二話-2 壁ドン
車を走らせること三時間程経ち、景色は次第に自然に溢れたものになっていき、遂には視界一面が森林で覆われているような場所にやって来た。
咲夜のように目に見えている訳ではないけれども、僕でも分かるくらいにはこの森林に霊力が満ち満ちている。
「ここは何と言うか、特殊な場所って感じがするね。神聖っていうか、厳かっていうか」
「この辺りは龍脈に近いから地表の裂け目から霊力が溢れているんだ。だからかもしれないけど、この辺りの温泉には退魔師に良く効く効能があるらしいよ。これから行く場所に大浴場として併設されているから行きたくなったら行ってみれば?」
「へぇ、それは楽しみだね。温泉って行ったことがないからどんなものなのかちょっと興味があるんだ」
「それならこれから会う女の子たちに色々聞いてみるといいよ。ある意味、ここの温泉に入りたいが為に来ている子もいるくらいだからよく知ってると思う」
「分かった。無事に仲良くなれたら聞いてみるよ」
そんな話をしていると、景色がまた変わっていった。森林地帯から開けた場所に入り、前方には何やら大きめの建物が聳え立っている。
古いけれどしっかりとした趣のある歴史の深い日本家屋というのが一目見て思った率直な感想だ。年季は入っているものの、手入れはきちんとしているからか寂れた様子はない。経った年月の分だけの威厳を備えているかのような印象さえ受ける。
「あそこが俺たちの目的地だ」
「何と言うか、雰囲気のある建物ですね」
「何度も改修工事はしているらしいけど、見た目とか内装は殆ど昔のまま保っているらしい。その代わり、山の中とか霊気の影響で電子機器が殆ど使えないから不便なところもあるけどな。でも、場所によっては通信はきちんと出来るからそこは安心していいよ」
咲夜や倉橋さんが心配をしていたようなことはないらしい。これで万が一の時は連絡が来るはずだ。
「結構古い建物に見えるけど、建ってからどれくらい経っているの?」
「確か二百から三百年だったかな? お歴々の自慢話が長すぎて途中から聞いてなかったんだよな。はっはっは。…………まぁ、それはどうでもいいとして」
僕の視線が居たたまれなくなったのか、丁度良く車が停止したことで景文さんは扉を開けて外へ出て行く。
そのまま僕側の扉までやってきて、自動的に開いた扉から手を差し出してきた。
「それでは清花さん、お手をどうぞ」
「ありがとうございます」
森林に入った時から既に僕たちは式神などによって再び監視されている。今この瞬間も一瞬の隙も見逃さないように見張られていた。それを感じているので、態度も口調も今までのものから丁寧なものに変えていく。景文さんはそれに少し意外な顔をしたけれど、すぐにそれが演技だと理解したみたいだ。
男の人の手を借りて下車するなんて初めてだから何とも言えない気分だけど、彼と不仲だと思われたりしない為に手を取った。
しかし、その時に一瞬だけど殺気のような物を感じ取った。すぐに消えたから誰かまでは分からなかったけれど、更にはそれに混じっておかしな視線もあるみたいだ。やはり気を抜けないということらしい。
「随分と見られていますね」
「それほど注目度が高いということだね。自分たちも有名人ばかりだというのに、何とも噂好きの多いことだよ。全く……」
式紙による遠隔からの視線ではなく、生身の人間の目線が建物の中からこちらに突き刺さるくらい強く向けられている。
こちらを見えるそこかしこの窓から僕たちのことを観察する為に顔を覗かせている様は一種の恐怖映画のような一幕にも思えた。
「こういった所に定期的に集めるのは、仲間を意識を芽生えさせるとか、切磋琢磨させようだとか、婚約者を選定する為とか、そういった諸々の理由で幼い頃から通わされる子が多いんだ。だから今じゃ殆ど全員が顔見知り。だからだろうけど、みんな新参者には興味津々なんだ。失礼を許してやってくれないか」
「なんなとく気持ちは分かりますが……」
ここに呼ばれるということは相応の力を持っている人たちだ。中には全国に名を轟かせているような有名人も見える。彼ら彼女らの一人一人が退魔師として優秀だということは未だ遠く離れた位置からでも感じられる。
というよりは、あえて僕に見せつけているというのが正しいのかもしれない。隠そうともしない霊力の圧力は一種の威嚇と同じだ。ここで怯んだ様子を見せればその程度の存在と侮られかねない。
