三話-11 招かれし者
正確な人物を教えてという彼に対して黙秘権の行使をするというやり取りを続けていたらあっという間に僕が使っていた個室へと着いた。
疑わしきは罰せずということで、武原さんが自白をしない限りは安全と言っていいだろう。多分、きっと。景文さんの鎌かけに引っ掛からなければ平気なはずだ。流石に推理だけで犯人として断定して攻撃はしないはずだから。
「では、ここで降ろして貰ってもいいですか?」
「もう大丈夫なのか? 何なら中まで運ぶけど」
「もう平気です。回復力には自信があるので。少し楽が出来た分、普通に動く程度のこと出来ますから」
地面へと降ろして貰うと自力で立つ。先ほどのようによろけることもなく、これなら自力でどうにか出来そうだった。
先ほどの話はお猿さんのせいでうやむやになってしまったけど、続きは僕の体調が万全になってからでいいだろう。今の疲れ切った状態で回答を出しても、それが本心からの答えなのか自分でもよく分かっていないだろうから。
それは彼も同じ。少し時間と距離を置いて冷静になってから今日のことを考える必要がある。
だからここで一旦別れることにした方がいい。
「良かった。でも異変があればすぐに言うんだよ?」
「はい。今日は本当にありがとうございました。お陰様で拉致されることなく済みました」
彼がいなければ今頃はどうなっていたか。ご老公は害意はないとは言っていたけれど、最終的な目的が僕に子供を産ませることな以上は何かしらのことを強要されたりしていたはずで。そうなったら最悪は逃げることも出来ずに永遠に檻の中という可能性もあった。
改めてそう考えると身震いをしてしまう。
相手が相手だ。景文さんには僕を見捨てるという選択肢もあった。
結果的に退魔師世界の重鎮とも呼ぶべき人たちに対して弓を引く形になってしまった。ともすれば彼にとってはこれから良くないことが起こる可能性だってある。それらに対して全ての責任を取れるとは思えないけれど、しっかりと誠意ある対応をしていきたいとは思っている。
「…………景文さん?」
なんの反応もないことに疑問を覚えて顔を上げると、そこには真上を向いて鼻を抑えている彼の姿が。
「い、いや……何も見てないぞ? 俺は何も見てないっ」
何を、と問う前に視線を落としてみて。
「あらら」
礼儀正しくお辞儀をしたのがいけなかったか、胸元の布がなくなった状態で頭を下げたものだから彼の目線では色々と見えてしまっていたようだ。
胸の谷間が少し見えてしまった程度でこの反応をするとは、彼は冷静ぶってはいてもまだまだ年相応ということだろう。
「お、怒らないのか?」
目を瞑り、頬を叩かれるのを覚悟している。
こちらがあれこれと考えているのが馬鹿馬鹿しくなるほどの煩悩っぷりだ。
「ぷっ」
「な、何で笑ってるんだ!?」
「触られたならともかく、見られた程度で怒ることなんてありませんよ。何ならもう少しよく見てみますか? 色々と助けて貰ったりしたお礼というには安すぎるとは思いますが」
「そ、そういう風に自分を安売りする真似は感心しない! 女の子はもっと慎みというものをだな……っ!」
この女慣れしていない様子は、なんと言うか見ていて微笑ましいものがある。
女慣れの特訓として咲夜とお風呂に入ったりした最初の時は彼のような反応をよくしていたものだ。
僕の場合、もっとあられもない姿を見てる訳だけども。
それに比べるとたかだか胸の谷間程度でここまでとなると、彼の奥さんになる人はこの先が大変そうだなとは思ってしまう。
一々こんな反応をしていては前に進めるものも進めないだろうと想像出来る。
「そうですか。でも、後になってやっぱりとなってもして駄目ですからね?」
「いや、そこはもう少し譲歩して欲しいというか…………ハッ!? い、いや、何でもない!」
再び布で前を隠すと、景文さんは視線を元に戻した。
刺激物がなくなってホッとしたのがありつつも、若干残念に感じているのは男の性か。
そこには共感が出来るような、出来ないような。
ともあれ、あまり刺激し過ぎると爆発してしまうかもしれないのでここで止めておいた方がいいだろう。
「だから別に怒らないですって。それより、そろそろ体を洗いたいので部屋へ入ってもいいですか? お互い疲れていることですし、ここらで一旦お別れということで」
「あ、あぁっ! 分かった。俺は周りを警戒しておくから、清花さんも出来れば結界を使って身を守っておいて欲しい」
「分かりました。景文さんも、警護をしてくれるのは嬉しいですが気を遣い過ぎて倒れてしまわない程度にして下さいね」
「その辺りの加減は自分でもよく知っているから気にしないでいいよ。それじゃ!」
「はい。先ほどは本当にありがとうございました」
去りながら軽く手を振る彼に頭を下げて礼をする。
