三話-17 本当の狙い
咲夜と景文さんとの話し合いが終わったのは夜遅い時間だったのもあり、これ以降のことは後日にしようということになり解散。
ここで一夜を明かすことは不安もあるものの、人気のない夜間に動くよりはましだ。
結界も入念に複数重ねて張り、安全を確保してから就寝することにした。
もしこの後で何かあるとしたら寝入った後だろうから。
そうして特に何かある訳でもなく朝を迎え、目を覚ました僕は目の前に立つ人に目を向ける。
「昨日といい、よくもまぁこれだけ襲われるものですね」
僕が起きた直後、その瞬間を狙ったかのように放たれた何かがたっぷりと塗りたくられた針が音を立てて落ちる。
良くて麻痺毒、悪ければ即死系の類だろう。それほどの殺意があの針には込められていた。霊力だって並々ならないくらいに込められていたくらいだ。
おそらくは起き抜けの寝ぼけ眼のうちにやってしまおうという魂胆だろうけど、それなら深夜の内に行動を移さなかったのが解せない。
いや、それは違う。ここしかなかったのだろう。最も警戒をしていた夜間を抜け、景文さんが警戒心が薄らいだ今しか機会はなかったのだと理解した。
「残念でしたね。藤原さん」
「あーあ、マジかよ。これ以上ないくらい完璧だっただろうに」
「完璧ですか。僕が悪意を感じ取るくらいのことは知っていると思うのですが? お陰様で最悪の目覚めですよ」
「そうかい。術で自分の体を遠隔操作してるようなものだからこの体からは殺気はないはずなんだけどな。どこでしくじったんだかな」
「えぇ、貴方からは殺意は感じませんでしたよ。僕は違う部分で最初から貴方のことは疑っていました」
「うわぁ……駄目じゃん。まさかのまさか、最初っからかよ。こうなったら後学の為に是非教えて欲しいところだけど」
「それを言ってしまったら対策されるので言いませんよ。当たり前でしょう? 勿論、このまま帰すつもりもありません」
「それもそうだわな」
言いながら振るわれる小刀。おそらくは霊具の類で、あの蜘蛛切りのように特別な浄化の力を宿しているみたいだった。
だけど僕を覆う結界をどうにかすることは出来ない。
あの水龍の絶えず流動し続ける結界を模したことで、ただの浄界であっても前みたいに破られることはもうないのだから。
例え水流を一度切ったところで絶え間なく流れる水によってすぐに塞がれるように、堅牢さはそのままに即時修復能力と流動性による防御力向上も見込めた。浄化の力を持つ武具に対しての効果も実証出来た。
藤原さんは結界を自力ではどうにも出来ないと判断して間合いを取ろうとする。
「浄界」
しかし、跳んだところで結界に当たるだけで部屋からの離脱には失敗。
藤原さんは前方にも後方にも結界があり身動きが取れない。
一級退魔師の二人だって浄化の力を持った武具なしでは突破出来なかったのだから当然だ。
どうすることも出来ないことを理解して彼は口元を吊り下げた。
「逃げ場もなくなったか、これはいよいよ詰んだかな?」
「逃すつもりはありません。応援もすぐに駆けつけて来ることでしょう。投降するなら悪いようにはしませんよ」
「ははっ、それを言うには少し早いんじゃないか?」
「……と言うと?」
「宝蔵咲夜」
「…………………………」
「やはり、君にはそっちの方が狙い目らしいな?」
何故という思いはある。けれど、それ以上にこのまま彼を放置することは出来ないと判断した。
まずは抵抗力を削ぐ為に妖怪と同等の浄化の力を彼に浸透させていく。
「う、ぉ……なんだ、これ……力が……っ! あ、頭が……あ゛ぁ゛ーっ!」
浄化の力のみを操って敵対者の体内に流し込んでいく。
善の者であれば癒しを、悪の者であれば裁きを与える力は彼に痛みを与えていた。
人に対して攻撃的な浄化の力を使うことにもう躊躇いはなかった。
「咲夜の身に何かあるというのなら今すぐに止めて下さい。そうすればその痛みもなくなります」
