君の聲と、夜明けの世界
「確か、この場所だったよなあ」
飛波公園へ続く、飛波橋。沈む夕焼けを見ながら俺は、感慨深い気持ちで告げた。
ここの平凡で、されど壮大な景色は、十年前から一切変わる気配がない。自分達が生まれ育った故郷。大切な町。中でもこの橋の上は、俺達にとっては特別以上に特別な場所でもある。
「もう十年過ぎちゃったか。あの時まだ俺ら、中学生だったもんなあ。まさかこんなことになるなんて、全然想像してなかったし」
俺も、彼女も、今年で二十五歳になる。同居を始めたのは大学を卒業してからだが、単純に“付き合い始めた”と言えるのは果たして何年になることか。
恋人以前に、俺達は“相棒”や“運命共同体”と呼んだ方が差し支えない関係だった。十年前までは、近所に住んでいるだけの普通の幼馴染だったというのに。
「なあ、翔子。あのさ、俺……」
そろそろ、決断しなければいけない時なのだろう。意を決して俺が振り返った途端。力強い腕に、思い切り抱き寄せられていた。
え、と思った瞬間。香ったのは翔子が好む香水の匂いだ。そして――そう、十年前にはけして、香るはずがなかった匂いも混じっている。
「違うよ、玲」
“彼女”の背は、俺よりもずっと高くて。
力はずっと、俺より強くて。
肩口に埋められた髪からは、確かに男性の香りがしている。
「今の私は……翔、だから。……そうなったんだから」
十年前。俺達の運命は何の前触れもなくひっくり返ってしまった。
武内翔子という名前だった彼女は、武内翔と名前の少年に。
そして俺は――たまたま中性的な名前だったからなのか。水上玲という名前のまま、少女になった。
あの、不思議な夢を見た、その翌朝にはもう。
***
きっと、世界は、誰も信じることなどないだろう。誰もが振り返る、アイドル顔負けの美青年が――中学生までは普通の女の子をしていたことなど。
翔子はバレーボール部のエースで、背は高いものの女の子らしく可愛いものが大好きな、少し内気な少女だった。対して、幼馴染の俺は小柄で元気いっぱいのサッカー少年である。モデルばりに高身長なのだから、もっと胸を張って歩けばカッコいいのに、自信がなくていつも猫背であった彼女。その彼女の背中をバンッ!と叩いて励ますのが、当たり前のように俺の役目であったのだ。
お互い、多少なりに意識はしていたように思う。
ただ彼女はとてもネガティブな性格であったし(小学校の時、背が高いことでいじめられたのが原因だったのだろう)、俺は俺でチビなのが心底コンプレックスで。お互い異性として意識はかけていたものの、“自分なんか相手にふさわしくない、兄妹みたいな関係が精々だ”と思っていたのはほぼ間違いあるまい。
特に俺は、俺のようにな低身長で元気だけが取り柄の奴など、モデルのように綺麗な彼女に釣り合う男とは到底思えずにいたのである。ゆえに、いつか彼女が本気で惚れる男が現れたなら、いつものように背中を押してやるのが自分の役目だと本気で思っていたのだった。
そう、それなのに。中学三年生の、秋――世界はひっくり返って、そのまま戻らなくなってしまったのである。
『お星様の夢を見たの。いっぱいいっぱいお星様が集まって、私を包んで。怖くなって、いつもみたいに玲の名前を呼んじゃって。そしたら目が覚めて……でも』
彼女が泣きながらかけてきた電話を、今でもはっきりと覚えている。
『朝起きたら……私が、私じゃなくなってた。……どうしよう、ねえ、どうしよう玲……!』
自分が助けを求めたせいで、俺のことも巻き込んでしまったのではないか。彼女はずっと、そうやって自分自身のことを責めつづけていた。
同じ朝、女性になってしまった自分に戸惑っていたのは俺も同じだ。けれど彼女の、低くなった声と、同じ中に動揺しきった少女の心を聞いてしまったら。自分自身のことなどより、彼女を救う方法を全力で考えなければいけないと――それができるのは自分だけだと、そんな使命感にかられたのである。
世界は、自分達の歪んだ存在をそのまま認知していた。
彼女は元から男性だったことになり、俺は元から女性であったことになっていた。何故俺達は性別がひっくり返ってしまったのか、世界が自分達の本当の姿を覚えていないのか。その正体を共に掴み、元の自分達に戻る方法を探そうと共に手を取り合ったのである。
よくよく考えてみれば、そうやって必死になっている時点できっと――俺の彼女への気持ちはそんな、中途半端なものではなかったということだろう。
最大の問題は、体の性別は変わっても、心の性別はそのままであったということ。背が前以上に高くなり、体ががっしりとし、声が低くなり、男性としてどれほど成熟しても。翔子の瞳はいつまでも怯えた少女のままで、体と心との乖離に悩みつづけていると知っていた。同時に、俺にとって彼女の見た目がどうであっても、彼女は彼女のまま――中学三年生の少女のままであったのである。女性として尊重し、愛しく思う気持ちはなんら変わることはなかったのだ。
