俊也1
陽菜がお茶をいれ、インスタント味噌汁と温めた弁当をテーブルの上に残し、心配しているらしいのと毒づいているのと半々の言葉をまき散らして部屋を出ていくと、俊也はもっそりとベッドから起き上がった。ずっと目は覚めていた。でも、眠っているフリをして陽菜を無視した。そうすれば、陽菜がどうするのかは、よく分かっている。
俊也はテーブルに近づき、弁当を見下ろす。
値引きシール付き。唐揚げ弁当。
はあ、と一つ、ため息を吐いてそれで、……椅子に腰を下ろして食べ始める。
自分が陽菜に甘えている、あるいは、つけ込んでいるということを、俊也は嫌というほど自覚している。だが、もっともっと、つけ込んでやるんだと思っている。
陽菜は、兄・元也の元カノだ。
元也は、壊れてしまった弟を元カノに押しつけて、勝手に出ていってしまった。元也は常識も無い、学歴も無い、忖度もしない、長いものにも巻かれない、というか、何が「長いもの」なのかなんて興味すら無い。
ただただ、本能のままに、自由に生きている。
そのくせ、誰もが、元也のことを好きになる。おいしいところを、みんな元也が持って行ってしまう。
俊也は小さい頃からいつも兄のことを意識していた。要するに、兄のことが嫌いだった。だから、兄にまつわるものすべて、特に、兄を愛する人たちを見ていると、吐き気がした。そういう象徴みたいな女が陽菜なのだ。だから、つけ込んでやるのだ。
スマホでSNSを眺めながら、あらかた食べ終えたところで、LINEが来る。
間宮あさみ。
大学のサークルで3つ後輩だった子だ。
間宮には、自分が会社を辞めてしまったことを言っていない。というか、大学の友人たちにはまだ、誰にも言っていない。どうせ、いずれはバレてしまうのだろうけれど、タイミングを逸した。
辞めた――というよりは、会社に行けなくなった時には、あまりにも壊れていて、そんなことにまで全然気が回らず、そして、気が回るまでに状態が戻った時には今度は、ずいぶん時間が経ってしまっていた。
間宮からのLINEは、
「先輩、忙しいのにすみません。月がきれいです」
それで、満月の写真とスタンプ。
俊也は、残った味噌汁をすすり、立ち上がって窓を開けてみた。
外の風が直接、俊也に当たる。さっき、陽菜が来るまで、一日中、外気には触れていなかった。
ドラッグチェーン・ハナコでバイトもしているし、実は結構、深夜にジョギングなどもしているし、だから物理的に引き籠っているわけではない。わけではないが、たぶん、精神的には引き籠り状態になっている。
見上げると、たしかにまんまるのきれいな月が浮かんでいた。
俊也が知っているのは、1年生だった間宮だ。最後に直接顔を合わせたのは、サークルみんなで行った初詣か。いや、後期末試験の最中に、大学構内で友だちと歩いているのを見かけはした。
大学生になり、ぱっと派手やかに大変身する子もいるけれど、逆にほとんど変わらないタイプもいる。間宮は後者で、その時も、まだ高校生みたいに見えた。それが2月。
その後、コロナが広がってきた3月に、ウェブ飲み会をしたのだけれど、間宮はネット接続が上手く出来ずに、結局、同級生の子のスマホにLINE電話で顔を映してもらい、そのスマホを同級生の子の隣に置いて、それで参加していた。だからその時は、間宮の顔はほとんど見えなかった。
そして、その頃から時々、間宮はLINEを送ってくるようになった。
その間宮あさみも、もう3年生になる。たしか、サークルの副代表になったと言っていた。あの、鈍くさい高校生みたいだった間宮が。もう、鈍くさくも、高校生みたいでも、無いのかもしれない。
コロナがなければ、この1年と少しの間で、OBと現役として直接顔を合わせる機会もあっただろうけど。そもそも、サークル自体、なにしろ旅行サークルなので、ほとんど活動できなかったみたいだ。大勢での旅行なんて、一番のNGだったから。
いや、もしコロナが無かったとしても、自分は顔なんか出せなかった。
自分は、――壊れていたから。
壊れて、「いた」? 「いる」の間違いでは?
俊也はスマホで満月の写真を撮った。間宮に送信しようと思ったからだけれど、確認してみると肉眼よりもずっと小さく、しかもピンボケで、全く冴えない写真になっていた。
俊也はそれを少し眺めてから、消した。
LINEに既読を付けて、
「いま見た。ホント、きれいに満月だ。きれい過ぎ」
そう書いて、涙を流している絵文字を付け足して、改めて見直して、――絵文字だけ消して、送信した。
今日は表に出る気になれない日。だからまあ、返信の写真も無し。
兄から遅れること2年で上京して来たけれど、別々に住んだ。親が仕送り増額に納得しなかったから、最初、家賃の分までバイトでと思った。兄とは、絶対に別が良かった。俊也はあれこれ考えて理屈をつけたが、親はやはりうんとは言わなかった。結局それを理屈ではなく、うやむやに丸め込み、俊也の家賃まで出させてくれたのは、兄だった。
自分は元也と正反対なのだと、俊也は思う。いつも常識をわきまえ、勉強に励んで世間にも名の通った大学を卒業し、名の通った企業に就職した。配属先では上司や先輩の気持ちを忖度しまくり、変だなと感じる会社の習慣にも従った。
どこでしくじったのか、どうすれば良かったのか、未だに俊也にはよく分からない。入社してまだわずか3か月だった。
最初の兆候は下痢だった。頻繁に下痢をするようになったのだ。だがそれすら、すぐには「異変」とは気づけなかった。ただ単に、最近よく腹を壊すなあと、ぼんやりと思っただけだ。
その頻度は、いびつに加速した。
襲ってくるのは朝だった。
朝、起きられなくなった。
それでも無理やり出勤した。
そうしたら、過呼吸の発作を起こした。上司から叱責を受けている途中、上司の机の前でだ。
倒れていきながら、ああ、終わったなあと、思った。
嫌なことは嫌といい、好きなことだけをして、それでみんなに好かれて、そういう兄に本当は憧れもあって、でも性格も違うし全然真似が出来なくて、それで嫌いになって。その反発からずっと努力を惜しまず、がんばって、がんばって、がんばってきて……、これまでに築いてきた努力とか忖度とか常識人とか、そういう自分を守る城壁が実は全然脆いものだっていうことに本当は気づいていて、でも気づかないふりをして、それでさらに、がんばって、がんばって、どこまでがんばればいいのか分からなくなりながらがんばって、……そういうすべてが、終わったと思った。
無駄だった。
努力、全部、無駄だった。
やっぱり、本能だけの元也に、敵わなかった。
本当は分かっていたのかもしれなかった。
もう、見てみぬふりなど出来ない。
負けた。
終わった。
全部。
そしてやっぱり元也が嫌いだ。
誰も教えてくれなかったけれど、上司や先輩が自分にやったことは、典型的なパワハラだった。それを俊也は、退職してから知った。