鈴が風もないのに鳴り、その音が闇に溶けていく――
その扉の前に、ひとりの少年が立っていた。
黒い装束、夜を溶かすような髪、月光のように優しい金の瞳。
その視線がまっすぐにわたしを射抜く。
ゆっくりと、彼が手を差し伸べる。
微笑みはごくわずか。
だが、それはどこまでも静かで、そっと寄り添うやさしさを含んでいた。
右鎖骨下の金色のドクロ紋が淡く輝き、星屑の光が彼の周囲を旋回する。
怖いほど幻想的なのに、不思議と恐怖はなかった。
名前も知らない初めての人なのに、その佇まいは長い夢の終わりに辿り着いた灯のようで――
――あぁ、この人なら。
この人だけは、わたしの声を聞いてくれるかもしれない。
そう思ってしまった。
わたしの声なんて、誰にも届かないと思っていた。
それでももし――届くなら。
この場所でなら、もう一度手を伸ばせるかもしれない。
(……今度こそ、誰かの声に、なれるなら)
目の前に差し出された手を見つめる。
夜の霧を裂くように伸びる白い手は、迷いも痛みもすべて包み込むような温もりを纏っていた。
ためらいながらも――その手を取る。
胸の奥が、ひとつ強く脈打った。
音はないのに、確かに何かが動いた気がした。
怖いはずなのに――その瞳の奥に、自分の居場所を 見つけてしまった。
もしこの手を取れば、もう戻れない。
けれど、戻りたくない。
指先が触れた瞬間、胸の奥の冷たい穴がほんの少しだけ埋まる気がした。
失くしたはずの色が、そっと灯るように。
「キミは、どんな結末をお望みかな?」
静かに、しかし確かに届く問いかけが、沈んでいた想いを浮かび上がらせていく。
「……わたしは――」
次回は明日22時にて更新予定です。
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