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陽菜4

 午前中のうちに、まだ寝ているかなあと思いつつ、陽菜は俊也の部屋のブザーを押した。

 意外なことに、俊也は起きていた。ヒゲまで剃ってあって、すぐに外に出てきた。

 俊也にMV出演を頼んだら、きっと渋られるだろうなと、陽菜は思っていた。だから、俊也が「わかった」と二つ返事だったのには驚いた。

 それで思わず、

「ホントにいいの?」

 と聞き返してしまった。

「由紀恵さんから聞いてたし、それに、出て欲しいんだろ?」

 出て欲しければ、3回廻ってワンと吠えてみろ、みたいな表情をされて陽菜はムッとしたけれど、でも、別に俊也は、ワンと吠えろとは言わなかった。代わりに、

「陽菜、走れんのかよ」

 と尋ねた。

「そりゃ、走れるよ。誰だって、走れるよ」

「あのなあ、そういうことじゃないよ」

 俊也は呆れた顔をした。

「だって、陽菜が走っているところを動画に撮るんだろ? それをYouTubeやTikTokにアップするんだろ? だったら、それなりの走り方をしてなきゃ、おかしいだろう」

 そこは、考えてなかった。

「そっか」

「陽菜、運動苦手だろう」

「わかる?」

「まあ。見てれば。――ちょっと、道に出て走ってみ」

 それで陽菜は、アパートの前の通りを何往復か、走らされた。それを、俊也がスマホで撮る。

「あ、もう、いいよ」

 俊也は陽菜を止めておいて、

「本番は、いつ撮影すんの?」

 と尋ねた。息が上がっている陽菜は、途切れ途切れに、

「来週か、再来週か、そのへんで、出演予定の、人たちの、スケジュール、合わせて、決める」

 何とか答えた。

「そうか。――わかった。じゃあ、少し、トレーニングの時間取れるな」

「え? あたしにジョギングしろって?」

 俊也は黙ったまま、撮影したばかりの動画を陽菜に見せた。

「これじゃ、MVが曲の足を引っ張るんじゃね?」

 陽菜も、その通りだと思った。

「分かったよ、トレーニングするよ」

「でもなあ。陽菜、さぼりそうだし、それに、自分じゃフォームを直せないんじゃね?」

「そりゃ、そうだけど。じゃあ、どうしろって言うのよ。コーチの当てなんか、ないよ。俊也がコーチしてくれるわけじゃないんでしょ?」

 それで、俊也は腕組みをして考え込んだ。30秒ほどしてから俊也は言った。

「――わかった。俺が見る」

 え?

 ええ!?

 俊也が自分からお節介をする、もとい、世話をやこうとするなんて。陽菜は思った。太陽が西から昇る。

「どうせ、俺、週に4、5回は、夜に走ってるから、その時、陽菜も走れ」

「――次はいつ?」

「とりあえず、今日は走ると思うけど?」

「え、でも、俊也、今日はバイト遅番でしょ?」

「そうだけど?」

「平気なの?」

「別に」

「そうか。そうなんだ」

 元也が言っていた、俊也の陸上部の話、ホントだったんだと、陽菜は思い出す。その時の元也の自慢げな顔とともに。

「じゃ、頼むよ」

「分かった。頼まれた」

 俊也は、陽菜を正面からみて、しっかりと頷いた。陽菜は、出会ってから初めて、俊也の力強い表情を見た気がした。


 ジョギングの初日、2人はまずは街を抜けて、川沿いの緑道まで走った。俊也は陽菜のペースに合わせてゆっくりの走りだったけれど、そのフォームは無駄がなくしなやかで、断然美しいのだった。緑道に着くと、改めて、俊也は自分で走って手本を陽菜にみせ、次に陽菜を走らせ、丁寧に走り方を直していった。陽菜は、鈍臭く、憶えの悪い自分に自分で嫌気がさしてしまったけれど、俊也は全然焦れることも苛立つこともなかった。

 ああこれが、本来の俊也の姿なんだと、陽菜は思った。元也はいつも、弟の俊也のことを誇りに思っているようで、それから、とにかく大好きなようで、それについて、何でこんなヤツのことをとずっと納得できずにきたけれど。元也の想いが、少し、理解できたように感じた。

 おそらく俊也は、少しずつ、元の壊れる前の俊也に戻ろうとしている。いや、もしかしたら、その時と比べても一つ、大きくなった俊也に。

 二日目も三日目もそんなふうに夜の時間が過ぎた。果たして、自分の走り方がどれほど見られるものになったのかは分からない。ただ、陽菜は夜中過ぎに家に帰ると、もうシャワーも浴びれないほどにクタクタで、さすがにもうこれ以上練習を続けると死にますというところで、四日目は休みになった。

 そして五日目。

 俊也は、緑道で陽菜のフォームをチェックすると、

「じゃあ、今日は公園まで走ってみようか」

 と言った。

「フォーム、多少はまともになった?」

「まあまあだな。陽菜、がんばったじゃん」

「そりゃね。だって、今は、音楽を売り出すためには、ホントにMV、大事だから」

「うん、そうだな」

 それで陽菜は、俊也から身体半分遅れるくらいの感じで、緑道を公園に向かって走り出した。

 夜空はよく晴れていて、星がたくさん見えた。本当ならば梅雨入りしてもおかしくない時期なのに、梅雨前線はまだ東京には来ていない。陽菜のトレーニングのことを気にしてくれているみたいに。そうだ、きっとこれは、運が開けていく前兆だ。陽菜は、そう思うことにした。

