1話
王国の宮廷魔術師団総師団長が消えた──否、攫われたと言うべき事件は、即座に人口に膾炙した。その原因となった、唯一の弟子の噂と共に。
「ハインツ殿がみすみす攫われるなど……信じがたい」
「聞くところによると、弟子を庇って攫われたらしい」
「何と。あの冷徹な総師団長殿にも、人の情というものはあったのですねえ」
「弟子を庇って、ということは、最初は弟子が攫われそうになったということかしら?」
「そうなんじゃないですかね。それか、ハインツ殿が狙われた所に弟子が居合わせて気に掛けた結果……ということかも」
「どちらにせよ、弟子というのは……ねえ」
「可哀想ですけれどね、そうでしょうね。ハインツ殿が弟子を取ったと聞いた時は喜ばしく思ったものですが、こんな事になるとは」
「はあ、全く。まだ子供だとは言うけれど、どうせなら」
ひそひそひそひそ、悪意なく囁かれる噂は大抵最後にこう締められる。
「どうせなら、その弟子が攫われれば良かったのに」
うるさい。うるさい。うるさい。
「……そんな事、俺が一番思ってる」
好奇の視線が突き刺さる中を歩きながら呟いた言葉は、誰にも届かないまま落ちていった。
「ノア様」
先導していた、この場所──王城に勤める侍従が声を掛けてきたので顔を上げる。完璧なアルカイックスマイルを浮かべる侍従は、流石はこの国の頂点に仕える人間と言えるだろう。周りでひそひそ噂話に興じる貴族達より、よほど好感が持てた。
「謁見はこちらの部屋にて行って頂きます。我々は踏み入ることが出来ませんので、ここまでとなります」
「了解した。感謝する」
ともすれば失礼と叱られる態度な事は自覚しているが、侍従は何も言わずに下がっていった。有難い限りである。周りの貴族共の目線はまるっと無視して、ノアは示された扉の中へと足を踏み入れた。
足音の一切が飲み込まれるほど柔らかな絨毯を踏み締める。いつも通り、足を進める。普段の生活とかけ離れた場所だからといって臆する必要はない。──師匠なら、絶対にそうする。
胸を張れ。堂々と、いっそ傲岸不遜と眉を顰められるほどに。そうある事を許される存在だと思わせろ。
俺は、あの師匠の弟子なのだから。
行き着いた先で座っていた相手を、真っ直ぐに見詰める。目を逸らす──ましてや跪くなんて事はしない。それが当然の対応であったとしても、自分はそうしない。自分の上に戴く人間は、後にも先にもあの光だけなのだから。
しばらく、無言が部屋に降りていた。誰も口を開かず、また身動きもしない。何分経ったのかは分からないが、そんな時間が続き──唯一椅子に座っていた男によって破られた。
「良い目だな」
低く、よく響く声だ。ずんと腹にくる重さがある。一国の上に立つ者の声。その肩に、重いものを乗せ続けた人間だけが持てる重さ。
「ノア、と言ったな。お前の師匠──宮廷魔術師団、総師団長ハインツ=ゲルシュナーが事前に通していた申請に基づき、ハインツが指定した者達がお前を保護する。……今の決意を、忘れないように」
重い声に、上手く返事が出て来ない。それでも、目は逸さなかった。最後に少しだけ口角を上げた男が付け足した言葉は、きっとノアの心中なんてお見通しだから足されたのだろう。その上で、認めたのだ。ノアの心を燃やし続けている感情を。
少しだけ、頭を下げる。会ったのは短い時間であっても、この大人に尊敬の念を抱いたからだ。師匠が自分の上に立つ者として認めた大人。それだけの器が、この人にはあるのだ。そう分かった。
侍従に促されるままに退出して、少し歩いた先の部屋に案内される。謁見に使われた部屋よりはシンプルに纏められた場所。大きな窓から差し込む明かりの中、ソファセットで軽食を摘んでいたのはピンクブロンドの髪をした女性と金髪の男性だった。
「お、君がノアだな。こっちに来たまえよ、王城の軽食は最高だぞ」
我が家かと言わんばかりに寛ぐ女性の隣で、男性が静かに眉間を揉んでいる。どうやらこの二人が、師匠の指定した保護者らしかった。
「……あんた達は」