「それ、は……出来ない!」
「やはり、貴方に直接言っても無駄ですか」
ここに来た時からずっと彼の周りには僕への害意、敵意、殺意に塗れた怨讐のような感情が渦巻いていた。それらは時間の経過と共に膨れ上がっていき、今では彼を覆い尽くすほどに増していた。
この怨念たちとは僕のことを邪魔に思う人たちで、ここで差し向けた刺客なのが藤原さんだということだろう。
なぜ最初にではなく、今なのかは考えたところで意味はない。
「問答は時間の無駄なので一言だけ言います。何かしようとしているのであれば、即座に止めてこれ以上僕達に関わらないで下さい。でなければ後悔をすることになりますよ。背後にいる人たちも含めてです」
藤原さんは何も答えない答えられないと言うのが正しいか。
問答はしたところで無駄と悟ったので端末を弄る方に注力することにする。
実は先ほどから咲夜に通話を試みているものの、一向に出る気配がない。もしも咲夜があの電話の後から襲われているのだとしたら、あまり悠長にやっている暇はないということになる。
こうしている時間も今は惜しい。
「もしもし、景文さんですか」
『あぁ、おはよう。清花さん。……声が少し硬いようだけど、もしかして何かあった?』
「まずは落ち着いて話を聞いて下さい。今、藤原さんに襲われたところでして。彼が言うには別動隊のようなものが咲夜の方を狙っているみたいなんです。向こうの状況を確認したいので宝蔵剣護さんがどこにいるか確認してもらえませんか?」
『すぐに取り掛かる。少し待っていてくれ』
一旦通話を止め、状況の確認の為に待つことにする。その間も咲夜に連絡を取ろうとするけれど、一向に出る気配はなかった。
本当は今すぐにでも発ちたい所ではあるけれど、どれだけの時間が必要かも分からないので下手に動くことは出来ない。
焦ったい気持ちを抑えること数分ほど、折り返しの通話が鳴る。
『今、剣護に確認して貰ってる。清花さんは今どこにいる?』
「自分の部屋です。結界を敷いているので入る時はご注意を」
『分かった。すぐにそっちに向かう』
通話が切れてからすぐに景文さんと宝蔵剣護が駆け込んでくる。
二人とも、まだ起きて間もないのか着替える暇もなく寝巻きのまま来ていた。それは僕も同じだけど。
景文さんは入ってきてすぐに藤原さんのことを発見しこちらに問いかけてくる。
「状況は?」
「藤原さんは無力化しています。こちらに怪我はありません。それで、宝蔵家に連絡は取れましたか?」
景文さんが僕の状態を確認しようと視線を向けてきては視線を逸らしている。
それを今は見ないフリをして尋ねると、宝蔵剣護さんは無表情のまま答えた。
「今し方取れた。安心しろ、咲夜は無事だ。どうやら通話機器を先に破壊されたらしくてな、それで通話が出来なかったみたいだ」
聞けば宝蔵剣護は以前のように断るでもなく、素直に答えてくれる。実力を認めてくれたお陰だろうか。
「ありがとうございます。つまり、もう既に襲われているということなんですね」
「今はウチの奴らに対処はさせているが、何しろ襲撃者の数が多いらしい。それに実力も相当のものだと聞いている。一般の非退魔師従業員の保護も併せるとなると安全の確保には難航しているみたいだな。今から行っても間に合うかどうか分からんぞ」
「自分で走ってでも行きますよ。でも、その前に……」
「何をする気だ?」
僕が倒れ伏す藤原さんに目を向けたことで何かする気だというのは理解出来たのだろう。
彼も古くからの付き合いではあるはずなので、心情的には彼の味方の宝蔵剣護は内心で身構えていた。
対して景文さんの方は冷静に物事を観察していてくれている。
「宝蔵……剣護さん、彼のことを強めに押さえつけていて貰ってもいいですか? 別に命までは取らないので。必要なことなんです」
「……分かった。ウチが襲われているとなると俺も部外者じゃないからな。利道、悪く思うなよ」
