12話
ざわざわと精霊が騒いでいて、ゆっくりと意識が浮上していく。空気は冷たいし、部屋も暗い。まだ夜も明けていないと判断して二度寝を決め込もうとした瞬間、だん、とドアが激しく叩かれる音で一気に目が覚めた。
「出てくるな、ノア!」
ドアの向こうから、がなるようなフィリの声が響く。初めて聞くフィリの大声に、心臓が縮み上がるような心地がした。
何とか分かった、とだけ大声で返す。下手に外に出ようとしたら足を引っ張る。そのくらいは弁えている。
フィリから返事は無かったが、ドアノブがぱき、と音を立てて凍りつく。万が一にでも開かないようにしたのだろう。警戒はするに越した事はない。……であれば。
(窓が開かないように出来るか?)
周囲でざわついている精霊達に声を掛ける。精霊との意思疎通は脳内で事足りる為、声と言っても口は動いていないが。
『出来る』『出来るよ』『やるね』『任せて』
すぐさま窓の鍵が変形し、ガラスが分厚くなる。他の精霊達も待機しているから、早々破る事は出来ないだろう。少なくとも、破ろうとしたらすぐに分かる。礼を言ってドアの方に意識を戻した。
足音、鈍い殴打音、何かがぶつかる音。物音はするが、声は一切聞こえない。足音からして敵は複数いる筈。意思疎通に声を必要としないだけの練度のある集団という事だ。
気を張り詰めてドアを見続ける。物音が収まるまで掛かった時間はそう長くないものだろうが、夜が明けるまで掛かったような気がした。
ドアノブの氷が剥がれる。少し力無く思えるノックが響いて、慌てて開けた先にはアルがいた。
「無事だね、良かった〜。眠いかもだけど、ちょっとお邪魔するね。しばらく俺くんと一緒にいよう」
言いながら入ってくる。ドアの隙間から滑り込むように入ってきたのは、外の様子をなるべく見せないようにする為だろうか。それでも一瞬見えた廊下は傷だらけになっていて、物音に相応しいだけの有様になっていた。
「変な匂いとかしなかった?」
「大丈夫だ。窓の方も異常は無かった」
「あ、凄いね、そこまで気が回ったんだ。助かるよ、ありがとう」
変形した窓の鍵と窓ガラスを見て、感心した声で褒めてくれる。それは嬉しいが、平静を取り繕おうとしている姿に心配が募る。
「……フィリに、何かあったのか」
どう尋ねるべきか悩んで、結局愚直に切り込むしか思い付かずにそう口にする。対人関係の経験値が低いのを、双子と宮廷魔術師団の中で過ごす内に悔しく思うようになった。きっと、もっと良い伝え方がある筈なのに。
幸いアルは無遠慮な踏み込みに傷付いた様子は無く、ただ少し目を見張った後に眉を下げて笑っただけだった。
「そんなに分かりやすかったかな」
「分かりやすい、とは言えないだろうな。ただ、色々な要素から推測しただけだ」
刀から手を離さない事。アルの近くにいる精霊が少し落ち着きなく動いている事。上着を脱いでいる事。鉄臭い匂いが薄くする事。双子はごく少数の身内と判断した者以外には意外と淡白な事。そういった全てから導き出した推測だが、大きく外れてはいないらしい。
「まあ、どうせすぐに話す事になるから良いんだけど……うん、ノアくんの事ちょっと侮ってたね。急にこんな事になったし、あまり動揺を大きくしない方が良いと思って黙ってたんだ」
気の回し方が下手だったみたい、と自嘲するのは、アル自身が落ち着いていないからだろう。精神的に余裕がない時、人間は言動が悲観的になりやすい。
「兄さんは敵に刺されたんだ。腹の、この辺。その後も動けてはいたし、うちは治療手段も揃ってるから大丈夫なのは分かってるんだ、けど、……やっぱり安心は出来なくて」
「そうか。……血の匂いが残っているくらいだ、心配なのは当然だろう。俺も気になる。後で一緒に会いに行かないか」
「ありがと、そうして貰えると俺くんも嬉しいな」
いつもと同じような笑顔で、同じような声色でアルは話す。それは、一種の防御反応だ。普段と同じ振る舞いをする事で、精神状態を普段のものに近付ける。決して薄情だからではない。ノアには、それがよく分かった。何せ師匠がいなくなった時、同種の行動を取ったのだから。
「アルは大丈夫か。打ち身とか作ってないか」
「ちょっと打ち付けたとこはあるけど、もう手当ては済んでるよ。後でもっかい診るとは言われてるけどね」
