最初の一歩
陛下から頂いた命令は二つ。一つはもう達成した。この子供を強引にでも引き取ってこいというものだ。そちらは迷わず、簡単に行えたが、残りの一つが問題だった。
「俺、子供との付き合い方なんて分かんねえんだけどな……」
引き取った子供に、黒眼の者としての教育を施せ。
受けた時は、家庭教師みたいなものかと軽く受け止めていた。教えるのは得意じゃないが、やれるだけやろうという気持ちを十分に持っていた。しかし、この子供がここまで壊れているとなると話は別だ。幼児と言えるかすら怪しいレベルのこれを、どう扱えば良いかなんてまるで分からない。
考えても解決策が浮かばない事は明白だったので、ハインツは頼れる相棒を呼び出す事にした。双子の養育を行い、皇国でも兄弟の子供に好かれるらしいハルなら、どうにかなるかもしれないという安直な考えである。
ひとまず、とハルの家に連れて来た子供は、相変わらず反応がほとんど無い。椅子に下ろせば座るが、その後は微動だにしなかった。何も感じ取らない、理解していない子供。そんな子供を見たハルは、少し会話を試みた後に部屋を出た。
「自我が一切形成されていないなあ。謂わば、精神面だけは赤子のようなものだ。接する人間は可能な限り減らした方が良かろう、影響を受けやす過ぎる。それと、反応が無くても話し掛けたりするのが肝要だ。働き掛けなければ自我は作られない」
「人形に話し掛けろって言われてる気分だ。やるしかないんだろうが」
視線すら持たない相手と関わるのは、人を相手にしている気分を削ってくる。まさしく人形遊びでもしているかのような手応えなのだ。あれが本当に人間になるのか。そんな疑問は絶えない。
「フィリとアルにやっていたように話してやると良い。名前もきちんと呼ぶように。……まずは命名するところからだったか」
「ああ。まさか結婚する前に名付けを経験するとは思わなかったよ」
ラインマンは、この子供に名前を付けなかった。人として扱わず、何なら犬猫以下の位置にいたのだろう。だから、名前はこちらで考えなければならない。
何が良いだろう。ありふれた名前を適当に当てがったって怒られはしないだろうが、名前というのはそんな風に杜撰に渡すものではない。ここまできたら息子として名前を付ける気持ちで臨むべきだろう。
少し頭を回して、幾つか候補を出す。その中でぽろりとこぼれ落ちて来た名前が一つ。
「……ノア」
「ああ、神話か。確かに良い名前だなあ」
神話に出て来る男の名だ。善良で、懸命で、誇り高く生きた男。その生き様により、神の一瞥を受けた男。
特別なところなど無くて良い。ただ、人として美しく生きて欲しいと思った。これまで十数年、人として生きられなかった分を取り戻して欲しい。特別な偉業は達成せず只人として名を刻んだ男の名には、そんな願いを込められる。
「では、あの子はこれからノアだな。育てる場所はどうするんだい。王都は人が多いし、別の場所に行くのも手だけれど」
「うちの領地に、丁度良い山がある。小さい頃の遊び場だったんだが、確か使われてない山小屋がある筈だ。あそこを建て直せば静かに、安全に過ごせるだろ」
「成程。では、ここから魔術通路を繋げるのはどうだい。この家は探りを入れ難いし、行き来が出来た方が何かと都合が良いだろう」
「助かる、それなら仕事も続けられるしな。しばらくはあいつに専念するかもしれんが、ある程度落ち着いたら復帰したいんだ」
「お前もよくよく師団が好きだなあ。では、それまで僕が仕事の処理をしておこう。ノアについても相談に乗るから、あまり考え過ぎないように」
「分かってるよ。陛下に説明するのはいつにする?」
「僕は特に予定は無いよ。陛下に伺いを出しておいてくれ」
「了解。すぐに出す」
打てば響く会話というものを、これ程有り難く思う日が来るとは思わなかった。なにせあの子供──ノアときたら、こちらに視線を向けさせるのですら一苦労なのだ。まともに会話が出来るのはいつになる事か。
大まかな段取りと予定を決めて、それぞれがやるべき事に向けて動き始める。少し出来た隙間時間に見に行ったノアは、座らせた時と寸分違わぬ姿勢で座り続けていた。