浄化の力を解き、再び動けるようになった瞬間に藤原さんは飛び起きて逃げようとするものの、それはすぐに剣護さんに捕まった。
後頭部から押さえつけられ、体格差で地面に縫い付けられた彼は苦しそうな息を漏らす。
「景文さんは車の手配をお願いします。これが終わり次第すぐに向かいたいので」
「了解した。すぐにやっておく」
「二人とも、ありがとうございます。それではさっさと終わらせましょう」
僕が藤原さんに近寄って彼の頭を触ろうと屈んだ、その時に背後からいくつかの足音が聞こえてくる。
「さっきの物音は一体……って利道⁉︎ どうして利道が抑え付けられているの⁉︎」
一番に駆け付けた名雪さんの悲鳴じみた声が響き渡り、その後ろにいた人たちも何事かと顔を覗かせてはギョッとした顔をする。
出来ればこうなる前に何とかしたかったところだけど、抑えつける役目を彼に任せたのが良くなかったか。余計な音がしたせいで一斉にこちらへやってきてしまったようだ。
後ろでは僕達のところに駆け寄ろうとする名雪さんたちの前に景文さんが立ち塞がったようで、空気は一触即発の様相を呈していた。
「今、宝蔵家とそこに滞在している咲夜さんが正体不明の集団に襲われている。それと同時に利道が清花さんを襲撃したみたいだ。それはコイツがここにいることから分かるだろ」
「そんなこと……っ! 清花ちゃんが誘った可能性だってあるでしょ⁉︎ とにかく話を……っ」
「宝蔵家には剣護から連絡をして貰ったから間違いない。そっちでも確認してみるといい。それまではここを通すことは出来ない」
淡々と事実を突きつける景文さんに、名雪さんは感情的になりながらも否定する材料がないことを理解して体を震わせる。
「そ、れは……っ! いや、それよりもまずは話を聞きたいから彼を離してあげて!」
名雪さんはどうにか景文さんの体から顔を覗かせて僕の方に直接呼びかけてくる。
けれど、それは出来ない相談だった。
「それは出来ません」
「何で……⁉︎」
「今からすることにはこの方が都合がいいからです」
「意味が分からないんだけど!」
流石にこれ以上は黙っていられないか。こちらも話し合いをしている時間はないので無視することにした。
「すみませんが、景文さん。もしもの場合は実力行使で黙らせて下さい」
「あぁ、了解した」
彼が答えるのと同時に名雪さんの焦ったような声が聞こえてくる。
景文さんが相手となるとこの場の全員で掛かっても返り討ちになるのは明白だった。
それ故の絶望の声には僕も罪悪感を感じる。けど、それは些末なこと。
「名雪、俺からも警告する。清花さんの邪魔をするならお前も利道の共犯として扱うことになる。後ろの奴らもだ。だから今は余計な手は出すな」
「ってなことだ。清姫が何をするつもりかは知らんが、こういう時の浄化使いは怒らせると怖ぇのは知ってんだろ。いいから黙って見ておけ。コイツのやることだ、悪いようにはならんはずだ」
二人からの援護もあってか、他の人たちはこれ以上足を踏み入れようとはして来なかった。
改めて藤原さんに向き合い、彼の頭に手を置いて語りかける。
彼は自分の運命を受け入れたように諦観めいた顔で僕を見ていた。
「以前、僕が白面の文体と戦ったのは知っていますよね」
「それが……どうした」
「その時に僕は分体を通じて本体にも攻撃をしました。どうやって攻撃をしたか、知っていますか?」
「知っている訳ないだろ」
「正解は繋がりです。分体には自らの妖力を送り込む為の繋がりという名の糸がありました。それを辿って浄化の力を当てたという訳です」
「まさか……」
正解を理解した彼はみるみるうちに顔を青ざめていく。
これから起こることをようやく想像出来たようだ。
「そのまさかです。貴方に纏わりつくようにあるその邪悪な思想、意図、思惑、感情。そういったものを辿ってこれから浄化の力を当てていきます。初めてやるので正確に出来るかどうかは分かりませんが、以前にやったこと。やってやれない事はないはずです。為せば成る、昔の人は良いことを言いましたね」
