イグレーヌが雨の銀座風の異国を旅する小噺
こちらは「ソロキャンする武装系女子ですが婚約破棄されたので傷心の旅に出たら——?」https://ncode.syosetu.com/n6907if/の主人公イグレーヌが異国を旅して銀座風の街にやってきた感じの話です。
ファンタジー&歴史&グルメと完全に趣味なので、続編に近いものの雰囲気を楽しんでいただければと思います。
イグレーヌは旅が好きだ。
特に一人旅、一人キャンプとなれば自然とテンションが上がる。王女となってからもそれは変わらず、近衛騎士団長ブレイブリクを介して手順は踏みつつも割合好き勝手に王城の外へ、王都の外へ、国の外へ出ていく。
今回、はるか異国、発展著しい東の島国の都にたどり着いたイグレーヌは、独自の文化が成熟した果てに、さらなる進化を貪欲に求める人々と出会った。
しとしと降る雨は旅情をより深くし、見慣れない風景でありながら祖国の建築様式に似通った部分を見つけては、イグレーヌは軽く感嘆する。
赤煉瓦の道は車道と歩道に分かれ、ガス灯が雨天の暗がりをほのかに照らす。道沿いにはマロニエが植えられ、赤煉瓦の洋館風店舗や木造の暖簾がかかった店舗の前で等しく育っていた。
グレーのロングコートに旅行用リュック、柔らかな羊革ブーツと鹿撃ち帽のなかに巻き毛の金髪をしまい込んで、という出で立ちで、イグレーヌは雨夜の都でもっとも栄えた街を歩いていた。
何か目的があるわけでもない、ただの散歩である。この国ではまだ外国人は珍しく、解放されている港付近以外の国内各地——内地には入れないと聞いたので、玄関口である都の繁華街をひとまず歩いているだけだ。内地は自然豊かで、多くの人々が今の時期は雨が降りすぎたり日照りになったりしないよう、その土地の神様に無事の収穫と豊穣を祈っているそうだ。それを見たかったのだが、内地によそ者の外国人が入り込むことをよく思わない官吏たちに止められ、しぶしぶイグレーヌは諦めた。
ここで問題を起こして国外退去、または強制送還されてはかなわない。せっかく首尾よく国を抜け出し、連れ戻されないくらい遠いところまで来たのだ。無事の便りさえ出せばあと一、二年くらい旅をしてもいい、と先日母である女王の許可を得たばかりで取り消されてはたまらないから、問題を起こさないよう大人しく旅をするしかなかった。
旅慣れたとはいえ十七歳の少女、それもこの国では外国人、という人間が目立たないわけもなく、余計なことはできない。だから、散歩だ。背後にお守りのこの国の警察官が尾行してきていることを分かった上で、異国情緒に浸る時間を作り、イグレーヌは傘もささずに雨の中をてくてく歩いていく。
赤煉瓦の道には、ときどき水たまりがあった。どれだけ技術があっても、どれだけきちんと赤煉瓦を並べても、些細な凹みや排水路への接続部分の弱点はどうしても出てしまう。人々はそれを避けながら、蝙蝠傘や紙の傘をさして、小さな声で会話しながら夜道を行く。皆一様にイグレーヌよりはるか年上の紳士淑女で、同じ年頃の少年少女は外に出る時間ではないらしく、ちらちらと遠慮がちに見られていることをイグレーヌは承知していた。不良と思われてはいないだろうが、何事かとは思われているかもしれない。でも、イグレーヌは散歩を切り上げるにはまだ早いと思っていた。
真新しい山高帽がずらりとショーウインドウの棚に並び、その隣にはイグレーヌが見たことのない布生地が長く垂れている。イグレーヌがじっと見たところ、布生地は絹織物で、柄は白地に鮮やかな紅色や黄色、それに沿うように銀色が配置され、川の流れのように生地を大地に見立てている。時折落ち葉や光、波紋も線のシルエットだけ垣間見え、おそらくこれは秋の川辺の風景を生地上に表しているのだとイグレーヌは解釈した。