 それにしても、こんなふうに、俊也と並んで夜の中をジョギングする日が来るなんて、本当に本当に、考えもしなかった。

 元也が初めて俊也を連れてきた時、俊也は一見、常識的な若者に見えたのだけれど、目が独特の光を孕んでいて怖かった。それから、今度は俊也はひどく無表情になって、陽菜のことを無視するようになった。その後さらに2週間ほどすると、今度は、やたらと陽菜につっかかってくるようになった。お互いを呼び捨てにするようになったのもこの頃だ。

 そして、そのタイミングで元也が、「もう多分、俊也は大丈夫だと思うけど、やっぱ心配だから、見守ってやってくれ」と陽菜に言い残し、行く先もはっきり告げないまま、旅、というか放浪に出ていってしまい。陽菜は、並んだアパートの2室で、俊也と取り残された。

 バンドは自然消滅して友は去り、勤め先はコロナ禍で踏ん切りをつけて解散してしまい、そして、彼氏は行き先も告げず、というか、すべてが曖昧なままの放浪に出た。

 まさに、途方に暮れた。

 一人きりだったら、どうしたらいいのか、どうやって生きていけばいいのか、分からなくなっていただろう。

 でも、自分よりももっとダメダメになってしまった俊也がいた。

 最愛の彼に頼まれてしまった、彼の愛する弟である俊也がいた。

 その時から陽菜は、俊也と時にぶつかり、いや、いつもぶつかり、ぶつかってばかりで、喧嘩ばかりで、でも決定的に関係が切れるようなことにはならず、バイトまで紹介してやり、そうしてどうにかこうにか、このコロナ禍のややこしい日々を生きてきた。

 あれだけ喧嘩ばかりだったのにそれでも一緒にやってきたのは、元也への想いゆえだと陽菜は信じてきたのだけれど。それだけじゃないと今はよく分かる。

 それはおそらくすごく単純な話で、要するに、自分には俊也が必要だったのだ。頼り、頼られる相手が。それは多分、俊也にしても同じで、そして、そういうすべてを全部、分かっていて元也は、自分の部屋に俊也を引き取り、少しの間、俊也の回復の様子をみて、それに、陽菜の状況もみて、2人一緒にいれば大丈夫だと考えたんじゃないだろうか。陽菜はそう思うのだ。元也は、そういうことを理屈で計算する男じゃないのだけれど、直感で掴む。本能的に掴む。

 ちょっと悔しい気もするけれど、元也の直感は間違っちゃいない。

 陽菜は、伴走する俊也を視野に入れながら、そう思う。

 運動なんて、学生時代はずっとずっと大の苦手だったのに、何だか、今こうして、公園を走っているのが楽しい。

 陽菜たち二人は、公園の中、森と池の間を蛇行して敷かれた歩道をゆっくりと走って行き、やがて、俊也が、

「あ。あの人、また来てる」

 と呟く。

「陽菜、ちょっと、休憩しよ」

 あの人、というのは、薄暗い公園の照明の中での遠目では、中年から初老にかけての男の人ということしか、わからなかった。

 俊也は走るのをやめ、ゆっくりとその男に近づいていく。陽菜も、俊也の後からついていく。

「今晩は。どうですか? 来てます? ミミズク」

 俊也が男に話しかける。

 それで、男が振り返る。

「いや、来てませんね。来ないですねえ、待ってるんだけど」

 男は穏やかな口調で答える。

 陽菜はその顔をじっと見つめる。

 マスクをしているので、顔の上半分しか見えない。だが、それでも、陽菜の知っている人にとてもよく似ている。

 ただ、何て言うか、陽菜の知っている人と、目の前の人とでは、漂わせている空気感が全然違う。

 陽菜の知っている人は、何かと小うるさくて、陽菜が電話メモで相手の名前を聞き間違えたり、来客があった時に淹れたお茶が妙に薄かったり濃すぎたり、あるいは経理の数字が一桁間違っていたり、まあ、しょっちゅうミスをする陽菜も悪いのだけれど、そういういちいちに、ネチネチと説教をして、何度も舌打ちして、冷たい視線を陽菜に向けて……。

 それが、今、陽菜の前にいる人は、穏やかで、やわらかく、ふんわりした感じで話す。

 まさか、違うよね、と陽菜は内心呟く。

 まさか、上司だった遠藤部長とこんなところで再会するなんてことは。

 その人は、それまで俊也の方を向いて喋っていたのだけれど、つと、視線を陽菜に向けた。それで俊也が、

「あ、この人は、隣に住んでいて、一緒にジョギングすることになりまして」

 と紹介しかけた時。

「もしかして、夏目さん? 夏目陽菜さん?」

 その人は、もともとギョロッとした目をさらに大きく見開いて尋ねた。

「やっぱり、遠藤部長」

 陽菜は、驚きとゲッという負の感情とが入り混じった、苦い吐息とともに言った。

「ははは、こりゃ、びっくりした」

 でもその人は屈託なく笑い、そして、続けた。

「もう部長じゃないから。ただの遠藤です」

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