血の匂いは薄いから、流血するような傷が無いのは分かっている。それでも無傷とはいかないだろうと訊けば、案の定怪我はしていたらしい。細かい診察を後回しにされたのなら、そこまで酷いものではないようだが。
「見せて貰えるか?治せると思うから」
「それは助かるけど……大丈夫?疲れてない?」
治癒に関する力を持つ精霊を呼びつつアルに提案すれば、心配そうな顔をされる。魔術を行使すると疲労が溜まるからだ。自分の力を振るっている訳ではないのに、不思議な事だ。
「俺はこの部屋に居ただけだからな。打ち身を直すくらいなら問題無い」
「じゃあお言葉に甘えて。えっとね、この辺の……あったあった、これだよ」
ズボンを捲って、ふくらはぎに薄い布が貼り付けてあるのを見せてくれる。少しツンとした匂いがした。薬を塗った布を貼り付けているのだろう。応急処置としてはよくある手法だ。
精霊に声をかけ、治療箇所を指定する。変に精霊に任せると余計な所まで影響が及ぶので、この辺の指定を怠ってはいけない。
ふわ、と一瞬風が吹くような感覚。髪だけが揺れ、すぐに収まる。アルが布を剥がすと、変色もしていない足が出てきた。
「綺麗に治ったね〜、ありがと。うちの人達の負担が減ったよ」
ズボンを元の位置まで戻すアルの空気は、僅かだが柔らかくなっている。周りの精霊が変わらず落ち着かない様子なので、まだ気を張ってはいるだろうが、これはもうフィリに会うまで変わらないだろう。かく言うノアも尻の座りが悪い。この部屋にいるのが今の自分のやるべき事だと分かっていても、落ち着かないのは落ち着かないのである。
そわそわする気持ちを抑え、窓ガラスと窓の鍵を元に戻したり、服を普段着に変えたりして時間を潰す。実際よりもずっと長く感じた十数分の後、ドアがノックされた。
「カトレアよ。今良いかしら」
「はぁい、どうぞ」
顔を出したのは、赤髪が特徴的な女性。双子の同期のうち一人、カトレアだ。何故か白い上着を着ている。制服とは違い、幾つかシミが出来ているのがよく目立った。
「フィリの処置が終わったわ。痕は残るか残らないか微妙なところね」
「分かったよ。兄さんのとこに行きたいんだけど、大丈夫?」
「ええ。案内するわね、着いてきて」
少し食い気味に希望を出したアルの反応は予想していたのだろう。二つ返事で頷き、すぐに案内を始めてくれる。
「安静期間はある?」
「急所は外していたし、毒物も無かったから基本的には動けるわ。傷口が開かないよう、念を入れて一週間は手合わせ禁止。基礎訓練は制限無しよ」
「了解、ありがと。じゃあ授業には出られそうだね」
「ええ。今は処置した空き部屋にいるけれど、面会が終わったらそのまま部屋に戻って構わないわ。フィリにもそう伝えてあるから」
「はぁい」
アルが確認事項を訊き、端的な返答を貰う声が廊下に響く。小声だが、いかんせん夜中なので物音が他に無いのだ。
階段を一つ上がり、今は使っていない空き部屋が並ぶ階に足を踏み入れると、明かりの点いた部屋から人の声、足音がする。どうやら魔術で防音措置を取っているらしい。黒地に銀縁の服装が行き来しており、この間まで過ごしていた宮廷魔術師団本部にあった適度な緊張感がここにも流れている。
カトレアが階段に程近い部屋のドアを開けたので後に続く。備え付けのベッドの上にフィリが座っていて、アルとノアを認めて小さく手を振った。
「やっほー兄さん、ノアくんは無事だよ」
「うん。良かった」
二人にとって最重要なのだろうノアの無事を共有したところで、カトレアが机の上に置いてあった紙を手に取ってこちらを向く。
「アル、適当に座って頂戴。確か打撲があったでしょう?診るわ」
ここでようやく合点がいく。カトレアは呼びに来ただけかと思ったが、宮廷魔術師団で治療も担当しているのだろう。だから白を着ているのだ。治療師は血や薬が付着していないか分かり易いように白い服を着るから。
「それなんだけど、ノアくんが治してくれたよ。過剰も無し」
「そうなの?助かるわ、ありがとう。でも記録は書かないといけないから、一度見せて頂戴」
「はあい」
アルがズボンを捲り上げているのを横目に、フィリの横に腰を下ろす。
「『極光』か?」
「うん。今回は中核に近いメンバーが出て来ていた。シンボルを目視している」
「……師匠の事も、確定か」
「そう見て良いと思う。こうなると、フランツとリリアとの約束は守れないかも」