長い織物に絵画の世界が描かれることはよくあるが、この布生地にはごく限られた色数でそれが表現されている。不思議なもので、たったそれだけの色と線を用いているだけなのに、見たこともない風景のはずなのに、それが『風景絵画だ』と認識できるのだ。イグレーヌの故郷やその近辺なら、もっと派手で重たいビロードに色とりどりの刺繍を施してショーウインドウ全体に広がるほどの誰の目にも明らかな大抒情詩的な絵画を展開するだろうが、こちらはその対極のようだ。
「こういう文化の違いの大きさを感じるのは、旅の醍醐味よね」
ショーウインドウの前で、イグレーヌはうんうんと頷く。この国の美術文化は、引き算の美学を追求しているのだろう。対して、イグレーヌの故郷の美術文化は足し算の美学を追求し、それに飽き足りなくなって、膿んできている。
そうして、双方が遭遇し、衝突し、これから混じり合い、あらゆる場所へ、未来へ影響を与えていくのだろう。そう考えれば、ここはその途中なのだ。歴史という織物の途中にある、これから織り糸が激しく変化していく無数の切り替え地点の一つ。そこにイグレーヌは旅をして通りかかり、偶然にも変化の始めの目撃者となった。
それは誇らしく、同時に衝突によって失われるものへの哀悼を禁じ得ない。
イグレーヌの頭上に降る雨が、突然止む。見上げれば黒い大きな傘が広げられ、イグレーヌを雨粒から守っていた。
黒い大きな傘の持ち主は、イグレーヌの監視役であり、見過ごせなくなってきたお守り役である警察官だ。イグレーヌの隣に並び、サーベルを腰から下げた背の高い警察官は、つたない外国語で声をかける。
「風邪、引きますよ」
「あら、ありがとう」
「まだ帰りませんか」
「もう少し見ていきたいの」
「では、とりあえずカフェへ行きましょう。雨が激しくなります」
「そうね、案内していただける?」
「ええ」
警察官は何かの口実としてカフェ行きを提案したのだろう、と分かっているが、イグレーヌはあえて誘いに乗ることにした。何も、警察官を困らせたいわけではない。ブーツの中まで秋雨に足先を濡らされて、うんざりしていたことも事実だ。
警察官の案内で、道の少し先にあるカフェ——そこは見慣れた文字があるため、イグレーヌでも分かる——へとベル付きの扉を押して入店する。
店の扉の上にある看板には『The Ginza AVE CAFFE』と書かれ、この国ではまだまだ珍しい喫茶店からはコーヒー豆を焙煎した香りが漏れ出ている。
銀座。それがこの街の名前だった。
イグレーヌは健啖家である。泥水と見分けがつかないコーヒーでも飲むし、黒焦げのパンでも食べなくてはならないのなら食べる、旅好きとしては必須の資質を持つ。一歩間違えれば悪食でしかないが、もちろん美味しいものも大好きだ。
つまり、何でも食べるし、たくさん食べる。その小柄な体のどこにカロリーや栄養が吸収されているのか定かではないが、自分はまだ成長期なのだとイグレーヌは信じている。
とはいえ、どの国でも都市部ではそれなりに食べられるものしかないし、食糧難の辺境で食べられるものといえば大体同じである。甘いか辛いか、酸っぱいか塩っ辛いかという味付けの違いはあれども、実のところ大きなくくりで見れば使用素材はさほど変わらないのだ。
あらゆる国の主食の米や麦、芋を使った料理は火を通す食べ物なので、出来上がり次第食べれば腹を壊すことは少ない。毒キノコや毒草、魚や動物の内臓、生水を避ければ、ある程度は危険を回避できる。それはイグレーヌの知識と経験則から導き出された答えであり、そこまでしても結局のところ「どうしようもないときは腹をくくる」しかないのだ。
しかし、この国のレストランは、異国ながらにイグレーヌの故郷文化の食事全般の再現度が高かった。ならばカフェでも、とイグレーヌの期待は膨らむばかりだ。
赤煉瓦壁の店内は少し奇妙だが、濃茶の丸テーブルや椅子はおそらく輸入されたもので、先客は男性ばかりで三、四組ほど、スーツ姿の若者もいれば、落ち着いた色合いの着物姿のご老人もいる。この国の人は黒髪がほとんどで、まれに茶色の髪の人もいるが、生まれつきではなく過酷な環境のせいで髪色が褪せた人足や農漁夫だったりする。少なくとも、この街では黒髪の人間は黒々とした髪をしており、イグレーヌの前の席に座った警察官も帽子を脱ぐと短髪ながら色はごく黒い。あと、愛想もなくとても目つきが悪いため、第一印象はよくなかったことも付け加えておく。
