第一回潜入任務:5
「ほら、リリア。頼まれてたやつ。確認頼んだ」
「相変わらず仕事早いわね。どれどれ……」
軽い動作で置かれたレースをリリアが手に取る。そのままじっくり検分する彼女の姿は、もうすっかり馴染みのものになっていた。
「うん、期待以上!ありがと、フランツ。これなら良いのが作れるわ」
「それは良かった。で、そっちはどう?」
リリアと笑い合ったフランツがこちらに顔を向ける。誤魔化しても仕方ないので素直に両手を上げた。降参のポーズである。
「絡まっちゃったよ〜。俺くん向いてないっぽい」
「図案考えるのは上手いんだけどなあ。……いやどうやったらこんなに絡まるんだ?」
「分かったら苦労してないって」
信じられない目を向けられている手元で絡まりまくっているのは刺繍糸だ。最近、放課後にこうして集まって、フランツから手芸を習っているのである。使うのは生徒会室の横にある空き教室。人が来ないからうってつけだ。
しかし、昔──家の隠し部屋で生きていた頃からそうだったが、アルはどうにもこういう作業に向いていない。嫌いではないのだけれど、すぐに糸を絡めてしまう。抜群に上手いフランツに習ったらいけるかと思ったが、そういう問題ではなかったらしい。
諦めたアルの横で黙々と針を動かす兄さんは、こういう失敗をあまりしない。昔は多少やっていたのだけれど、回数を重ねる事でしなくなった。ちくちくとゆっくり模様を刺していく様が今日も綺麗だ。
「フィリの方は……うん、良い感じだ。才能あるね」
「そう?複雑な事はしていないけれど」
こてん、と無表情に首を傾けた兄さんに、フランツが笑う。屈託のない、含みのない笑顔だ。
「根気があるっていうのが、手芸における一番の才能だよ。細かい作業の繰り返しだからね」
「それなら俺くんにも才能あるんじゃない?」
「あるね。他のところが致命的なだけだよ」
「否定出来ないのが悔しいな〜。昔っからこうだったから諦めてるけどさ」
「その分図案描くのは上手いし、フィリとアルは分担して作るのが一番良いかもな。フィリに描かせると白紙が提出されてくる」
「すまない。何が良い、というのが分からなくて」
「センスは磨くの大変だしな、仕方ないって」
下らない話、砕けた言葉。それを交わせるのが楽しくて、刺繍を諦めても暇にはならない。
だらだらと話しながら皆が作業するのを見続けて、放課後に行うクラブの活動終わりを知らせる鐘が鳴るまでの時間はあっという間に過ぎていった。これ以上は理由がない限り校舎に残れない。道具を片付けて、クラブに入っている生徒達に紛れて寮までの道を歩く。
「もう日が暮れかけてる。冬だねえ」
「日の短さより、気温で感じない?すっかり寒いもの、そのうち霜が張るわね」
夏休みが明けたあの日から、何ヶ月も経った。相変わらずあちこちに精霊を宿した石を仕込んだり回収したり、校舎の測量なんかもしたりした。その一方でフランツとリリアと笑い合い、下らない事で小突き合い、一緒に遊んだ。師団員と生徒という二つの立場は入り混じって、この暮らしに馴染んでいる。
平和だ。平和だった。探りを入れる仕事をこなしているし、ここを完全に安全だと認識していた訳ではない。それでも、油断があった。気を張り詰めては、いなかった。だから。
──突然兄さんの胸元に迫ったナイフに、魔術が間に合わなかった。
ぱきん、と甲高い音が鳴る。服を裂いたナイフが、その下に下げられていたネックレスに当たったのだろう。じわりと兄さんの目の色が滲む。明け方の空のような青色が、よく知るオーロラ色へと変わっていく。
ネックレスは、今回の任務に当たって支給された特別なものだ。トップの石は精霊を宿せるもので、自分達の出自を示す目の色を隠してくれる。それだけでなく命まで守ってくれるとは、この石をネックレスの形にしようと言い出した師団員には感謝しなければ。
人混みの中で突然飛び出したナイフに、生徒達が一瞬呆ける。次の瞬間、悲鳴と混乱が巻き起こった。
「兄さんッ!」
「無事!アル!」
「了解!」
こういう時、複雑な言葉の要らない自分達は便利だ。目を見交わせば大体伝わる。