「はは、捨て猫かってくらいの警戒心だな。実によろしい。私はハイルフィリア=ローゼン、長ったらしいからリアとでも呼んでくれたまえ。宮廷魔術師団第一師団長をやっている。君の師匠の直属の部下みたいなもんだな」
からからと笑う女性の頭を引っ叩き、眉間を揉んでいた男性が口を開く。
「俺はジルバート=カルウェル。長かったらジルとでも呼んでくれ。第一副師団長をやっている」
結構良い音を鳴らしたジルバートの横で、ハイルフィリアは変わらず笑い続けていた。慣れたやり取りらしい。……それはそれでどうなんだ。
「君の事はハインツからちょいちょい聞いていたから、そこまで不安に思わなくても大丈夫だとも。親戚のお姉さん達くらいに思ってくれて構わないぜ?」
パチリとウィンクを決めるハイルフィリアは、どこまでが本気なのか分かりにくい。取り敢えず、親戚というのは全く感覚が分からないので何とも言えないのだが。
とにかく何か答えなければ、と口を開いたタイミングで、ドアがノックされる。やたらとリズミカルなそれに、ジルバートが苦笑しながら「入れ」と声を掛けた。
「失礼〜」
「失礼します」
緩い声と、ぴしりと締まった声が重なって響く。振り向いた先には、白金色の髪を持った同じ顔の子供が二人いた。服まで揃いになっていて、髪の長さと表情の豊かさだけが印象を分けている。
「この子がノアくん?ふうん、確かに立ち方が総長そっくりだねえ。重心の置き方なんて特にそう。ね、兄さん」
「アル。近過ぎる」
ぴょん、と跳ぶように近付いてきた短髪の方が流れるように話し、それを長髪の方がぶった斬った。短髪の方はどうにもハイルフィリアに近い何かを感じる。放っておくと流されそうな感じがするのだ。
「ああごめんごめん。初めましてノアくん、俺くんはアル。こっちは俺くんの兄さんでフィリだ。師団長と副長を含めて、この四人が君の事を総長から事前に聞いていたメンバーになる。よろしくね」
にこ、と可愛らしく笑う短髪の子供──アルは、年齢にそぐわない程大人びた話し方をする。そのちぐはぐさがどうにも引っ掛かって、首を傾げた。
「……師匠が、お前達みたいな子供に俺を託したのか?」
そもそも、ここに集まるのは保護者という話だった筈だ。それなのに、こんな十二、三歳の子供がここに来て、更には師匠から話を聞いていたと言う。どういう事か、と困惑するノアの横から、ふは、と笑い声が落ちた。
「ノア、こいつらは君より年上だ。二十になる」
「え」
くつくつ笑うハイルフィリアの言葉が信じられず、二人をまじまじと観察してしまう。……どこからどう見ても子供だ。細い肩も、高い声も。ハイルフィリアの冗談かと疑いかけたところで、ジルバートが「本当だ」と念を押してきた。
「いやあ、わざわざ言う事でも無いし対外的には子供で通してるんだよ、俺くん達も。でもそうだね、実年齢は二十だよ。何なら戸籍見る?」
「いやそこまで疑っている訳ではない」
軽い調子で持ち出された戸籍だが、確かそう簡単に閲覧出来るものでは無かったと記憶している。国が厳重に管理しているのだと。だからこそ、生まれた時に戸籍が作られなかったノアの戸籍の扱いに師匠が奔走していた。
「ノア。……呼び捨てで構わないだろうか」
にこにこと笑っているアルの横に追い付いたフィリが、感情の一切滲まない声で呼び捨ての許可を求めてくる。大丈夫だと返せば、感謝と共に「アルの距離感が近すぎると思ったなら言ってくれ、やめさせる」とだけ伝えられた。こちらはこちらで、余りにも人間味が薄過ぎて不安になる。一体どういう兄弟なのか。そして師匠は何を思って臨時の保護者としてこの四人を指名したのか。
「はいはいお前ら離れろ離れろ。仕事の時間だ」
余りにも個性の濃過ぎる人間達に戸惑い続けていると、ジルバートがしっしっと犬猫でも追いやるかの如く二人を遠ざける。しかし、仕事と口にした瞬間に緩んでいた空気が一瞬で締まった。
「了解」
「了」
アルとフィリがハイルフィリアとジルバートの座る椅子の後ろに控える。ハイルフィリアも先程まで崩していた姿勢が美しく伸びていて、思わずこちらも背筋が伸びた。