その後、部屋に入って浴室の姿見を見てみたら、それはもう凄いことになっていた。
破れた服は廃棄決定のボロ雑巾同然、確かにこれを見たら千郷たちの血の気が失せるのも頷ける。失った血の量も半端ではないと見てわかるくらいだから。
試しにと軽く引っ張った服は瞬く間に二つに分かれ、胸を支えていた下着は辛うじて鉄線一本で保てていただけのやはり廃棄行き決定だ。
下は上に比べたらまだまともではあったものの実用に耐えるような状態ではない。
自分の視点から覗き込んだ限りではそこまでではないと思っていたけれど、こうして鏡で正面から見てみるとあられも無い姿という以外に言葉が見つからない。確かにこれは他人には見せられないし、皆のような反応にもなるだろう。
脱いだ衣服は全て血が着いている為に念の為持って帰ることに。
裸になってから鏡を見る。衣服とは違い、見慣れた身体には傷一つないのが逆に不自然なくらいだ。
浴室に入り、まずは汚れだけ落とそうとシャワーを浴びるけれど、体を洗う為の腕が持ち上がらない。
(負けた……)
周りが水が跳ね返る音で染まる中、頭の中ではあの人が助けに来てくれるその前のことでいっぱいになっていた。
負けないと約束をしたはず。
一度たりとも負けてはいけないはず。
でも、負けた。その事実は変わらない。
その為の力が足りなかった。ただ、それだけのこと。負けたのは僕が弱かったから。
浄化の力は妖怪や魔に連なる者に対しては絶大な効果を発揮するものの、その性質上、人間に対しては効き目はどうしたって落ちる。
凶悪な快楽殺人犯でもあれば妖怪と同様の扱いになるかもしれないけれど、あのご老公たちを悪人と断定をしたって根っこが犯罪者のそれでない以上は最大率の効力は望めないのは仕方がない。こればかりは僕ではどうすることも出来ない問題だ。
先ほどは全力だと言ったけれど、あれだって今できる範囲ではという括りの中での話。
その最大効率を発揮出来れば勝てたのかという問題とはまた別で。
(それでも負けは負け)
誰だろうと絶対に負けないと大言壮語を吐きながらのこの結果、自分が情けない。
空いた時間は修練に当て、対人戦闘にも力は入れていた。だからこそこの敗北は悔しい。ただただ悔しい。
握りしめた拳から血が滴り、傷口に水が入ったことで生じた痛みでようやく我に帰る。
知らず知らずに溜まっていた内にある悪い気を吐き出し、精神を落ち着かせていく。
数度深呼吸をすれば幾分か冷静さは戻ってくる。そういう風に訓練をしてきた。だから、大丈夫。
「次は勝つ」
今回は運が良かった。それは認めるし、事実として受け入れる。しかし、次はないと思えと自分に言い聞かせる。
次の時までに力を高め、技を磨き、次の機会があれば二対一、いや四対一だったとしても勝てるくらいに成長すればいい。
その為にはもっと女の子としての自分を磨かなければいけないというのが悩みどころではあるのだけど。
(そういえば、なんだか心なしか少し霊力の容量が増えているような?)
霊力が回復しきってから計らないと正確なところは分からない。ただ、今の感覚には何度か覚えがあるのでほぼ間違いではないはずだ。
それはつまるところ僕の内面が微量であっても変化しているということに他ならない。
この変化については自分の心に関することなので決して嘘を吐くことは出来ない。あるがままを受け入れるしかないのだけど、それだけに何が原因でそうなったのかは分かり難いのが難しいところ。
女性らしい動きや礼儀作法の勉強などをした時には明らかに変化があるので原因が分かり易いのだけれども、今回は流石に色々とあり過ぎた。
(まぁ、考えてもわからない事は咲耶にでも聞こう)
どうせ今回の件については詳細に話さなくてはいけないのでついでに聞いておけばいいだろうと決める。
(それにしても……ちょっと疲れ過ぎたかな)
この会合にいるだけでも精神的にどんどん削られる感覚があったのにその直後にこれだ。ほっと一息をついたから今までの疲れが押し寄せてきたかのごとく体が重く感じてくる。気を抜けば今すぐにでも寝てしまいそうだ。
流石に風呂場ではマズいので体を洗った後に軽く拭き、力を行使して付着している水を浄化の水へと変質させる。そうなったら自由に操れる対象となるので余計な水分を弾いて飛ばすだけだ。いつもならゆっくりと湯船に浸かる所だけど、そこで溺れ死んでいたら目も当てられないのでやめておくことにした。
瞼を擦りながら、とりあえず咲夜に向けて必要事項を箇条書きで書いて送っておく。
向こうからしたらいきなりなんだと驚くだろうけど、何も連絡しない方が怒るのでこれでいい。
「これで良し、と。景文さんに寝るって連絡しておかないと」
返信を待っているほど余裕はないので暫く返信不要とだけ付け加え、祓詞を唱えてから浄界を張っておく。