「次の休みか」
「そう。二人共わかってくれると思うけど」
生徒会室で、次の休みはリリアに服を見繕われる約束をしていたのを思い出す。ここまで直接的に危害を加えられた今、ほぼ無関係の二人と出掛けるのは危険過ぎる。
「フランツは特に残念がるだろうね〜」
どうやら聞いていたらしいアルが、ズボンを戻しながら器用に近付いてくる。その言葉が予想外で、ノアは思わず首を傾げた。
「フランツなのか?リリアではなく?」
「うん、フランツ。あいつ、気の合う友達と買い物するのが好きなんだよ。普段は政治に絡んだ付き合いが多いから、趣味の買い物を一緒に行ける友達は意外と少ないんだって。長期休暇とかで家に帰った時、わざわざ俺くん達に連絡取って買い物行ったからねえ」
「そうだったのか」
生徒会室では本意ではないような顔をしていたが、あれは一種のポーズだったのだろうか。だとしたら少し見栄っ張りのような一面があるのかもしれない。
「埋め合わせは考えとくよ。多分、落ち着いたらリベンジとかになるんじゃないかなあ」
「分かった。ノア、大丈夫?」
「予定はお前達と共同だし、フランツとリリアは嫌じゃない」
「おっけ〜、じゃあこっちで連絡取りつつ調整って事にしとくね」
初めて出来た同年代の知り合いとの外出は、ノアにとっても楽しみだった。もう一度機会が貰えるなら、それに越した事はない。
「はいはい三人とも、楽しい予定に話が弾むのは分かるけれど、良い加減寝た方が良いわよ。見張りはこっちでしておくから」
ぱんぱんと軽く手を叩いたカトレアに促され、そういえば就寝時間だったと思い出す。すっかり目が冴えてしまっているが、ベッドで横になるだけでもしておくべきだろう。双子は疲れているだろうし尚更だ。
「はあいカティ母様」
「こんな大きな子供を持った覚えは無いわよ」
苦笑するその顔は仕方ないなと語っていて、母親というのはこういう雰囲気の人間なのかと気がついた。勿論全ての母親がそうではないだろうが、典型的な雰囲気は今のカトレアのようなものなのだろう。肉親を持った事のないノアにとって、この気付きは新鮮だった。
部屋に戻るまでの短い間に、家族について少し考える。ノアにとって父親は師匠だ。普通とは違う部分も多いけれど、父親と呼べるのは師匠だけだと思う。母親は……カトレアとはそこまで深く接していないから、何だか違う気がする。ハイルフィリアも同様だ。今、家族と呼べるくらい心が近しいのは、師匠以外だと双子しかいない。
では、双子との関係は何だろう、と考えた時、自然に浮かんだ言葉が口から溢れる。
「兄弟か」
「ん?ノアくんどうかした〜?」
丁度部屋のドアを開けていたアルが振り返る。フィリも立ち止まってこちらを見ている。二人分の視線を見返し、やはり兄弟が一番しっくりくるなと思った。
「俺にとって家族は誰かと考えていて、師匠は父親だが、二人は兄弟だなと」
「ほんと?嬉しいな、俺くん達にそこまで気が置けない間柄を許してくれるんだ」
小声だがスキップしているような口調で喜び、アルが笑み崩れる。その横で、フィリが微かに口角を上げた。
「嬉しい。ありがとう、ノア」
思わず口を開けてしまう。フィリが、何があろうと一切表情の変わらなかったフィリが、本当に少しだけとはいえ笑みを見せている。感情を取られてしまったと話していたのに。
衝撃冷めやらぬノアに小走りで駆け寄ってきたアルが、抱きつくようにハグしてくる。それに応えながらも、思考は混乱し切っていた。あの笑みは、義務感から浮かべられたものではない。そのくらいは分かる。そもそも義務感で笑顔を浮かべるようなフィリではない。一体どうして。
「ノアくん、あのね、一つ言ってなかった事があるんだ。兄さんは確かに感情のほぼ全てを無くしてる。でも、一つだけ残った感情があるんだよ」
答え合わせをするように、アルが秘密を口にする。潜められた声も相俟って、その秘密は穏やかに心に染み入った。
「兄さんは、家族愛を持ってるんだ。だから、家族には表情を動かしてくれるんだよ」
本編は最後まで書き上げられました。現時点で文量で言えば半分くらいがアップロードされています。さっくり短めに纏まりました。
時系列的に書けない部分も多かったので、そこは番外編みたいな感じで気儘に書いています。そちらも上げていければなと思います。よろしくお願いします。