「ここはお返しをするべきなんでしょうか?」
「喧嘩を買ったと思われても対応が面倒だから無視しよう。どうせ君に勝てない当て馬のような奴らさ」
「おーい、聞こえてるぞー。誰が当て馬だ、誰がー」
「ほらね。変なのが早速やって来てしまったみたいだ」
「聞こえてるって言ってんだろ」
わざとらしく僕に向かって大袈裟な手振りで呆れていることを示した景文さん。
それに先程まで近くには誰もいなかったはずなのに突如としてすぐ傍で聞こえてくる男性の声。声音からして歳の近い人だろうか、ちょっと乱暴気味な言葉遣いなのは恐らく景文さんと知り合いだからだと思われる。
「全く、お前はいつもいつも……っと、これはお嬢さんの前でとんだ失礼を」
僕のことが視界に入って思い出したのか、急に居直って恭しく頭を下げる男性。
今更取り繕ってももう遅いだろうと突っ込みは入れないことにした。
「いえ、お気になさらず。初めまして、大蓮寺清花と申します」
「藤原利通です。お噂はかねがね、あの白面を撃退したというその腕前を是非とも拝見したいと思っておりました。是非、今後とも良い関係を築けていけたらと思います。握手をさせて頂いても?」
そう名乗った彼は一見すると優男といった印象を受ける。男性にしては長めの髪の毛を揺らし、片目を瞑ってはにかむ姿は様になっていた。
言いながら差し出された手を握って軽く振ってよろしくと挨拶を交わす。
今はにこやかな顔も仮面だとは分かっているけれど、初めにこれを見せられていたら彼のことを性格の良い好青年だと勘違いをしていたかもしれない。
演技という面で人のことをとやかく言えるような身ではないのは承知しつつ。
「藤原家と言えば、多大なる功績を残しているお家としてよく聞き及んでおります。そんな名家のお眼鏡に適うとは嬉しいですね」
「御謙遜を。コレがあのような態度を取る時点でコレの価値観的には相応の対応が必要だと思われているということ。いやはや、コレが女性を相手にあのような態度を取ることは初めてなので皆が困惑しているところなのですよ。かく言う俺も少し唖然としてしまったくらいで」
「は、はぁ……そうなんです、か?」
これこれ言うから何かと思ったらどうやら景文さんがその対象だったらしい。随分とぞんざいな扱いを受けているにも関わらず怒らないのはある程度の信頼関係の賜物か。実力が近しい者同士の友情か何かだろうか。
一方、雑な扱いを受けていた景文さんの方も友人に接するような態度に変わっていた。
「今回は俺が誘ったようなものだから丁重におもてなしをしているだけだ。……ったく、こんなことくらいで困惑するなよな。普通に失礼だぞ」
「まぁ、そう言うなよ。意外なのは確かなんだからさ。それで? お二人はどんな関係なので?」
その視線の意味するところが何なのか。探っているようにも見えるし、楽しんでいるようにも見える。
案外、どちらでもあったりなかったりするのかもしれない。ここは景文さんに任せるよりも自分で答えた方が彼も納得するだろう。
「景文さんとは大蓮寺家に関わることで度々手助けをして貰っている関係でして。どんな関係かと言われると難しいですが、強いて言うなら協力関係にある人でしょうか」
「本気と書いてマジですか? てっきり、コレが随分と入れ揚げているようだから何か進展があるものだと思っていたんですがね」
「何がどう進展するのかは分かりませんが、土御門と大蓮寺の関係もありますし、持ちつ持たれつの関係ということでお互いに利のある取引をしているだけですよ」
「ふぅん? なるほどなるほど。ご回答頂きありがとうございます。では、不躾な質問にはなりますが大蓮寺さんは今のところ特定の相手はいないということでしょうか?」
僕は何も言わずに景文さんの方を見る。彼は早速来たぞと言わんばかりに呆れたように肩を竦めた。
「利通、その手の話題はあって間もない親しい間柄じゃない人にするべきじゃないだろ。それに今の聞き方だと彼女を狙っているようにも聞こえるぞ」
「ある意味では間違いではないな。っていうか、別に恋人でもないならお前が出張る必要はないんじゃないか?」
「伝えてあっただろ。お前達が失礼を働いて彼女の気分を害さないようにするのが俺の役割なんだよ。面倒な喧嘩は俺が買ってやるから、他の奴らにもそう伝えておいてくれ。全力で黙らせてやるってな」
