表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/58

プロローグ

「いやほんと、あの時のお前ときたら襤褸切れだったね。襤褸切れみたいな子供じゃなくて、子供みたいな襤褸切れだったよ」

 師匠は時折、口癖のようにこう言う事がある。懐かしむように目を細めて、遠くを見るような目をして。一番最初に言われた時は、確か師匠との手合わせで派手に吹き飛ばされてぼろぼろのまま地面に転がっていた時だった。

「……今の俺の方がよっぽど襤褸切れらしいと思いますけど」

 何せ泥塗れで地面に落っこちている状態である。師匠の言うあの時の自分の方が綺麗な状態ではあった筈だ。しかし、力無い自分の反論はにやにや笑う師匠に蹴飛ばされた。

「いーや、今のお前は襤褸切れなんかじゃないね。立派に育ったよ、お前は。可愛い俺の弟子」

 その時の師匠の声が優しくて、暖かくて──父親の時の声で。自分は、黙るしかなかった。

 それからも時折、師匠はあの言葉を口にする。段々と慣れてきて、意味も何となく分かるようになってきた。だから、こんなやり取りが生まれる。

「襤褸切れじゃなくなったんで、早いこと俺を認めて貰いたいもんですね」

「あっはは、言うなあ」

「当然でしょう」

 愉快そうに笑っている師匠に、こちらも少し嬉しい気持ちになりながら、誇らしく告げる。

「俺は師匠の弟子なんですから」

 その言葉に、すうと目を細めて、師匠と呼ばれた男は過去を思い返した。


 × × ×


 その日、とある大貴族の屋敷の奥の奥にある部屋の扉を開け放った男は、無遠慮に顔を顰めた。

「……何だこりゃあ。こんなん子供じゃねえだろ。人形……いや襤褸だな。襤褸切れだ」

 流れるような黒の長髪に、細身だが上背のある美しい男だ。黒曜石によく例えられる瞳は涼やかで、目を細めるだけで年頃の女が黄色い悲鳴を上げる色香がある。そんな美しい造作も台無しになるような乱雑な言葉遣いに無神経な言葉選びだったが、それすらもギャップといってきゃあきゃあ騒がれるのだから色男というのは得である。個人的には面倒なので損だと思っているが。

 閑話休題。

 男が襤褸切れと呼んだのは、部屋の中央に置かれた椅子に座る子供である。普通ならいきなり入ってきた大人がこのような事を言い放てば、怒るか困惑するか怯えるかするところだ。しかし、この少年はそのどれもせず、ただそこに座ったままでいた。座っているだけであった。それが、男の勘に触る。

 こんなのは子供じゃない。こんなのは人間じゃない。ただ生きているだけの肉袋、襤褸切れと呼んで差し支えないだろう。

「おいお前。お前だお前、座ってるお前。名前は」

 ずかずかと近付いて、腕を組んで見下ろす。威圧的な仕草だと自覚していた。していたけれど、この襤褸切れなら問題無いと分かってもいた。ただ息をしているだけのこれならば、何も感じないだろう。予想通り、襤褸切れはぼんやりと焦点の合わない瞳のまま何も変わらずそこに座っていた。

「耳が聞こえてないのか?おい、ひとまずこっち見ろ」

 肩に手を当ててしゃがみ、強引にでもこちらを向かせようとした矢先、ようやく瞳が動いた。ふらふらと彷徨った末、ゆっくりとこちらに焦点を合わせる。……胸糞悪い話だが、恐らくこいつは生まれて初めて物を見ている。ただ視界に写すのではなく、意図して何かを見ている。聞く方も同じ。反応が遅いのは致し方ないと諦めるべきだ。

「聞こえてるな。見えてもいる。身体機能に問題は無いのか。それじゃあ名前は」

 もう一度問い掛けるが、答えが無い。反応が鈍いにしても限度がある。少し考えて、ある可能性に思い至り──男は、その可能性の忌々しさに舌打ちをした。

「声の出し方が分からないのか」

 事前に得た情報からして、この襤褸切れはこれまで人間として生きてこなかった。つまり、誰かと言葉を交わすなんて機会は無かったのだ。

「俺の真似をしてみろ。口を開けて、喉を震わせるんだ。……いや待て、その前に言葉は分かってんのか?」

 考えれば考えるほど最悪だ。何もかもが嫌になってくる最悪さだ。ぼんやりと座り続ける襤褸切れにも嫌気が差しそうになって、それだけはいけないと思い直す。自由意思を丁寧に丁寧に殺された末の今なのだ、こいつにはどうしようもなかった。