オーダーを取りに来た笑顔のウェイターへ、警察官が一言二言発したのち、イグレーヌへこう問いかけた。
「コーヒーか紅茶、どちらにしますか?」
「コーヒーで。何か温かい食べ物はあるかしら?」
「オムレツでもフリカデレでも」
「じゃあ、その二つをお願い。あなたは?」
一瞬、警察官は聞き間違ったかとでも言わんばかりの驚いた顔を見せた。だが、すぐにイグレーヌの意図を察し、自分のカツレツを追加する。
ウェイターが去ると、警察官はあからさまにため息を吐いた。安堵なのか困惑なのか、イグレーヌはあえて無視する。
この警察官は、イグレーヌがここから南の国際港に上陸して公使館でひとしきり揉めたあとに、イグレーヌの監視役となった人物だ。この国にはイグレーヌの故郷から派遣された外交官はおらず、別の国に公使館業務代行を依頼しているため、言葉は通じても事情は通じないことばかりでどうにもならないかと諦めかけたそのとき、首都から派遣されていた彼がたまたま公使館を訪ねてきたのだ。この国の人間で、警察官で、少しは言葉が通じる、という理由から、かくかくしかじかと有無を言わさずイグレーヌの事情を聞かされ、無理矢理監視役を打診されたわけだ。
その後、一日空けて首都の上司に相談した彼は、新たな外交問題を生まないためにと正式にイグレーヌの短期滞在中の実質的な『監視役』、そして『名目上の護衛』となった。それらの話をイグレーヌへつたなくも伝えようとしているときの彼の顔は、非常に面倒くさそうだったのをイグレーヌは忘れていない。
とはいえだ。真に他人への迷惑を考えるなら、そもそも旅などしないほうがいい。しかも、イグレーヌは完全に私人として異国を旅している。たまたま立場のことを知っている人間に遭遇してしまい、それ相応の振る舞いを求められたせいでややこしい話になってしまったのであって、特別扱いはイグレーヌの望むところではない。
まあ、そんなことはイグレーヌ以外、知ったことではないのだ。
頬杖を突いて疲れた様子の警察官は、鹿撃ち帽の水気を払うイグレーヌへ、低い声で話しかけてきた。
「楽しいですか?」
「ええ。今回、長期滞在許可が下りなかったのは残念だけれど、しばらくしたらまた来るわ」
「そうですか」
「あら、歓迎はしてくれないのね?」
「諸手を挙げて、とはいきません。今回、通訳もすぐには手配できませんでしたし、あなたの本来の身分を考えれば」
「考えなくていいと言ったのは私だから、それはいいの。私は旅好きだけれど、他人に迷惑をかけたいわけではないわ。この国の王様は今は大変だろうし、王侯貴族も西の都からこっちの都への引っ越しに大わらわだって聞いたわ。そんな時期に来てしまって申し訳なく思っているくらいよ。あと、よりによって雨がひどい時期だなんて知らなかったし」
雨は歩き旅の足を止める十分な理由となる。情報収集を怠ったイグレーヌの責任だが、この国の情報は外では本当に手に入らなかったのだ。加えて、現地の言葉は複雑で、文字体系も異なるため、全般的に対照翻訳が間に合っていない。片や、この国の人々は外国の言語を凄まじい勢いで自国語に訳しているものの、その両方を照合する作業となるとやはりこの国の知識階級でないと務まらない。
かつては『武士階級』が『公家階級』と同じく知識階級を形成していたこの国だが、広範な『町人階級』もまた同程度の教養人を輩出してきたという。それどころか、身分が下とされていた地方の豪農層が武士階級を上回る権勢を誇った例もある。よくよく話を聞いてみれば、武士階級の借金がとんでもないことになっていて、先の戦乱でなあなあにするため奔走していたのだとか、武士階級の身分を豪農や町人へ売ることもあるのだとか。
そんな話は、すべてこの警察官がイグレーヌへ道行きがてら教えてくれたことだ。