そう言って軽く霊力を体から発露させる。その圧力は建物から感じたどのものよりも濃密で底が知れなかった。
藤原さんはその圧力を間近で受けながらも涼しい顔をして笑った。
「おぉ、怖い怖い。でもまぁ、あんまりその心配は必要ないんじゃないか?」
「どういう意味だよ」
「どうもこうも、浄化の力って言えば後方支援が主だろ? 加えてこんなに大人しそうな見た目の子にわざわざ喧嘩吹っ掛けるような奴はいないって」
思わず僕と景文さんの視線がかち合った。恐らく同時に同じ思いが頭を過ったに違いなかった。
白面と正面切って戦っていたのは一体誰だったか。藤原さんは世間に出回ってしまった鵺との戦いの映像は見ていないか、それとも信じていない可能性もある。
別に意固地になって否定するような話でもないのでここは大人しく——
「はは、清花さんが後方支え゛っ」
何やら余計なことを言いそうだった彼には他の人からは見えない角度からわき腹を突いて止める。
いきなり体をくの字にさせて悶え始めた景文さんに奇異の視線が寄せられるけれども、僕は知らん振りをしてそっぽを向いておく。
勘違いをしてもらう分にはこちらとしては全然構わないのでそのままにしておいて欲しいというのに。どうせ分からせるならばそれに相応しい場というものがある。少なくともここで暴露する必要はない。
その光景を見ていた藤原さんは驚くでもなく、面白そうなものを見た顔で口笛を鳴らした。
「前言撤回。後ろで黙って見ているような子じゃないみたいだな」
「いえいえ、白面との戦いの時は景文さんには大変助けられまして。えぇ、それはもう大助かりでした。彼がいなければきっと今頃ここにはいなかったでしょう。あの戦いにおける彼の貢献度は計り知れないものだと思います。はい」
多分というか予想だけれど、実際に僕の戦いを間近で見た人以外は白面との戦いは景文さんが主な活躍をしたものだと思っているのではないだろうか。何もしていないと言えば嘘になるけれど、実際に彼がしていたのはあくまで咲夜たち非戦闘員を守ることだというのは本人も認めている話なのにどうしてそう判断してしまうのか。
感じる限りでは、景文さんはこの退魔師集団の中でも突出した実力を持っている。そのことが判断を曇らせる結果になっていると思われる。
僕の戦い方を知らない訳ではないだろうけど、それよりも彼の実力への信頼が勝っているのだろう。
「実際、コイツは役に立っただろ? いつ襲われるにしてもコイツがいる時で良かったな。そこだけは不幸中の幸いってやつなのは間違いない」
「藤原さんは景文さんのことを信頼しているんですね」
「実力の点では認めざるを得ないさ。未成年の中じゃ……まぁ、俺の次くらいに強いのは間違いないし、その力は大人連中も一目を置いてるくらいだ。それでいてまだ本気を出していないってんだから恐ろしい話だよな。まっ、唯一欠点なのは変に頭が回るせいで計算高く腹黒い性格をしているところかな」
「腹黒い……そうなんですか?」
何かしらの裏の目的があって動いているとは思っていたけども、少なくとも腹黒いという印象はなかった。けれど、親しい間柄の様子の彼が言うのならばそういった一面がある過去があったのだろうとも思う。
「お、お前……初対面の女の子にないこと吹き込むのは止めろ」
わき腹の痛みから復活した景文さんが帰って来た。
「あん? 別に嘘は吐いてないぞ。何ならお前の腹黒話をここで暴露してやろうか?」
「人の悪口を吹き込んでくる相手を清花さんがどう思うか分からないのか? どっちが性格が悪いかなんて、考えるまでもなく自明ってもんだろうが。ほら見ろ、清花さんだってそう思ってるみたいだぞ」
そこでハッとなり藤原さんはこちらに向いて。
「い、いや違う! これは気の合う奴同士のじゃれ合いみたいなやつで」
そこで僕の顔を見て気付く。そんなことは分かり切っている僕は何とも思っていないのだということに。
ここから得られた情報として、藤原さんは僕からの好感度を意識するような理由があると言うこと。今回こうやって一番最初にやって来たのは景文さんに会いに来たという体で僕との接触を図りたかったのだろうと。その割に色目を使ったりして来ないのが少し不可解だけど、とりあえずは今は触れずにおいておこう。
景文さんを見る藤原さんの顔が胡散臭いものを見るようなものに変わっていく。