じっとして寝ていれば霊力回復も早いので寝ている最中に結界が解けるということはない。
布団にくるまり、目を閉じるとすぐに睡魔はやってきた。思っていた以上に肉体的な疲労は激しかったようだ。
体の力がスっと抜けていき、意識が落ちる。全身の力が抜けていき、意識が溶けていくのが自分でもよく感じられた。
いつ起きるか自分でも分からないくらい、深い眠りに入った。
意識が暗い中を進んでいき、落ちているのだか、進んでいるのだか分からない中を彷徨い続ける。
そうして意識が完全に薄まって消えていき。
次の目が覚めるのは朝方くらいになっていて。
「……………………のはず、なんだけど」
記憶が正しければ自分の最後に見た景色は布団の中だったはず。
であれば、今自分が見ているこれは何なのか。
自分を囲うはずの結界はなく、視界には見渡す限りが一面に水面が広がっている。
波一つない水溜まりのようなものが遥か先の地平線の彼方まで続いていた。
水、水、水、それと澄み切った青空。
青空と水だけがどこまでも際限なく広がるただそれだけの何もない場所。
どれだけ目を凝らしても景色はどこまでも澄み渡っている青のみの世界。
ここには人工物らしきものは一切存在しない。
人影は愚か、建物らしき建造物すら何もない。
「ここは、夢の世界……って、ことでいいのかな?」
あまり現実離れをしたあり得ない光景だからか、そんな推論が頭に過ぎる。
そしてそれは間違いないのだろう。こんな場所が世の中にあるだなんて聞いたこともない。
問題はどうしてここへ来たか、それとどうやって帰るかの二つ。
この景色では何かを探す為に歩いたってあまり意味はなさそうだ。それならばもう一度寝ることで何かが変わらないかと思い、目を瞑ろうとした。
その時、背後で気配がした。僕のよく知っている。知り過ぎているくらい身近なものだ。
「貴方が僕をここへ呼んだのですか?」
ゆっくりと、水音と水飛沫を立てて隆起したそれは見たこともないような形をしていた。
「……龍?」
それは長く、どこまでも長く、爬虫類のような頭と体躯には鱗のようなものがあり、特徴的な頭部には角や髭といった蛇にはないようなものが備えられている。一番の違いはその大きさ。景文さんが出していた式神の龍も大分大きかったけれど、これはそれよりもさらに大きい。
まるで河川そのものが起き上がってきたかのような迫力だ。
その姿を見た時に理解したことがある。本来水を操るのみの水使いが系統外として使えないはずの結界という術を何故使えるようになったのか、その理由を。
浄化の力が神より授けられたものならば、結界もまた同じく神からの恩恵ということらしい。
このどこまでも広がる世界を構成する為の外殻に結界が用いられていることが感じられる。
それに加え、あの巨体を空中で維持する為にも結界が用いられているのが分かった。
その結界はまるで鱗のように連なり、重なり、そして水流のように流動している。
ただ見るだけで僕は結界の運用からして間違っていたのだと思い知らされた。
『汝、力を求むか』
急に現れて何をと思ったけれど、なるほど今の僕が一番求めているものが早速とばかりにやって来たらしい。
いや、望んだから僕の方から近づいたという感触の方が近いか。
頭に響くこの声は前にも聞いたことがある。涅槃浄界を使う際に聞こえてくる不思議な声の主だ。
それがこうして目の前に現れたとしても、前に感じた通りにどうも機械的というか、感情のようなものを一切として感じられない。
「貴方は何者なんですか?」
『汝、力を求むか』
「…………なるほど」
やはりというべきか、この龍には意思はない。
決められた問答を繰り返すだけの傀儡のようなものだ。
その割には存在感というか、威圧感は半端ないのが気になるところではある。
そんな得体の知れない相手が最終的な流れ的には新たな力をくれるという。
正直、実に怪しい。
「その力というのはどういうものなんですか?」
『汝、力を求むか』
前回は頭の中にいきなり情報が送られてきたからあまり疑いもせずに受け入れてしまったけれども、改めて考えると知らない相手から突然話しかけられたり情報を渡されたりすることはかなり危ないのではと思い直す。
この龍からは途轍もない程の浄化の力を感じる。だから決して悪い相手ではないはずではあるけど。
涅槃浄界を使う際に口から出る「神意拝領」という言葉は意図して出たものではない。自然と無意識に出ている言葉だった。
僕はその言葉を知識として一切知らなかった。知らないはずの言葉が知っているものとして口から出ていたという事実。
それを考えると何かしらの影響を受けていることは間違いなくて。
不測の事態を考えると、ここは退いた方がいいと判断した。