「や、やめろ。そんなことをしたら……っ」
「それならお仲間に働きかけて今すぐ止めますか? いえ、この場合は別の実行犯たちと言い換えましょうか?」
「君は……どこまで」
「さぁ? 僕に分かるのは、その邪悪な思惑が名雪さんの首にも手をかけていることだけです。大方、彼女を人質にされているとかですか? それなら貴方自身からは殺気を感じなかったことにも納得がいきます」
後ろから息を呑む気配がした。周りの視線が藤原さんに集中する。それを受けて彼は視線を地面に落とした。
「藤原家ほどの家なら今起こっている凶行を止めることも可能では? まさかご実家が首謀者という訳ではないでしょう? ここでご連絡なさいますか?」
「…………俺からは何も答えられない」
「そういう呪いか何かですか。契約か、縛りのようなもの……体内にあるのはそれですね」
彼は何も答えない。それも言えないのか。それだけの縛りを課すということは強い呪いになるということ。
それは転じて浄化使いに察知され易いということを知らないのだろうか。
ご丁寧に隠蔽をしようとしているけれど、白面に比べればお粗末以外の何物でもない。舐めているのかと思ってしまうくらいだ。
「その呪いも含めて、これから僕の敵を殲滅します。一応は共犯扱いなので多少どころではない痛みが貴方を襲うでしょうが、それは我慢して下さい。そこまでは面倒見きれません。少なくとも、死なせはしないのでご安心を」
そう言うと、彼は少し笑って。
「やってくれ」
瞬間、僕から彼を通じて全ての悪意に向けて浄化の力を走らせた。
先日に景文さんに助けられてから、昨晩の話し合いの後にも霊力は更に増大していた。それらのほぼ全てを流し込む。
あの神様の試練で培った浄化の力の扱い方はこの時の為にあったのだと思うくらいに効果を発揮していた。
その着火点となった藤原さんの口からは想像を絶する悲鳴が響き渡るけれど、彼から浄化の力を受け取った末端に至るまでの敵は彼以上の痛みに苛まれているに違いない。
ひょっとするとどこかで死人が出ているかもしれないけれど、僕ではなく非戦闘員である咲夜に襲いかかったのだから自業自得というものだろう。
力を流し続けていると、どこかで浄化の力が作用している感覚がある。それが一つずつ消えていく。
ここの近くでもバタバタと倒れてはいるけれど、おそらくは藤原さんが失敗をした時の後詰部隊といったところか。
とにかく数が多いからその分だけ霊力は必要だけど、力の扱い方がましになった今では効率的な運用も出来た。
現状出来得る限りの最小の力で最大の効率を出していけばあと少し時間があれば完全にし処理し切ることが出来るはずだ。
「と、利道が……! 利道が死んじゃう……っ‼︎」
後ろから名雪さんの心配する声が聞こえてくる。しかしそれは周りの人たちに力尽くで止められているせいで近づいては来れない。
未だ押さえつけられたままの藤原さんは息も絶え絶え、叫びすぎて喉が枯れているのか掠れたような息遣いが聞こえる。
しかし、まだ彼を取り巻く薄汚い気配は完全には取り払われていない。
「まだ、いけますよね?」
「や、やって……くれ」
本気で暗殺をしに来なかったのは人殺しをしたくなくて失敗をしたかったからか、あわよくば僕に何とかして欲しいと思っていたからかもしれない。
しかし、彼に纏わりつく悪意はちょっとやそっとでは剥がれはしない。彼自身、その人たちに命令されて良からぬこともしていただろう。
そんな彼を焼く浄化の力は妖怪に対してのそれと変わらないはずだ。
本当ならもう止めてと言いたいだろうに、痩せ我慢をしてでも守りたいものを守ろうとする姿は男の子なんだなと感心する。
「我慢強い人ですね。そして、よく頑張りました」