「こうなっちまってるもんは仕方ねえな。よっと」

 どうしようもない事をどうしようもない相手にぐちぐち言っても仕方ない。見た目だけは綺麗な襤褸切れの脇に手を差し込み、そのまま勢いに任せて抱き上げた。尻の下を腕で支えるようにして、片腕で抱いて安定させる。体が不安定な状態になる事を厭う本能はあったようで、襤褸切れが腕を首に回してきたのも幸いした。空いている方の手で背中を軽く叩いてやったが、相変わらず反応は無かった。


 襤褸切れを抱えたまま廊下を歩く事少し。立派な扉を無遠慮に開け放ち、男はにっこりと愛想良く微笑んだ。

「よお公爵殿。約束通り貰っていくぜ」

「……見せないでくれと頼んだ筈だが、貴殿ともあろう方が忘れたか?」

 重厚な机の向こうで顰めっ面をする男性──公爵と呼ばれたその人の事など意に介さず、男はからから笑う。

「そう言うなよ。ここまで丁寧に飼い殺してきたんだ、最後に一目くらい見といても損はねえだろ」

 襤褸切れは、貴族の屋敷に相応しい格好をしていた。質の良い服、きちんと手入れされた体。与えられた部屋にも、必要なものは全て揃っていた。ただ、それだけだ。人間と一切触れ合わせる事なく、ただ生きる事しか許さなかった。あの部屋にいた襤褸切れは、何も見ず、何も聞かず、何も感じず、何も考えずにただ生きていただけだった。これ程完璧な飼い殺しは見た事がない。人間としての意思を持たせなければ、ただの人形と同じように扱えるのだから。

 それが嫌で嫌で仕方がなかったから、意趣返しを少ししに来たのだ。この子供を、こんな襤褸切れにまで落としたこの男に嫌な顔をさせたかった。まあ多少は気が晴れたな、と踵を返し、ひらひらと片手を振って別れを告げる。

「宮廷魔術総師団長殿とは思えない粗雑さ、非礼さだな。噂以上だったよ、ハインツ=ゲルシュナー殿」

「お褒めに預かり光栄だ、ラインマン公爵閣下」

 後ろから追いかけてきた恨めしげな声を鼻で笑い飛ばして、男──ハインツは、この国一番との呼び声高い公爵家を後にした。


 × × ×


「……あれからもう六年か。早いな」

 当時十歳だった襤褸切れは、言葉を覚え、感情を知り、すっかり十六歳のただの子供になった。すやすやと気持ち良さそうに眠る愛弟子のさらさらの金髪を撫でながら、ハインツは一瞬の懐古から戻ってくる。

「子どもの成長には驚かされてばかりだな。まさか父親じみた真似が俺に出来るとは思わなかったよ」

 この六年は、それまでの二十年とはまるで違う密度と色を持っていた。それをもたらしたのは間違いなくこの愛し子だ。自然と笑み崩れる顔を自覚しながら、揺れるランプの火を眺める。

 子供を育てるというのは、存外自分も育てられるものだった。六年前の自分には足りていなかった人間味というものが、弟子を育てる過程で随分得られたように思う。あの時強引に公爵家に踏み入って引き取って正解だったな、と満たされた気持ちになりながら目を瞑った。


 × × ×


 いつだって、気付かないうちに大切なものを奪われている。

「師匠!!」

 自分が叫ぶ声がどこか遠くに聞こえる。伸ばした手は届かない。視界の先で師匠が黒い靄に絡め取られる様を、ただ見ていることしか出来ない。

 ──また、奪われるのか。俺の全てが。俺の世界が。あの暗闇から救い出してくれた光を、俺に差してくれた光を、奪おうというのか。

「ノア、」

 師匠がこちらを振り返る。何よりも美しい黒曜石が、とろりと溶けたように細められる。

「迷うな。恨むな。憎むな。覚えているね」

「やだ、待って、ししょ……!」

 穏やかな声で、まるで別れを告げるように言葉が紡がれる。それが嫌で嫌で仕方なくて、我儘な子供のように声を上げてしまう。それを嗜めるように笑われて、言葉が喉に詰まって出てこなくなった。何で、どうして、そんな風に笑えるんだ。現状を理解してない訳がないのに、何で。

「そんな顔、しない、ノア。俺は満足……してる、んだ」

  少しずつ声に苦悶の色が混ざってきて、途切れ途切れになって、それでも笑っている。

「あいしてるよ、のあ」

 そんな言葉、聞きたくないのに。

 優しい優しい、掠れたその言葉を最後に、最愛の師匠──世界一の魔術師は、ノアの前から姿を消した。

初投稿。何か不手際等ございましたら、お手数ですがご連絡頂けると幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