イグレーヌを早くこの国から追い出したい側としては、これだけ混乱している状況なのだから安全な他の国へ出たほうがいい、という建前を押し通したいのだろう。無論、面倒くさい、という本音は隠せていない。
「イグレーヌ様、これからどこの国へ向かわれますか?」
「分からないわ。気の向くまま、と言ったら怒られるかしら」
「あなたが果たすべき責任さえ守れるのなら、文句は言いませんよ」
「王女らしくしろ、って?」
「叶うことならば」
「でも、もうこの国では知られちゃっているんでしょう? ほら、その……三日前のアレ。黙っておいてほしい、って頼まれたけれど」
その言葉を聞いて、警察官が微妙に苦い表情を浮かべる。イグレーヌは叱責や嘲笑するつもりではないことを必死に訴えた。
『三日前のアレ』とは、イグレーヌが街道の山中で出会った野盗を持っていた剣で叩きのめして、警察官にドン引かれた一連の事件のことである。野盗側も色々事情はあるようで警察官は彼らを諭して逃していたが、まさか小柄な少女が従軍経験もある大人複数人をあっという間に仕留めたとあっては、目撃者でなければ誰も信じない。それに、外国人に危害を加える現地民がいた、となればすぐに外交問題へ繋がってしまうため、警察官は無傷のイグレーヌへ口裏合わせを頼み、やりすぎたと反省するイグレーヌは了承したのだった。
「あ、えっと、旅をする外国人目当ての盗賊なんてどこにでもいるから気にしなくていいと思うの。ひどいところは現地の官吏とグルになっていて訴えを揉み消されたり、命を奪われても事故扱いされることもあるから、それに比べればこの国はちゃんと対応してくれたから好印象よ」
「それはどうも」
ぶっきらぼうな物言いで返され、どうにもイグレーヌの意図は伝わったかどうか分からない。馬鹿にするつもりなど毛頭なく、イグレーヌの故郷でだって盗賊の類は未だにいて、大陸のほうではかなり手を焼いているらしいとも聞くのだから、この国にもいて不思議はない。だが、警察官はそれを指摘されたことが悔しいのか、ムスッとしていた。いまいち意思疎通が順調ではない、刺激してはならない点もまだ把握しきれていない以上、イグレーヌもどう対処すればいいのか悩んでいる。
とはいえ、食前のコーヒーが運ばれてきて、不穏な空気は消えていく。
白磁のカップになみなみと注がれたコーヒーは、豆が焦げたあの芳香を濃く漂わせ、その上に——水面に揺れるホイップクリームが山盛りとなっているのだ。
いわゆる、|ウィンナ・コーヒー《Wiener coffee》だ。遠く音楽と芸術の都で好まれるそれは、濃く苦く淹れられたコーヒーと甘く冷たいホイップクリームのギャップを堪能できる。かの地の人々は男女問わず甘いものが大好きで、さらにチョコレートケーキや砂糖菓子とともに舌で味わい胃に流し込む。高価な砂糖、カカオ、コーヒー豆をふんだんに使う、今の世の中では贅沢な代物だ。
それがまさか、この国でも飲めるとはイグレーヌは思わなかった。しかしはしゃぐのはよくない、と警察官の視線を気にして顔を上げた。
ところが、その警察官の目は、とても嬉しそうだった。ウィンナ・コーヒーを前にして、すでにソーサーに乗っていたスプーンを手にしている。意外にも警察官、甘いものが好きなようだ。
「あなたも、これを頼んでいたのね。美味しいのよね?」
「ええ。ここの店主はウィーン人で、あちらの日本趣味の流行に乗ってやってきた人物だったそうです。今は港の別の店をやるために離れているそうですが、味は保証します」
「そ、そう……」
すでに警察官は、ホイップクリームを口にしている。コーヒーの上でぷるんと揺れるホイップクリームの山は、どっさりと抉り取られてしまっていた。
イグレーヌもそれに倣い、せっかくのウィンナ・コーヒーだからとスプーンで混ぜはじめた。特別濃いコーヒーと甘いホイップクリームが渦を巻いて、カップの中で茶色に染まっていく。少し本場よりも水面に浮く脂肪分が足りない気もするが、甘ければとりあえずいいのだ。カプチーノに近づいたコーヒーを一口、ぱくりと食べるように飲む。