兄さんを守る役には立たなかったが、ナイフが胸に突き立てられた時点で魔術は発動した。服の裾に水滴を飛ばし、染み込ませる。自分の出した水なら追えるのが精霊という存在だ。指し示す方向に、大混乱の人波をすり抜けるように駆け出す。兄さんもすぐに追いかけてきた。
「フィリ、アル……!?」
リリアが咄嗟に上げたのだろう声に応えられない。応える暇がない。その事に申し訳なさを感じる程、心に余裕がなかった。
駆ける。駆ける。あれが『極光』の手かどうかなんて考えは存在しない。そんな事はどうだって良い。ただ一つ、兄さんにナイフを突き立てようとしたという事実だけが重要だ。
怒りが、久方振りに皮を破っている。二度と家族の死体なんて見たくない。そんなものを生み出させない。天寿以外で身罷る事を、それをしようとする輩を、許さない。絶対に。
幸い、向こうもこの人混みではそう速く駆けられない。むしろ体格の小さいこちらの方が動きやすい。校舎に足を踏み入れた時には、もう相手の姿は把握していた。
高等科の制服姿で、茶髪の男。見た感じは線の細い体格だが、動きは戦闘に慣れた人間のもの。何かしらの訓練を受けている。
校舎内を逃げ回る相手を追い掛け続ける。自分達を完全に撒くまで、通路や拠点に向かうような馬鹿はしないだろう。自分達が尾行の専門訓練を受けていない以上、気付かれずに案内させるのは不可能と考えた方が良い。それならば。
茶髪が止まる。アルのポケットに仕込まれた氷が消えるのと同時に、廊下の曲がり角から兄さんが姿を現した。
「武器を捨てて。両手を頭の後ろに」
兄さんの後ろには、炎が幾つも浮いている。単純で簡単な魔術だけど、あれだけの数を制御し続けるのは難しい。そして、炎というのはそれだけで武器になる。兄さんは今、いつでもお前を傷付けられると示しているのだ。
「嫌だって言うなら、僕が手伝ってあげようか?ほら、選びなよ。押さえ付けてやらされるか、自分からやるかをさ」
後ろから歩み寄りながら話しかける。押さえ付けるのをやめた怒りが声を彩るのを、どこか他人事のように認識した。とても投降を促す人間の声には聞こえなかった。
一瞬こちらに目をやった兄さんも、同じ事を思ったんだろう。自分達の視線が二つとも外れたその一瞬、注意の隙間を縫って男はガリ、と音を立てて何かを噛んだ。それが何かはすぐに分かった。男が喉を掻きながら倒れたから。
「……ごめん、兄さん」
「私も目を離した。次からはしないようにしよう」
もがいて、苦悶の声を上げて、泡を吹きながら死んでいく男には何の感情も湧かない。自分で毒を噛み、自分で死を選んだ。それに同情も何もする余地は無い。互いの立場が食い違っているのだから当然だ。
アルが感じたのは、情報源を潰す機会を与えてしまった事への申し訳なさ。尋問でも拷問でも、生きてさえいれば情報を吐かせる手段はそれなりにある。しかし死んでしまえばそれっきりだ。死人に口なしとはよく言ったものである。
息を一つ吐き出して、気持ちを切り替える。事が起こってしまったからには後処理が必要だ。何かあった時の緊急連絡手段はあるから、それを使って師団の人間を呼び出す。毒を使った以上死体を軽率に触るのも良くないし、人員が到着してからでないと話が進まない。
兄さんが隠しポケットから取り出した石を叩く。決められたリズムで叩けば、中から漏れていた光が消えた。これで、中に入っていた精霊が呼び出しの役割を果たしてくれる。後は待つだけになったところで、足音が響いた。焦ったようにばたばたと重なる音。警戒を一気に高めて振り返った先、曲がり角から現れた姿に少しだけ肩の力を抜いた。
「リリア、フランツ」
振り返らなかった友人二人が、息を切らしても尚走って来たのだ。肩で息をしながらこちらを見て、足元に転がった男に息を呑む。明らかに尋常ではない状況で、それでも手を差し伸べない自分達に何かを感じ取ったらしい。
「……近付いて大丈夫かな」
「良いよ〜。でも、こいつには触らないでね。生きてたら危ないし、死んでても触るのは良くないから」
