1%
-何者でもない だから何者にでもなれる-
根拠のない自信が自分の周りをくるくると回り
それが、頭の中に日々 日夜 自分を苦しめているのだろうか
そんな錯覚にこの頃陥っている
いわば混乱状態である。
実力と運が、両方ない私は、常日頃より努力をして
運と実力を補う必要がある。
しかし、努力によって実感できるのは、己の実力の無さである。
人に一つ取柄を述べろと言われれば。
私は、己の努力についてを容易にそれでいて、詭弁に話すことができるだろう。
そんな人間なのだ。
一体、私はどんな自信でそんなあり得もしない才能を過信するようになったのだろうか。
それは、至って単純で、文豪の伝記や偉人の名言などであった。
それには、様々な自己顕示欲を埋めるものがあり。
それに逃げるかの如く己の才能を信じてきた。
私は、何物でもなかったのだ。
至って単純である道理だった。
日本の人口が、億といてもその中で、その時代で文豪が生まれる確率は一%に満たない。
そして、なりたくてもそれだけの努力をする人間はほぼ0ともいえるだろう。
しかし、その中に,の確率で、著しい努力による成長を持った人間と。
目まぐるしい社会を己の目で見る。
もしくは、新たな社会をその文才で作り出した人間が、所謂作家となり
後世にも名を残すのだ。
実は、文豪というものは、誰にだってなれるものなのだ。
私は、小さなころから文豪というものに憧れてきた。
しかし、それなりの努力はしなかったに過ぎない。
もし、努力をしても、その努力でどこまで己の才能の無さを埋めれるだろうか。
字は汚いし、想像力も乏しく、知恵は無駄にあるが、頭の中の書庫の中で、タイトルだけが見えており。
しかし、ジャンルは混在している。
社会情勢のところで、政治家について思い出そうとしても、そこには経済のことについての知識が貯蔵されているし。
文を書こうにも、その最初の綴りが、私の頭の中に混在したデータの中から見つからないのだ。
それは、果たして才能の無さを埋めることができるのだろうか。
否、違う。
私は、何に対してだって、人の何倍の時間を費やさねばそれに関して、半人前にも慣れない。
格闘技に身を興じた時だって、私は人の何倍も、そのスクールに通うことで、やっと才能のある男と戦えたのだ。
だが、そう考えると、世の中というのは至って単純なのだ。
才能がある人間は、才能に努力をつけたし。
己のアイデンティティーを生かすことで、新たな世界を切り開ける。
一方で才能のない人間は、才能のある人間に抗うために、才能の代わりとして努力をする時間を与えられたのだ。
才能のある人間の中でも、一部は努力に重きを置くだろうが、怠惰なるものであれば
私のような才能もない人間の如く、己の才能を過信して、そして己の衰えを実感することもなく衰退していく。
しかし、ある程度の才能があれば、社会には適応できるだろう。
無い人間は無いことを知ることで、努力の機会を早くから得ることができるのかもしれない。
それは、いわばチャンスなのだ。
持っている人間の良いところは、無いものは盗むことだってできる。
それに早く気付くか否かというのが、私にとっては重要なのかもしれない。
私は、文豪の文才を過信していたが、彼らはその文というものに真摯に向き合っていた
己で見て、己で感じ、己で知ったこと全てを自らの半身である文として、世に広めていったのだ。
一方で、生前まで知らなかったものが、知られていくことだって十分にある。
それは、どういうことか、時代は常に変革を迎えているのだ。
私の書く文章が、いずれ過去のものとなれば、皆がこの文章を古い変な物だと思うかもしれないが。
もしかすれば、深く読み込み自分のものにするのかもしれない。
理解されないということが良いわけではない。
私は、あくまで自身が理解されないことをある程度理解して自己満足に己の気持ちを書き出している。
しかしだ、それがもし誰かに理解され、共感されれば話は別なのだ。
そして、一つ意味が生まれる。
私は、こうして自己満足を他者に理解してもらえることで、ある意味の満足感を生み出すのだ。
それが他者にとって有意義な物であれば、私にとってそれはとても嬉しいことなのだ。
利害ということが、ここでは重要になる。
文章とはそうして生まれるのだと、私はなんとなくだが理解している。