「ん? あんまり甘くない……?」
不思議なことに、思ったほどは甘味を感じなかった。これでは苦さが勝ってしまう、イグレーヌは砂糖壺から黒糖の角砂糖を取り出し、二つばかりカップへ放り込む。これでやっと記憶の中の味に追いついたくらいだ。
ただ、それでも物足りない。なぜだろう、と首を傾げるイグレーヌへ、警察官が尋ねる。
「お口に合いませんか?」
イグレーヌはすぐに否定する。
「いいえ。ただ、この国なりの味なのか、甘味が足りない気がして。あと、クリームの濃厚さもさっぱり気味?」
「それはそうですよ。外国人の好む甘味やクリームの味は、この国の人間には濃すぎるんです」
「そうなんだ」
「そもそも、牛乳を頻繁に飲む文化がありません。大昔はあったとか聞きますが、それだけです。以前、外国人たちのために農耕の牛を集めて牧場を作ったそうですが、それでも彼らが満足する味にはまったくなっていないと聞きます」
「しょうがない、といえばしょうがないことよね。食文化が違うんだし」
「あちらの牛を連れてくるのはなかなか骨が折れるそうです」
「それはそう、絶対そう」
「それでも、馬をはじめ輸入は盛んなので、いずれ牛も入ってくるでしょう。御一新の前にも羊や山羊が入ってきていたと聞きます」
「ふぅん。そっか、この国の人たちは嫌じゃないんだ」
世界が広くなったこのご時世、よその国のものが流入することは珍しくない。しかし、いきなり入ってきた異物を受け入れられるか、といわれると、各国で事情が異なる。見知らぬものへの嫌悪感が先立つ人々もいれば、物珍しさに寄ってくる人々もいる。中には、嫌いな国から来たというだけで拒絶する人々もいるのだから、どんな美味しいものや便利なものでも一概に受け入れられるとは限らなかった。
イグレーヌはそういった意味で口にした言葉だったが、警察官はさらに拡張した意味合いがあると受け取ってしまったようだった。
神妙に、警察官は言う。
「そういう感情で、外国人を排斥する時代は終わりました」
コーヒーカップを持ち上げ、警察官は底が見えるほどの高さまで上げて、呷る。おおよそコーヒーの飲み方ではないが、喉を鳴らしてそのまま一気に飲んでしまった。飲み干したあと、口の周りにはしっかりホイップクリームが付着しており、本人の態度とは裏腹に愉快なことになっている。
テーブルの端に置かれていたナプキンで雑に口元を拭き、調子が狂った警察官は言葉を選びつつ、語った。
「とにかく、立ち遅れた国を時代の流れに追いつかせる。そのためには、まず外国人の模倣から始めなくてはなりません。彼らの優れたところから学び、国を富ませ、強くする。富国強兵、そのために皆励んでいるので」
それはきっと、この国の上層部が目指す先への正しい理解だ。同時に、それは建前でもある。古い時代との決別を余儀なくされたこの国は、「ほら、新しい時代に馴染んでよかっただろう?」と皆に納得させなければならない。なぜなら、古い時代でしか生きられなかった人々の多くを、文字どおり見捨て、戦火に向かわせたのだから。
それだけの犠牲を払ってでもこうしなくてはならなかったと示し、国として豊かで強くなるという分かりやすく誰もが望む目的を達成できなければ、この国の新しい政府は人々の支持を得られない。強引な方法を取ってでも、あるいは古い身内を排してでも、新しい道へ進まなくては明るい未来がないのだ。
(どこの国だって、豊かで強くなることを目指す。でも、そのために切り捨てられた人々は誰が救うのか、ってことを政治は考えなくちゃいけない……今は無理でも、いずれ直面する問題だから。それができるかどうかが、国の未来を左右する大きな要素で、できなければどうなるかなんて戦争に負けるくらい惨めになると思うべきだ、ってブレイブリクも言ってた)
ただ、そういった問題の解決は一般市民には難しく、時に現れる有力な指導者次第で何事も変化する。他の国の影響を受けることもあれば、ほんの少しの食糧の値上がりを受けて致命的な革命が起きることもあるだろう。