ここまでで敵の大半は既に戦闘不能になったことだろう。もう彼も限界に来ていることだし、更に力を注ぎ込んで力技で一気に残りを捩じ伏せることにした。その衝撃に藤原さんはより一層の悲鳴を上げる。それで感じていた気配はひとつ残らず消え去った。
すると彼を取り巻く嫌な気配が少しずつ薄まっていき、それは次第に少なくなり、遂に無くなった。
僕が頭から手を離すと、藤原さんは気を失って倒れ込む。
「利道っ!」
僕と剣護さんが離れると、すぐに名雪さんが駆け寄ってきて彼を抱き起こす。
その様子から本当に彼のことを愛しているのだなと感じるし、名雪さんにそんな顔をさせたことに罪悪感を感じない訳でもない。
「これを飲ませてあげて下さい」
浄化の水を少し薄めたものを浮かべると、名雪さんは一瞬躊躇した後に頷いてそれを手に受け取って藤原さんの口に移していく。
始めは辛そうだった彼の表情も少しずつ和らいでいき、全て飲み切ったところで完全に落ち着きを取り戻したようだ。
それを見届けて周囲からは安堵の息が漏れ出る。やはり彼らにとっても藤原さんは大切な仲間ということなのだろう。
そんな仲間を事情があったとはいえここまで痛めつけてしまっては彼らから恨まれるかもしれないけれど、こちらに立って事情がある。そこについては仕方がなかったと飲み込んでもらうしかない。
「剣護さん、あちらの方はどうでしょうか」
「どうやら今ので粗方片付いているようだな。話を聞くに突然もがき苦しんで一人残らず倒れたらしい。継続して戦闘可能な敵はいないそうだ。つまるところ事態は収束したようだな。……全く、とんでもない奴だな」
「……そうですか。とりあえずは良かったです」
ダメだったら全力で走っていく覚悟をしていたけど、これなら車で向かっても大丈夫そうだ。
出来ることなら今すぐにでも向かいたいところではあるけれど、さすがにこちらを放置しては行けないか。
「藤原さんはそこのベッドに寝かせてあげて下さい。硬い床は体に悪いですから」
「……何が何なのか分からないけど、利道を助けてくれたって解釈でいいの?」
「状況的にはそのようですね。僕としてはいいように利用された気分なんですが。そこのところどうなんですか、文奈さん」
名雪さんたちと一緒にやってきた彼女は昨日と違って簀巻き状態でも猿轡もしていない。
その文奈さんはこちらに歩み寄ると僕と名雪さんに向かって深々と頭を下げる。
無表情の奥に満足気な感情を隠している彼女の真の目的はここにあったようだ。
それはおそらく僕のみが知る真実で。
「全ては私が計画したことです。名雪と利道君をここに招けばこうなることは分かっていました。責めるなら、私を……」
「その前に一つだけ聞きます。事前に訳を話したりは出来なかったのですか? 僕達が協力して何とかする未来はなかったのですか?」
「前に言いました通りです。未来は些細なことで変わると。最善の未来の為には仕方のないことでした。何度やり直しても私はこの道を選ぶつもりです」
「……そうですか。文奈さんの考えは理解しました」
僕には、彼女が今回のことが必要だと思ってやったことだから、心からは悪いとは思っていないのは知っている。
最善の未来の為という行動原理、弓削文奈という人はこういう人なのだと既に理解しているから腹が立ったりはしない。
事前に事情を言うことで僕がここに来ない選択を取ることで霊具を作る切っ掛けがなかったら、僕が誰にも襲われずに帰宅していたら今より強くなろう強くは思わなかったかもしれない。その未来だったら神様に会わず、景文さんとの今の関係もなかっただろう。
その場合の僕は今の僕よりずっと弱いままだったはずだ。
そう考えると結果的には良いこともあったように思う。そこには僅かばかり感謝する部分があったりもする。
ただし、何か間違えれば悲惨なことになりかねない危ない橋であったことも事実。
特に彼女の策略のせいで無力な咲夜まで危険に晒されたことを考えると、僕の心情としてはこのまま何のお咎めなしには出来ない。