『大丈夫だ、翔子。二人で一緒に、元に戻る方法を探そう。俺達で一緒に戦えば、きっと元に戻る方法だって見つかるはずだ……!』
繰り返し、繰り返し――俺は彼女をそう、励まし続けた。
けれど俺達の意思に反して、自分達の性別が反転してしまった原因は見つからないまま。世間は、翔子を男、俺を女と当然のように認識したまま。歪んだ歯車は歪んだまま回り続け――気づけば、十年もの時が過ぎてしまったのである。
秘密を共有できる者同士。そして、言葉にできないまでも惹かれあっていた者同士、恋人として手を繋ぐようになるのは自然な流れであったことだろう。世間的にはきっと自分達は、何処にでもいるような普通のカップルにしか見えなかったに違いない。
身長のコンプレックスも、今ではまるで不自然なものではなくなっていた。大学でも会社でも、小柄で童顔な俺は“華奢で可愛い女の子”としか扱われず。何度か男性に、告白されたこともある。勿論、それを受けることなど一度もなかったけれど。まあ流石に電車で痴漢された時は“マジかよ”と吐き気と共にひっくり返りそうになったものではあるが。
そして、翔子も。元が女性だなんて誰が信じるだろうか、と思えるほど――男性として精悍に、美しく成長していったのである。むしろ、男勝りな女性で通る俺より、彼女の方が苦労したのではないか。男のくせに大人しい、控えめ、女々しい、草食系が過ぎる――見た目に反する内面を、そうやって揶揄されることも少なくなかったようだから。
――どれほど調べても、夢の原因はわからない。俺達が元に戻る方法も全く見当がつかない。……段々と俺は。そんな状況に、諦めがつきつつあったような気がする。
そう、この公園で。夢を見る前の日まで。二人でだべったり、遊んだりしていたこの場所で。
そしてあの事件以来、一度も来ることのなかったこの場所で。
俺は、一つの覚悟を決め、それを彼女に伝えるつもりでいたのである。十年前となんら変わらぬ光景に泣きそうで、少し躊躇ってしまったけれど。そしてその躊躇いを、恐らく彼女にも見抜かれていたのだろうけれど。
「……私ね、玲が好きなの。ずっとずっと前から、玲のことが好きだった。私がまだ“翔子”だった時から、ずっと」
抱きしめられたまま。嗚咽を滲ませて、彼女は言う。
「いつか、“男の子”の玲に……こうやって抱きしめて欲しいって思ってた。でも……女の子になっても、私を一生懸命守ってくれようとして……一生懸命愛してくれて、助けてくれようとする玲は。私の知ってる玲と、全然変わんなくて。……私、いつの間にか……女の子の玲のことも、大好きになってた。それで、気づいたの。私、ずっと女の子の心のまんまだと思ってたけど……いつの間にか、それだけじゃなくなってたんだって」
それは、俺も同じだ。口にはできないまま、心の中で呟く。
だってそうだろう。バカみたいな、話。本当は何度も何度も、“男”になった翔子を思って夜、自分を慰めて来たのだから。
自分達は恋人同士になって、同棲までしているのに、今まで一度も深い仲になったことはない。それは出来ないことだと思い込んでいたと言っても過言ではないのだ。それが許されるのは、お互いあるべき性別に戻ってからでしかないと。
でも、もう。いつの間にか自分達は、あれから十年も過ぎてしまった。
結婚しても、なんらおかしくはない年齢に。
いつまでも結論を先延ばしにするべきではないと、そう考えるようになるくらいの年に。
「どうして、こんなことが起きちゃったのかわからないけど。でも多分、戻る方法が見つかっても私達……完全に、元には戻れないんだと思う。私の心ももう、半分は男の子だから。それをどっかで、認めつつあったから」
「翔子……」
「いつも、守ってもらって、いろんなことを優柔不断な私の代わりに決めて貰ってばかりだったから。今日は、私から言わせて」
そっと、優しい体温が離れていく。
怯えた少女が宿っていた、青年の瞳には。今、それだけではない、芯の強い光がある。
キラキラした涙の奥に。強い決意の色がある。
「私と……武内翔と、結婚してください。……ううん、結婚してくれ、玲!お前が、好きだ!」
馬鹿だな、と俺は思う。
そんな風に、無理に男らしくしなくたっていいのに、と。
俺だっていつの間にか――男とか、女とか関係なく。どんな性別でもいい、目の前にいるたった一人が本気で好きになっていたのだから。
「……そのまんまの、お前でいいよ。翔子でも、翔でも、俺はどっちでもいい。好きになったのは、おんなじ存在だから」
応えるために俺は、思い切り彼女の、彼の、腕に中に飛び込んでやったのである。
「俺も、お前の子供が産みたい。これからも……ずっと一緒にいよう」
世界は夕焼けに染まっていても、今の俺達にとってその黄昏は、夜明けと等しく変わらない。
ここからもう一度、始まるのだ。二人だけの、新しい物語が。