「お前、そういうところだぞ。ほんとにさ」
「清花さんの懐が深いだけだ。普通の人はいきなり他人の悪口を言い始める人に良い感情は抱かないものだと理解しておけ。ただの一般論としてな」
結局は言い負かされたらしい藤原さんはバツの悪い顔で拗ねたようにそっぽを向いた。
そのことに軽く笑った後に景文さんがこちらを見る。
「悪い奴ではないから勘違いはしないでやってくれ。ほら、利通も女性をいつまでも立たせておく気か?」
「わかったよ。ではお嬢様、これからはこの胡散臭い詐欺師に代わって不肖ながら俺が案内を務めさせて頂きましょう」
僕の手を取ろうと差し出された手が横合いから捕まれる。
「お前は婚約者がいるだろうが」
景文さんは掴んだ腕を使ってそのまま背負い投げの要領で藤原さんを十数メートル先まで投げ飛ばした。あまりにも早業だったせいでまともに受けてしまった彼はそのまま空を見上げながら飛んだ後に転がり、遂には地に伏したまま動かなくなる。
友人同士のじゃれ合いとしては些か過激に感じるけれど、大丈夫なのだろうか。
あまりにも綺麗に入り過ぎていたのでつい心配になる。もしかしたら治療が必要になるかもしれないと浄化の水を用意しておく。
「いきなり投げましたけど……大丈夫なんですか?」
「あれくらいじゃびくともしないさ。倒れたままなのは君が近づいてくるのを待ってるからだろ。面倒だしこのまま放っておいていい」
「はぁ……頑丈な方なんですね」
術に特化していると思っていた景文さんの体術に驚きつつも藤原さんの方の様子を確認すると、確かに受け身はしっかりと取っていて怪我らしいものもない様子。むしろ気にしないでいいと手を振っているのが見えたので気にしないようにすることにした。
「男の退魔師は体を張ることも多いから頑丈な奴は多いよ。まぁ、清花さんほど体を張る人はそうそういないんだけど」
「一人で戦う僕は例外でしょう。寧ろ、景文さんの今の身のこなしを見て驚きましたよ。実は接近戦も得意だったりするんですか?」
「緊急手段として習っているだけで基本的には術で戦うのが主な戦い方だよ。物理戦が得意なのが出てくるとどうしても距離を取りながらの戦いになったりするし。それを見越して走り込みをしながらでも術を扱えるようにする訓練だってあるくらいだからね」
「それは僕もよくやってますね。やはり一人でやっているとどうしても動きながらの戦闘になってしまいますから」
遠くから水弾を打ち続けて勝てるならそれに越したことはない。しかし相手も馬鹿ではないので身を隠すし遮蔽物を利用して近づいてくる。目が良くて足が早ければ水弾を避けながら近づいて来ることだってある。
「そうだ、白面と戦っている時に凄い身のこなしだと思ったけど、清花さんの体術の師匠って誰なんだ? あぁ、別に詮索するつもりはないから嫌なら答えなくてもいいんだけど」
「それくらいは別に構いませんよ。一緒に咲夜の下で働いている大門という人です。一応は非退魔師ではあるんですが、幾つかの武術で段位を持っているらしいですね」
「それでか。身体機能に違いはあっても理屈や技術に差はないからね。……うん? 大門? どこかで聞いたような……」
「本当に凄く強い人ですよ。身体能力を落とした状態での訓練ではまだ一本も取れたことはありませんし。身体能力で勝っていても一度も勝てた試しがありません」
本人曰く、武術は嗜みとして見に付けているそうだけど、僕からしたら達人のようにも感じられるほど技術には雲泥の差があるのだから驚きだ。
世間では退魔師の存在が有難がられているけれども、倉橋さんや大門先輩のような人たちだって努力して技術を磨いている。だから二人とも僕はとても尊敬している。
さっきの投げの話から続けて格闘技の話をしながら歩いていると建物の入り口に辿り着く。
遠目からでも大きさは見て取れたけれど、近くで見ると更に大きく感じた。コンクリートを使った物ではない、昔ながらの木造建築にはそれにしかない不思議な力のようなものを感じ取ることが出来る。これも龍脈が近いからだろうか。
「さぁ、世間話はここまでだ。ここからは気を引き締めて行こうか」
「分かりました」
初めての場所だということもあるだろう。しかし、それよりも内部より感じられる数多の強い気配が無意識にでも自分の中の感知機能を最大限にまで高めてしまう。