そのことまで理解し、おそらくはこの後のことも知っている文奈さんは恭しく首を垂れて沙汰を待っていた。
「それなら藤原さんと同じ目に遭って貰います。何故かは、ご自身がよく理解していますよね」
「勿論です。それが罰ならば、甘んじて受けます」
「えぇ、先日の分も含めてそれで禊としましょう。僕の遺恨はここまでとします」
「寛大な御心に感謝を」
「僕なりに貴方の本当にしたかったことは理解しました。なので、この先にまだ何か企んでいるのなら先に吐いて下さいませんか?」
ダメ元で言ってみたところ、文奈さんは顔を上げて語る。
「あと一件、景文君が関わっていることで処理して欲しいことがあります」
「どうぞ、言ってみて下さい」
「藍ちゃんとお話をしてあげて下さい。それが貴方の為であり、彼女の為でもあるのです」
「そんなに時間は取れませんよ」
「それでも構いません」
「そのお願いで僕に身の危険のある可能性はありますか?」
「誓ってありません。宝蔵咲夜が以降に危険に陥ることもまたありません」
周りが唖然としている中、僕は文奈さんの頭に手を置いて浄化の力を彼女の身体に行き渡らせる。
淑女が出してはいけないような声をあげながら文奈さんはその場に膝をつく。
文奈さんを利用して僕を操ろうだとか、何かをさせたいと目論む人たち。
決して悪人という訳ではないけど、僕たちの意思を無視して自らの目的を遂行しようする人たちに向けて警告の意味を込めて浄化の力を流し込んだ。
先ほどのように咲夜を襲おうとする悪人に対しての絶大な効果があったとは思えないけれど、脅しとして一定の効果は見込めるはずだ。
悶絶しながら倒れ込んだ文奈さんはそのまま気を失って動かなくなる。
「藍さんというと……」
話に出たのは名雪さんの妹さんという彼女だけど、人見知りということもあってかまだ一度も面と向かって話をしていない。
それどころか自己紹介の時にそっぽを向かれてしまったので未だ言葉すら交わしていない。その彼女と話せとは一体どういうことなのか。
しかし既に本人は気絶してしまっているので話を聞くことは出来ない。
一番詳しそうな名雪さんは藤原さんの看病に掛かり切りで話を聞くことは無理そうだ。
事情に詳しそうなのは龍健さんくらいか。
彼は僕と目が合うとこちらに軽く手を挙げて近づいてくる。
「それについては本人と話すのが一番だろうね。まずはお疲れ様、と言っていいのかな」
「龍健さんは今回のことはどの程度までご存知でしたか?」
「咲夜嬢の件については何も。ただ、名雪嬢を取り巻く状況がよろしくないということについては多少のことは知っていました。情けない話ですが、他家の事なので下手に干渉が出来ずに今に至ります。その話を私の口からこの場でしていいのかは分からないので語れませんが」
状況的に考えて、名雪さんには何かしらの事情があって、それを何とかするべく藤原さんが動いていた。けれど、上からの命令には逆らえずに僕を亡き者にする命令を受けた。そのことを知っていた文奈さんは僕に何とかしてもらおうとここに呼んだといったところか。
いや、おそらくは少し違う。僕が思うに文奈さんは大局的な視点は持っていない。
彼女はもっと俗物的で、私欲に塗れた人間だ。それを大義というお題目で覆っているから見えにくいだけで。
その彼女からすればここでの出来事には何かしらの意味があったはず。
もしかすると僕が何も出来ないで拉致される可能性もあれば、藤原さんの暗殺が成功する可能性もあった。結構な博打だったとは思うけれど、文奈さんの中では成功する算段の方が高かったのか。失敗する確率を度外視してでも何かを成し遂げたかったのか。
何にしても、ここまでのことは僕が自分で選んだ選択だと思っているのであまり気にはしないつもりだ。
「二人のことについては知っている人間は気を揉んでいたのです。私からもお礼申し上げます」