この警察官は、さすがにそこまで考えていないに違いない。彼の立場ではそこまでの思考の責任を取ることは無理だし、目の前の人々を助けるだけで精一杯だ。
それ以上、イグレーヌは今ここで考えることをやめた。有害無益、百害あって一利なしだ。何よりも、今のイグレーヌには警察官の信じるところにいちゃもんをつける権利などない。
それよりも、店内に充満してきた肉の焼ける匂い、イグレーヌの鼻はそちらに向いていた。
近くの丸テーブルに座る男性たちが、やってきたピラフとクロケットに夢中になっている。イグレーヌも、真剣に神妙になっている警察官から目を離してそちらに集中したいが、何となくそんな雰囲気ではない。不謹慎だと怒られまいと必死に、無の表情で耐えていた。
だが、それもすぐに終わる。ウェイターが湯気立つ銀のトレイを運んできた。
それに気付いた警察官が顔を上げ、少しは気分が晴れたのかウェイターの配膳に指図してイグレーヌの前へ料理を置かせた。どう考えても、注文した三人前の料理は、警察官よりもイグレーヌのほうが多く食べると思われないからだ。
「オムレツとフリカデレ、来ましたよ」
「あっ、美味しそう! いい匂い!」
イグレーヌの本心からの言葉は、無意識のうちに弾んでいた。
ふっくら黄色いオムレツの上には、デミグラスソース。少し奇妙なことに、拳よりも大きなハンバーグにはとろっとろのチーズソースが山盛りでかかっている。
イグレーヌは直感的に察した。これは何かある、と。
ナイフがてっぺんのチーズを割くと、中からはトマトソースが我先にと溢れてくる。思わずイグレーヌは「おおー!」と言ってしまった。そのくらい多いのである、量が。
いずれこの店の名物となるであろうフリカデレにすでに満足しきりなイグレーヌは、フォークを構えて食事にかかる。
ただ、目の端に映った揚げ物に目ざとく反応し、警察官の頼んだ料理へ、イグレーヌは目を光らせた。
パン粉をつけて揚げた肉をカットし、キャベツや温野菜の上に並べたそれは——カツレツ? いや、牛肉や鶏肉ではない。それは——厚切りの豚肉だ。切り口から衣の中身が垣間見える。ジューシーでほんのりピンク色を残した絶妙な揚げ具合、でろっとしたデミグラスソースではなくサラサラとしたウスターソースがかけられたそれは、イグレーヌの知るカツレツとは随分と違う。
「それは?」
「豚カツです」
「美味しそう……付け合わせはザワークラウト? あれ、違う。キャベツの千切り?」
「こちらのほうがさっぱりとして食べやすいんです」
「いいなぁ、あとで頼もうっと」
警察官が「は?」と言わんばかりの当惑の表情を浮かべているが、イグレーヌの視線はとっくに目の前の料理へと向かっている。
そして——イグレーヌは宣言どおり、追加注文した豚カツまでも完食した。
異国の地で、これほど再現度の高い、かつ現地要素も加えられた料理に出会えてしまうと、イグレーヌは困ってしまう。
「これじゃあ、この国の料理はどれくらい美味しく作れるのかしら。食べてみないと。うん、食べるわ。明日、美味しいこの国の料理を紹介して!」
呆れた警察官は、それならばと門前町の柳川鍋を勧めて、イグレーヌを納得させた。もちろん、警察官が連れて行くのである。
期待に胸を膨らませ、イグレーヌは赤煉瓦の道を再び踏む。
「どじょう! 楽しみ!」
「どじょうでそんなにはしゃぐ外国人は初めてですよ……」
傘を差し出す警察官は、イグレーヌに聞こえないよう、ひとりつぶやく。
雨音は次第に弱まり、夜は更け、うすぼんやりとした道の先はどこまでもガス灯が続いているかのような、幻想的な風景が広がっていた。
赤煉瓦の街は、イグレーヌの旅の思い出となって、いずれ故郷に知られるのだ。
(了)
画像は土屋幸逸「銀座の雨」(パブリックドメイン)にイグレーヌ(onamiminaさんへ依頼したもの)を足したやつ。Photoshopで頑張りました。
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