学生の頃、私は理解のできない感情をたくさんの文章で読み込んできた。
胸にこみ上げるものや、手に汗ができて心臓が早く鼓動を鳴らすことだってあった。
恋愛という感情が、とても儚げでそして、幸せで、そして辛いことを学んだ。
才能というものがない人間でも、それを何度も読み込めば理解することができたのだ。
良し悪しというものが、世の中にはあるが
良し悪しに関して言えば、誰かの価値観に過ぎない。
それは、誰かを傷つけるのではなく成長させるためにあるのだ。
何か取り入れられるものがあれば、それをなるべく吸収し
己のものにして、そして、その吸収したものを、また別のものにして
そして、己のものに書き換えて、それで世の中の摂理はできているのだ。
古典文学は多く、様々な現代文学者によって解釈され
そして、その意味のなかったかもしれない事象を改変することで、現代に通ずるものに変えることがある。
例えば、羅生門であり、例えば山月記である。
過去のものといえば、聞こえは古く聞こえるが、そこには確実に何か通ずるものがあり。
それを表現することで、作者の作品となるのだ。
それは、盗むのではなく、変化を持たせるのだ。
そして、関心を広めることで、新たな価値がそこには生まれる。
人は、古いものを嫌い新しいものを好むのだ、
しかしながら、古いものにはプレミアがつけられることがある。
そのプレミアを生み出すのは、他でもない我々である。
そのための、努力を行うことで、我々は過去に価値を生み出せるのだ。
古いコンピューターは今と比べて遅いが
そのレトロティックなものに、私は心が躍った。
そのようなものを、人は生み出すことができるのだ。
価値が不変というように人は考えるだろうが
それは、低迷を意味するわけでも停滞を意味するのでもなく
人によって変えることのできうるものこそが、その価値である。
遠近的に物事を眺めた時、我々人間というのはあくまで地球の一部に過ぎない。
あくまで、ちっぽけだが、その中で価値のあるとされる
これは、言い方が悪いが、名を残すものがいる。
アインシュタインだとか、ロックだとか、形や身分人間性は異なっているが
歴史に名を残す人は各時代に生まれているのだ。
しかしながら、それまで彼らは何物でもなかった。
少し裕福かもしれない、少し貧乏かもしれない。
環境が違うかもしれないが、あくまで彼らは同じ人間という括りにある。
どうだろう、彼らがそれでいて、何も残せないとすれば
彼らは、何物でもなかった。
文豪でもそうだ、もし誰も目に触れることがなければ、我々が目にすることがなければ。
彼らは、別の道を歩んでいたのだ。
そう考えるととても面白い
我々は、それに過ぎない
何故か、それは簡単だ、何も生み出すことがまだできていない準備段階なのだ。
そして、何かを生み出したとき、そこに1%の価値が生まれる。
生み出さない限り、そこに価値が絶対に生まれることは無いのだ。
その1%を生み出す前段階に我々がいて、その先に彼らがいる。
これはあくまで可能性の話だ。
しかし、我々は何者でもないからこそ何者にもなれるわけだ。
一度、何かになってしまえば、それこそ文豪にでもなってしまえば
その路線より大きく反れた道を行くことは難しい
一度何かを生み出せば、それにそれ以上の価値を見出したり
検証する必要が生まれる。
そして、それらを生み出したとき、何かになる
それは、名誉なことであり、不自由なことだ。
しかし、我々はまだ何にもなってはいない。
否、なっているかもしれないがそれが、本当になりたいものなのだろうか
という点での疑問が生まれるのだ。
私は、それを努力という手段で手に入れようとしてきた。
しかし、それだけで手に入るのかはわからない。
私のたどる道が、どうなるのかそれは全く分からない。
目の前には壁があり、穴があり、そこを抜けるように頑張らなくてはならないのだ。
1%とは、そこに辿りつけるものの数字でもある。
何かに気づき、焦燥感を抱き、努力しそれでいて、掴み取れる確率だ。
正確にはもっと低い、何故なら成りたい人間は多くいる。
そして、その数の倍努力する人間が勝利する
一方で、勝利しない者もいる。
それが、世の中の構成だと私は思っている。
頑張ったものが救われる世の中であれば
私は、救われたいと思う。
一方で、私は、まだその段階に至っていないと実感するのだ。