「僕は自分の身にかかる火の粉を振り払っただけなので礼を言われる筋合いはありませんよ」
「その割には事情を知った上で動いていたような感じを見受けましたが」
「途中途中の状況から薄らと察していただけで詳しい内容については何も知りませんでしたよ。彼が周囲の思惑によってここにいて、それが良からぬことくらいだとしか。もしも彼が事を起こさなかったら僕は何もしなかったでしょうし、やはりただの偶然です」
「ではそういうことにしておきましょう。名雪嬢も、それで構わないね?」
藤原さんの手を握っている彼女はこちらを見ることなく黙って頷く。
その顔は自分の婚約者、自分の好いた相手の異常を見抜けなかった後悔でいっぱいだった。
今の彼女に僕が声を掛けても心には響かないと思うので、慰める役は既知の間柄であるここの人たちに任せることにしよう。
これでようやくひと段落、と行きたいところだけどまだ完全には終わっていない。
もしも藤原さん経由以外で咲夜を狙われたら流石にここからでは何も出来ない。だからすぐにでも駆けつける必要がある。
「僕は咲夜が心配なので申し訳ありませんがもう帰ることにします。その前に文奈さんの言っていた藍さんと話したいのですが、彼女はどちらに?」
「彼女でしたら、おそらく自室にいるはずですが……」
「この騒ぎでも出て来なかったのですか?」
「それについては私の方からは何とも。こちらに来ない理由は知っているつもりですが……」
「? 何かあったのですか?」
龍健さんは言い辛そうに景文さんの方を見た。
先ほど文奈さんも景文さんに関係のあることだと言っていたし、もしかしたら既に彼との間に何かあったのかもしれない。
見れば彼の方もバツが悪そうにしている。僕と話をした時には見られなかった様子なので、これはその後に何かあったと見るべきか。
「何か訳ありのようですが、彼女のところへ案内をお願い出来ますか?」
「そうしたいのは山々なのですが、どうやら彼女は部屋にはいないようでして。先ほどから使用人に捜索をお願いしているのですが、未だ見つからないようなのです」
「もう帰ってしまったとかは?」
「それはないかと。あの子は一人で帰れるような性格ではありませんし。早朝だからどこかに行っているとも考えられません。何か考えがあるのは間違いないはずですが、理由が理由なので顔を出さない可能性は高いですね」
どうやら長年一緒にいた人たちでも予測不能な行動をしているようだ。
だからこそ彼女と話をして欲しいということなのだろうけど、いないものは仕方ない。
探している時間が勿体無いし、思えば最初から僕に対して良い感情を持っていない子だったのでここは咲夜の方を優先させてもらおう。
彼女の方から用事があるのなら帰るまでには何かしらの接触があるかもしれないから。
「それでは皆さん、短い間でしたが有意義な時間を過ごせました。またいずれ機会がありましたらお会いしましょう。それから念の為ですが、どなたかあのお二人を安全が確保されるまで保護をしてあげて下さい。それではまた」
本当はもっと丁寧に挨拶をしてお別れといきたいところだけど、状況が状況だからこれくらいの無礼は許してもらうとしよう。
深くお辞儀をしてから今日には帰るつもりだったので事前にまとめておいた荷物を手に取り、部屋から出る。
追いかけて来るのは景文さん。
「景文さん。外で待っているので準備が出来次第向かいましょう。一応、僕は着替えてから向かいます」
「分かった。すぐに支度してくる。車は建物の前に停めてあるはずだからそこで待っててくれ」
「分かりました」
景文さんと別れ、テキパキと早着替えしてから建物を出ると確かにそこにはここへ来たときに乗っていた車があった。
まだ彼は来ていないようで、中で待っていようと車の下まで向かう。
「……藍さん、で合っていますか?」
その前にはこちらを複雑そうな目で見る彼女の姿があった。