これからどんなことになるのかは分からないけれど、これも必要なことだと自らを鼓舞をして足を前に進める。
「お、お前ら……置いて行くなんて、ひ、酷すぎ……」
その時、後ろから聞こえてきた呻き声混じりの声に張り詰めた空気が霧散していくのを感じた。
振り向くとそこにはわき腹を抱えた姿の藤原さんの痛々しい姿がそこにあった。それを見て呆れたように景文さんが嘆息して。
「お前……」
「えっと、ご無事で何よりです?」
痛そうにはしているものの、見た感じでは骨は折れていなそうなので良かった。もしかしたらさっきの手は助けての意味だったのかもしれない。
ともあれ、付いて来たとあってはこのまま放置する訳にもいかないので水を少々出すことにした。
「痛い部分があるのなら治しますが、どうしますか?」
「いいのか?」
目を輝かせて顔を明るくした藤原さんだけれど。
「あら、私というものがいながら他の女の子から治療を受けるのかしら?」
新しく声がした方を見てみると、そこには僕より少し年上くらいの女性がいた。
髪を後ろで一つに纏め、快活そうな雰囲気に勝気な顔立ちをしている。一眼で綺麗な女性だなと思った。
その彼女は怒ったように表情を強張らせ、鋭い目つきで藤原さんを見ている。
「な、名雪……」
僕たちがやって来るのが遅かったからか、中にいた女の子の一人がこちらにやって来ては藤原さんを睨みつけている。彼もその視線を受けて驚きと怯えを見せていて、どんな関係性なのか気になるところではある。
僕のことはいないものとして扱うが如く歩を進めた名雪と呼ばれた彼女は藤原さんの服を捲って患部を見始める。
「あの二人はどういった関係なんですか?」
「二人は既に婚約してるんだ」
「なるほど」
小声で聞いたところ、簡潔にしてよく分かる答えが返ってくる。よく見なくても確かに男女の仲としては距離が近いように見える。
先ほど藤原さんを投げる際に言っていた婚約者とは彼女のことらしい。
「患部のわき腹を叩かれてますが」
「あれも愛情表現の一つ……なのかな」
いまいち確信のない答えだった。
名雪さんという女の子は粗方怪我の様子を見終わったのか、こちらに向かって来る。見知った仲であろうはずの景文さんには目もくれず、僕の方まで一目散にやって来て僕の腕を掴んだ。
「貴方、ちょっとこっちに来なさい」
「はい?」
言いながら彼女は僕の手首を引っ張ろうとしたけれども、力の差のせいかびくともしない。無論、僕の力の方が強いに決まっている。
何度か力を入れて動かそうとした後にどうにもならないことを悟ってこちらに向き直った。
「いいからこっちに来なさい!」
「理由もなく行けないので理由を教えて欲しいのですが」
「後で話すから! とりあえず、今はこっちに付いて来るの!」
尚も無理やり引っ張られるものの、やはり動かせない。
悪意こそなさそうだけど、いきなり現れて付いて来いと言われても困る。まだ自己紹介だってしていないのに。
とはいえ、他の目がない所で何か僕に言いたい様子ではある。どうするべきか考えていると、景文さんが肩に手を置いてきて。
「清花さん、今回は彼女に付いて行ってあげてくれないかな。彼女のことは悪い子ではないと俺が保証をするから」
景文さんがそう宣言をするということは本当に悪い人ではないのだろうと判断した。後ろでは藤原さんも俺も俺もと自分を指差している。治療をしていないはずなのに痛がっていないところを見るに、先ほどのは演技だったということだろう。分かっていたので治療をしなかったのだけども。
二人からも彼女に従って欲しいと懇願され、本当は理由を最初に言って欲しいところだけど、ここでは話せないことなのだろうということにしておくことにした。
「……分かりました」
「分かればいいのよ。景文は報告の方をよろしくね」
返事を待たずに彼女によって僕は建物の内部へと連れられて行く。
内装をゆっくりと見学する間もなく、入り口から少し歩いた先の袋小路の部屋へと連れ込まれてすぐに仁王立ちする名雪さんと対面する。
少し勝気な印象のする彼女はこちらを強い眼差しで見据えてはジリジリと歩み寄っては僕を壁際まで追いやって。
「で、誰が本命なの?」
顔の横の壁がドンと叩かれる。
「…………やはりその話ですか」
もう本当にいい加減にして欲しいと思わざるを得ない程に、切実にこの問題は何とかして欲しいと思った。