「まずは自分の力でどうにかします。ですので、保留ということでお願いします。答えとしては、今は要りません。またの機会にして下さい」
『汝に試練を与える』
「いや、だから次回にということで……ってちょっと言葉が変わってるし」
拒否をしたら無理やり受け入れさせるというのはどういう了見なのか。
ともあれ、何事もなくここを出られるという訳ではないのは理解した。
試練というのがどういうものなのか分からないけれど、逃げ場がない以上は受けて立つ以外にない。
「全く、本当に今日は厄日だよ」
夢だからか僕の力が使えない。ここにあるものは全て向こうの物だからか、ここでは水を操ることが出来ないし生成することも出来なかった。
その状況の中でこの空間だ、逃げるだけ無駄というものだろう。
それに、何をしようとも無駄だ。
逃げようにもすぐそこに迫る竜の口からは逃れる術はなかったから。
『試練の完遂を』
水に呑まれる。
水使いが溺れるなんて笑い話にもならない。
しかし、試練というからにはこの行いには意味があるのだろう。
考えろ。考えろ。考えろ。何か意味があるはずだ。
『見極めよ』
何を、と言いたいけれど生憎と言葉が話せないので試練とやらに集中する。
まずはこの呼吸困難な状況を何とかしなければまともに考え事をすることすら難しい。
自分よりも大きな力の奔流に流されて今自分がどこでどんな態勢になっているのかさえ分からない。
それでも全身を包む水のことだけはよく理解出来る。出来たからこそ分かったことがある。
僕は今まで勘違いをしていたことを。
浄化の水とは水の中に浄化の力を含んだ物だと思っていた。
けど、違う。それは上辺だけのものであって本質ではない。
この水自体が浄化の力なのだ。水という形の体を取っているだけで、それら全ては浄化の力で出来ている。
最初の使い手に適正があり馴染み深く、力を扱う為にそれが最善だったというだけで、見た目は見た目でしかないということを理解した。
自分の出す水だって構成成分の大半は霊力で出来ているし実体化し目に見えるというだけで本物の水という訳ではない。
考えてみれば当たり前のことを、こうなるまで気づかずにいた。
(この竜の体も全て浄化の力で出来ている)
だからこの試練は水を操るのではなく、浄化の力をさらに精密に制御をする為のものだと推察した。
荒波といって差し支えないこの流れを操るのだと。
実際、今までの僕は水を操ってはいるけれど浄化の力自体を操っている訳ではなかった。
そこに含まれる力が大量のものだから戦いでも何とかなっているだけで、もしも僕の霊力量が並程度なら今の実力では三等級の妖怪だって危ういだろう。
それは自覚している。あの白面もそれを指して未熟だと言っていたのだろう。
今回で柴井老たちの力を削りきれずに敗北したのはこの制御の甘さに起因しているということ。
甘え。
そう、霊力が大量にあるという事に僕は胡座をかいていた。
(それだったら、今身に付ければいいだけのことだ!)
初めてこの力を使った時からそう、いつだって体当たりの精神で何だって覚えてきた。
こんなこと、倉橋さんや大門先輩の授業に比べれば優しいものだ。
必ず乗り越えることは出来る。
それに経験はしたことはある。冬香の体にあった呪いをどうにかした時、あの時は水ではなく浄化の力そのものを操っていたのだから。
(なら、出来ないことはない。流れを、掴め……っ!)
自分で起こした訳ではない激流だから操るのは容易ではない。
出来ることはじっと耐え、息が続かなくなりそうになっても流れを掴むことにだけ集中すること。
そこへ自分の力を流しこむように、溶けるように自然と一体になる。
指先から、肌の表面から、次第に一体となって力へ干渉し、微細な変化を見逃さず、ゆっくりと、緩やかに自分を流してゆく。
焦らず、時には何もせず、時間を気にせずに、ゆっくりと。
流れを知り、掴んでは縄を伝うように一歩ずつ目的の場所へと向かう。
そうして少しずつ自分を移動させていき、ようやく流れの終着点となる龍の口元まで来ることが出来た。
時間が掛かり過ぎたせいで出口へと辿り着く頃には意識が朦朧としていたけれど。
(これで……何とか……)
水の中からは出られた————ような気がする。
無重力から解放され、下に叩きつけられるような感覚がしたからだ。
ただ、痛みはない。下が水で出来ているのだから当然と言えば当然か。
(でも、げん、か……)
流石に息を止め続けすぎた。脳に酸素が行き渡らなくなり、意識が保てない。
そもそも夢の世界に酸欠なんてあるのかとくだらない自問自答が頭に浮かんで。
『————————』
龍が何事か言っているようだけど、もうそれを聞き取れない。
龍がこちらに向かって来ているのが見えた。
そこで、意識は途絶えた。
 