「さて、改めて説明をしようか」
そう笑ったハイルフィリアの顔が一瞬師匠に重なって、ああ、だからこの人達が保護者なのか、と胸にストンと落ちてきた。
師匠──ハインツに何かあった時、保護者としてノアの後見人になるのは四人。ハイルフィリア=ローゼン、ジルバート=カルウェル、フィレアド=クロイゼルング、アレシア=クロイゼルング。後ろの二人はフィリとアルだ。最初に名乗ったのは愛称らしく、皆そう呼ぶしそれで良いかと思って、と抜かしたのはアルだった。結局最初に聞いた名前が刷り込まれてしまったので勘弁してほしい。
閑話休題。
この四人は特別に法律上もノアの保護者として振る舞う事が可能になっているらしく、何か困った事ややりたい事があれば相談してくれとの事だった。この特別対応はノアの特殊性によるものらしく、そこについては落ち着いてから順に話そうと言われてしまった。
そして師匠はノアの教育の最低限を終える前にいなくなってしまったらしい。どうもあの小屋から出すには一般常識等を教え終わってからでなくてはならないと考えていたそうなのだが、それが終わる前にいなくなってしまったので、代わりに四人とその周囲──宮廷魔術師団、特に第一師団が日々の業務と並行してある程度の教育を行ってくれる手筈になっている。どこまで教育が進んでいるかは師匠が記録をつけていたそうで、それを読んだ上で教育は進められるという。
生活場所に関しては、宮廷魔術師団の宿舎の一室を割り当てられる。これまでの小屋は師匠だから安全性を確保出来ていただけらしく、それも一度破られたからには過信出来ない。一番安全で便利な場所として宿舎が選ばれたそうだ。
しばらくは宿舎で過ごしつつ、主にフィリとアルがついていてくれる事になっている。師団長と副師団長の二人は自由が効きづらく、部下に当たる二人の方が色々と便利らしい。その辺の事情は説明されたのだがよく分からなかった。多分こういうところが、常識を理解しきれていないところなのだろう。
当面の予定とどういう場所に向かうのかだけをひとまず把握して、それだけ分かっていれば何とかなるよ、と微笑んでくれたジルバートとハイルフィリアに見送られて部屋を出る。豪華な廊下をアルが先導して、フィリはノアの横に並びながら歩き始めた。
「これから魔道師団の本拠地に向かうよ。王城からはそれなりに近いんだけど、歩くとちょっと時間かかるかも。歩きたい?それとも馬車で行きたい?」
「歩きが良い。馬車は慣れなくて落ち着かない」
「分かる〜、最初の頃はむずむずするよねえ。あと王城のだとそんな事ないけど、うちのはちょっとお尻痛くなっちゃうかも。速さと丈夫さ重視で快適性はそこまでなんだよね」
一話すと十返ってくるアルと話して、フィリは殆ど口を開かない。この二人の間で会話担当は決まっているのだろう。
二人と一緒に歩いていると、周りの声が気にならなくて良い。ずっとアルが話し掛けてくるからそちらに耳が向くし、そもそもきちんとした立場のあるらしい二人がいると口さがない人達の噂話も止むらしかった。……情けなくも師匠を目の前で失った自分とは違う。そういう事なのだろう。
ずきり、と胸が痛む。その瞬間、急に目の前が開けて顔を上げた。
「ノアくんは来る時は馬車だったんだよね?それなら王都の風景はあんまり見た事ないかなあ。綺麗だからね、気になるならゆっくり見て良いよ」
振り返ったアルの後ろ、青空の下に淡い色合いの建物が美しく並び立っているのが見える。来る時にやたらと坂を登る感覚があると思ったが、どうやら王城は一番高い位置にあるようだ。緩やかに傾斜のついた土地の、上。そこから見下ろす王都は、繊細で美しい街だった。
「これから俺くん達が行くのはあっちの大きい建物だね。黒っぽい屋根のとこ」
分かるかなあ、と言いながら指をさすアルは、全体的に色の薄い印象だからか王都の眺めによく合う。アルまで含めて一つの絵画にでもなりそうだ。
風が吹き抜け、その中に明るく笑うアルがいて、隣にはフィリが立っている。この眺めは、鮮烈な感情と共にノアの中に刻み込まれた。