第六話
食事を運んできた官吏を力いっぱい殴り気絶させた後は、背負ったものを落とさぬようにしながら、ひたすら人がいない方向へと走った。
隠れる事なくあっけなくも裏口へとたどり着く。
…おかしいな、なぜこんなにも見張りの者がいないのだ…
用心しつつ、裏口の戸を開けると、乗って逃げろと言わんばかりに馬が繋いであった。
丁度いい、これに乗って…
と背に負っていたものを馬へと乗せた時、ふいに私はここに来た日を思いだし、そしてそれと同時に宮廷を仰ぎ見た。
「…柳、どうしたの?」
今しがたまで私の背にいたもの…双樹が馬上から声をかけてくる。
"…宜しく頼みます"
ここに来た時、帝は確かに、私にそうお声をかけたもうた。
私は、仰ぎ見た窓の一つに、人影を見た気がしたが、それが誰であるのかを確かめようもなく、追っ手が来ぬうちに、と馬を走らせた。
「双樹、落ちるなよ」
「うん。胸針もきちんと持ってるよ。ところで、柳、どこに行く?」
「そうだな…君を故郷まで送り届けようか?」
「…でも私、自分の里の場所、はっきりとは覚えていないよ」
「何!?…いや、そうか…。では、とりあえず、私のうちに逃げるか」
「大きな柳のある家、だね」
急ぎ馬を走らせ宮廷を後にした……。二度と戻ることがないように祈りながら…。
・・・・・・
食事を運んで行った官吏は、殴られた頭をさすりながら帝の隣へと歩を進めた。そして、並んで窓から、もうほとんど見えなくなっている馬の走った後の土ぼこりを見た。
「殴られたのか…すまぬな」
そう声をかけられた官吏は痛みに顔が歪みそうになるのをこらえつつ、それでも笑った。
「本当にこれでよろしかったのですか?父上」
彼がそう尋ねると、帝はただ頷いた。
「長く生きすぎたのだよ、私は。あの者にも無情なことを強いてきてしまったものだ…」
そう呟いた。
かの少女が連れてこられた当時の官職たちは、太子である息子一人にも”薬”を飲ませていた。
太子は尚書令(文書管理長官)として父を補佐していた。
その官職の者たちが皆還らぬ人となり、事情を知る者がほぼ身内のみとなった頃、自らの生きた長さと、薬壺と呼ばれる少女の在り方を考えた帝は、信頼しているそれなりの立場にある者数名に、密かに尋ねて回っていた。
今までの薬守とは異なる存在となりそうな人物はいないか、と。
すると、将軍の一人から、隊にいる若い武人の柳絮を推挙された。
どうにも生きるのが不器用そうで、武人の癖に人を大きく傷つける事に抵抗を持つ人間だ、と。
とりあえず採用してみるか、しかし、どうやって都に呼び出そうかと思っていたところに、怪我をして武人として前線に立つのが難しくなったために、役を辞すための手続きで都へ出て来ていた。そこを保護したのである。
「さて、体裁だけでも手配書を作らねばならんな」
と気を取り直したように言う父・帝に、太子でありながら尚書令としても仕えている息子は、また笑って答えた。
「名前はそのまま、けれども顔は五代ほど前の薬守の人相書きで手配書を回しましょう。五代前であれば、もうそろそろ良い歳になっておるでしょうし」
それくらい前の薬守であれば、もう命を落としている可能性もある。生きていたとしても、太子の覚えている人相と今の人相では違いすぎてわからぬだろう。ましてや名前が違っていれば、なおの事だ。
「すまんな、太子であるお前にそのような仕事ばかり」
「私は好きでやっているのですよ」
息子の笑い顔を穏やかに眺めた。
お前も長く生きさせてしまったな…、帝のその言葉は発せられることはなかった。
「これは、どうしましょう」
と、太子は小さな薬瓶を掲げ尋ねる。先日、柳が杯で受けた双樹の涙を酒に混ぜた瓶であった。
「庭に若い柳の木があったな…」
帝のその言葉に、太子は微笑みながら、ではその柳の木に、と頷いた。
「…いつか、白い花をたくさん舞わせる木になるだろうね」
帝はまるでその風景が見えるかのように笑った。
・・・・・・
帝の薬壺が"なくなって”から十三年の後。二百年以上に渡った彼の長き世が終った。
帝の死後、太子がその座についた。
生真面目な新しい帝は、位についた時に、父と同じく穏やかな治世を布く事、周辺諸国との同盟、和平の強化を公言したという。
薬壺を盗み出した罪人はついに捕えられることなく、数年後には捜索の打ち切りが決められた。
・・・・・・
この国の片隅に、大きな柳の木がある家があったという。
そこには、なかなか歳をとらない剣術の師範と、更にいつまでも若い奥方が、ひっそりとつつましく暮らしていたらしい。
二人は、庭の柳絮が舞うのを見る時、見事な細工の琥珀の胸針を大事そうに手にしながら見ていた、という噂である…。
-了-