7話
三の月終盤、座り心地の落ち着かない馬車の座面の上で身じろぎするノアを見て、アルはくすりと笑った。
「ノアくんはいつまでも馬車に慣れないねえ」
「座っているものが動く、というのがどうにも……むずむずする」
「まあ、本当に必要な時って少ないし、それ以外は乗らないで過ごしたって全然大丈夫だからねえ。俺くんも何だかんだ半年くらいは嫌だったなあ」
「どうやって克服したんだ?」
「一回、本当に長い距離を移動しないといけない任務があってね、その時はもう問答無用で乗せられ続けて。それで、何か気付いたら大丈夫になってたんだ」
「とんでもない荒療治だな」
「ほんとだよねえ。まあ、結果的には良かったんだけど」
くだらない話をする。それだけで時間が滑らかに過ぎていく相手が増えたのは、やはり喜ばしい。
しばらく、外の景色を見たり話をしたりして時間を過ごす。むずむずする尻の下も、話をしている間はマシに思えた。
そうこうしているうちに、伝わってくる振動の種類が変わった。振れ幅が少なくなり、安定した速度になる。目的地のすぐ近くまで来たらしく、馬に乗って並走していたフィリが窓の外で前の方を指差した。
「あれが……」
「うん、ウィーブリル学園だよ。おっきいよねえ」
馬車の進行方向には、白い壁に淡い赤色の屋根の建物が聳え立っている。王城よりは小さいが、それでも相当の大きさだ。塀に囲まれているのは安全性を確保する為だろう。今向かっている門も、かなりしっかりした造りをしている。ノアが通う許可が出たのも納得である。
馬車が通れる分だけ開けられた門を潜り、少し走ったところで馬車は止まる。すぐに外からノックされ、開けられた先にはフィリがいた。その奥にも人が何人かいるのは見えるが、恐らく学園側の人間だろう。見覚えのない顔だ。
「アル、ノア、学長がいらしている。このまま一回学長室に来て欲しいそうだ」
「おっけ〜。ノアくん、大丈夫そう?」
「問題無い。体力に余裕はある」
「分かった」
座りっぱなしで腰が固まりかけているのを分かっているのか、フィリが差し出した手を有り難く借りて馬車から出る。アルは一人でひょいと降りていた。この程度で音をあげていては、宮廷魔導士団は務まらないのかもしれない。かなり長い距離を馬車に詰められて移動した事もあると言っていたし、それこそこの程度の移動距離では痒くもないのだろう。
軽く靴で地面を叩いたアルが「お久し振りです」と声を掛けた先にいる男性──髪に白いものが混じり始めた、ピシリとしたスーツを着こなした人が鷹揚に頷き返す。先程の話からして、彼が学長なのだろう。学園の統括を任された人物。雑に纏めればここで一番偉い人間だ。
「こちらへ」
短く発した声はよく通る。深みがあると言うのが正しいだろうか。学長は、かつて師匠が戯れに聞かせてくれたバイオリンの音を思い出す声をしていた。
先導する学長について階段を登る。二階に昇ってすぐ、階段の前に構えられた部屋が学長室らしい。音も無くドアを開け、入るよう手で示してきた。誘導に従って部屋に入り、設えてあるソファに座ったアルを真似て横に座る。二人掛けだったのでフィリは横に立とうとしていたが、詰めればスペースが空いたので座らせる。その様子を見て、何故か学長が満足気に頷いた。
「フィレアド君とアレシア君にそこまで気を許させるとは、大した人材だな」
「久し振りで一言目がそれは無いんじゃないですか、学長先生。流石の俺くんも傷付いちゃう」
「この程度で傷付く精神性なら、学生としてもう一度やってくるなんて出来ないだろうよ」
「それは確かに。四年経ったとはいえ、まだあの頃の知り合いは残ってますもんね。彼等に通達はしてあるんですよね?」
「こちらで選定した分にはな。そもそも、四年前の時点である程度以上に関わった学生には知れているだろう。見たら即座にある程度は察せるさ」
ぽんぽんと言葉が飛び交う。どうやら、前回この学園に潜入した時の人脈のうち一人は学長らしかった。随分大物を人脈に加えているものである。トップとここまで気が知れているなら、さぞ動きやすい事だろう。
「さて、君がノア君だな」
確認事項はチェックし終わったのか、アルと話していた学長がこちらを向く。落ち着いたブラウンの瞳が数度瞬き、柔らかく細められた。
「ようこそ、ウィーブリルへ。君は十六だから、高等科に入学する事になる。事前の学力検査も通過しているし問題は無いと思うが、何かあったら遠慮せずに教師に言いなさい。私も力になると約束しよう。限りある学生生活を楽しんでくれ」
それは、多分最上級の歓待の言葉だ。教育者として、学園の長として、この場所はノアの学びを妨げないと約束する。この上なく有難い約束だ。
「感謝する。この学園で、多くの事を学びたいと思う」
「ああ、その気持ちがあるなら、ウィーブリルはそれに応えるよ」
差し出された手を取る。握手をした学長の手は存外厚く、馬車の中でアルが言っていた言葉を思い出す。
「ウィーブリルの学長先生はねえ、元々は宮廷魔術師団から声が掛かるくらいの実践魔術の使い手だったんだよ。だからなのか、現場主義っていうか、自分で学園内を見回って授業をチェックしたりするんだ」
実践魔術の使い手。魔術師団は魔術と武術の混合で戦う人たちの集まりだという事は、見学していた訓練で分かっている。そこから声を掛けられるという事は、学長は体も鍛えてあるのだろう。
大人の男の、鍛えてある掌。その感触に、師匠が脳裏をよぎる。師匠も、顔に似合わず分厚い手をしていた。その手で頭を撫でられたことまで思い出して、今はそんな感傷に浸っている場合じゃないと思い直す。
師匠は、今はいない。自分が不甲斐ないせいで、奪われてしまった。だから、ここできちんと学ぶのだ。学んで、力をつけて、師匠を取り返す。遠回りかもしれないけれど、それが一番確実な方法だ。勇み足は足を取られて転ぶだけ。師匠の教えは、今でもノアの中で様々な判断を助けてくれる。
満足気に頷いた学長は、次に行くべき場所を教えて学長室から三人を送り出した。「良い人でしょ」と覗き込んできたアルに同意を返し、ノアは目的地──高等科の生徒会室へと足を向けた。
うきうきで書き進めていたら、すっかり投稿するのを忘れていました。愚かですね。そんな訳でストックが山と出来ています。忘れないように頑張りたいです。