先に状況を飲み込んだフランツの問いに答える。声は、もういつもの調子に戻せていた。
「あんた達、……あんた達は大丈夫なの?怪我は?さっき、ナイフが」
ゆっくり近付くフランツを追い抜いて、リリアが兄さんに駆け寄る。胸元には切り裂かれた跡があるけれど、その下にあるネックレスを見つけたようでほっと息を吐いた。
「心配かけてごめんねえ、リリア。それと、もう一つごめん。嘘吐いてた」
アルも制服の下からネックレスを取り出す。兄さんに渡せば、兄さんの目の色がまたじわりと滲んで変わる。空の色に。自分は入れ替わりのように、オーロラ色に変わったはずだ。
「改めて自己紹介をするね。俺くんはアレシア=クロイゼルング。兄さんは俺くんの兄さんで、フィレアド=クロイゼルング。宮廷魔術師団員だよ。俺くんはアル、兄さんはフィリって呼んでくれると嬉しいな」
この目は、家族から受け継いだ血の最も分かりやすい証明だ。だから隠していた。自分達は社交の場に少ししか出ていないから、目の色さえ変えてしまえば身元を隠せる。相手が幼い子供なら尚更、会った事なんてありはしないのだから。
名乗りと目の色を見たフランツが、ゆっくり目を閉じる。聡く、立場のある彼は情報を持っているだろう。思い出したのか、ぱちりと目を開けてこちらを見た。
「クロイゼルングの双子。殺害事件の生き残り。ハル=ホズミ皇弟殿下に養育され、宮廷魔術師団に入団したばかりだと聞いてる。……精霊との無茶な契約の代価に、体が成長しないんだっけ」
「そうだよ〜。だから、こんな体だけど十六歳なんだよね。若作りしちゃった」
「若作りとは違うんじゃないかな」
ふざけてみせれば苦笑が返ってくる。対して情報を咀嚼していたらしいリリアは、はっと兄さんから手を離した。
「待って、兄さんって言った?もしかして、フィリ、あんた男?」
「うん。アルは妹……というか、元妹。今は妹かもしれないし、弟かも」
「どういう事よ!?」
兄さんが兄さんである事以上に、アルの性別で大混乱に叩き落とされているリリアに思わず笑ってしまう。兄さんは少し言葉が足りない時がある。
「代価の一部だねえ。俺くんは性別がなくなって、兄さんは感情がなくなったんだ。だからリリア、兄さんに抱きついても外聞以外は平気だよ。安心して」
「うん。何も感じないから、大丈夫」
男女が過度に触れ合っている、という外聞の悪さを除いてしまえば、兄さんにリリアが抱きつく事に何の問題もない。今は女性の格好だし尚更だ。
だから安心して。悪いとしたら、偽りで固めたこちらだけだから。そういうつもりで紡いだ言葉に、リリアの顔がくしゃりと歪んだ。それを隠すように兄さんを抱き締める。これまでで一番強いんじゃないかというくらい、強く。
「ばか、……何も安心なんて出来ないわよ……!そんな、そんな風に軽く言うものじゃないでしょ!あんた達二人とも大馬鹿じゃない!」
ぎゅうと兄さんを抱え込むようにするリリアの声は震えていた。何がそんなに彼女の心を揺さぶったのか分からなくて、でもきっとこれは自分達を思ってくれた証だ。
「ええっと、ごめん?でも、そんなに大した事じゃないよ。兄さんは兄さんだし」
「アルの言う通り。あまり気にしないで、今までと同じように接してくれると嬉しい」
嬉しい、という言葉の指し示す感情を、兄さんは感じることが出来ない。慣用的な言い方というものを使っているだけだ。それに気付いたかどうかは分からないけれど、二人は迷わずに頷いてくれた。
「変わらないで良いって言うなら、私、あんたにこれが好きだって言わせる服を選んでみせるわ。着たいって、これを着て出掛けたいって思わせてあげる。友達だもの」
「俺も協力するよ、リリア。一緒にフィリを笑わせてやろう。そうしたら、感情がないなんて言えないだろう?」
笑う。笑ってくれる。騙していたけれど、それを理解しても尚変わらない事を受け入れてくれる。ああ、本当に自分達は人に恵まれている。
「ありがと、リリア、フランツ」
「ありがとう。これからも、よろしく」
兄さんと一緒に礼を述べる。足元に転がる死体が不似合いな、暖かい気持ちだった。




